(1) 39歳、ガンで逝った織田美保子さんの遺稿集の書評(1)分かりやすい文章、美しい日本語、(2)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(2)結婚しようとしている男性、夫婦生活をしている夫が読むべき書
上の2つの記事は「風を愛したひと」という本の書評です。取り澄ました冷静な書評です。しかし私の本当の気持ちを書きませんでした。書けば感情的に取り乱した意味不明な書評になってしまうからです。今回は取り乱した私の感情の動きを書きます。そしてそんな悲しい、辛い思いをして何故この本を読むべきかという理由を整理してご説明いたします。
まずこの本の著者をご紹介いたします。織田美保子さんの遺稿が4割ほどのページ数を占めています。そして夫の寧人さんの病状の進行の説明と折々の感想文や詩が4割ほどです。あとの2割位のページは美保子さんの数多くの友人からの手紙です。
ですから著者は織田美保子、織田寧人、友人達の共著なのです。編集を担当したのが織田寧人さんです。
38歳で胃ガンになり転移がどんどん進み、39歳で亡くなった織田美保子さんが苦しい、痛い、病状を克明に書いています。全身の痛さと辛さで叫びたいほどです。次第に身が痩せ細っていきます。中学生の娘と小学生の息子を残して逝ってしまう無念さが行間に溢れています。毎日のように見舞いに来て、泊って行く夫とも間もなく別れるのです。その事だけを読んでも涙が流れ落ちます。
その上、夫の書いた文章や詩がせつせつとして悲しみに満ち溢れています。何故こんな残酷な試練を神が下すのでしょうか。涙無しには読み進めません。私はカトリックの信者ですが、今回ほど神様のことが分からなくなったことがありません。神様はあまりにも無情です。何故かくも善良な人だけを選んで苦しめるのでしょうか?
そして本当に数多くの友人達が毎日お見舞いに行きます。見舞いの手紙をくれます。その手紙にまた泣けるのです。どんなに友情が篤くてもガンの進行は止められません。見舞いに行く度に美保子さんの身は細く、細くなって行くのです。病床で身の置き所が無い位苦しんでいる様子が分かります。友人みんなが病室を出たとたん泣きながら帰って行きます。
この本を読むと悲しさで辛くなります。涙が流れ慟哭したくなります。
それでは何故そんな辛い思いをしてまでこの本を読むべきなのでしょうか?
読めば自分が死ぬときの状況が分かるのです。いさぎよく死ぬための心の準備が出来るのです。そして39歳以上長生きした全ての人々は自分の幸運さが分かるのです。感謝の気持ちが心を支えてくれるのです。この二つが辛い思いをして読んだことに対する報酬なのです。大きな、大きな報酬です。
しかし私はもう一つの事を考えています。
この「風を愛したひと」という本を手にとって読んでは机の上に置き、また手にとって読みます。そうすることが亡くなった美保子さんの供養になるのです。私は宗教を時々信じていますから、供養になると確信しているのです。
美保子さんの供養になれば夫の寧人さんも心安らかになります。遺族の方々の心がなごみます。美保子さんの友人達も少しだけ心がなごみます。
この本の入手方法は、http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/kazeai.htm に御座います。「風を愛したひと」を検索するとこのURLが出て来まして、織田寧人さんへのメールが送れます。
是非多くの方がこの本を読んで下さい。あなたの為になるだけでなく、美保子さんの供養になるのです。
下の写真は夫の寧人さんのブログからお借りしました。
この10月29日にTadnobleという方へ愛艇を譲りわたし、いさぎよくヨットを止めました。
26年間にわたりヨットの趣味を楽しみました。その間、本当にいろいろな方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無く終える事が出来たのです。
ヨットを通しての友人達と、もうお会いすることもありません。お別れの手紙を送りたいと思いますが、今日はある一人の方への手紙を書きました。
Hootaさんという方です。3年ほど前に彼の艇を訪問し、一晩ビールを飲みました。それから駿河湾で素晴らしい帆走に誘ってくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の大型艇、Bambino で東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方です。
そのBambino号は千葉県の保田港を母港にしていました。遠路を車で行き、やっとたどり着きました。 3年半前の春の暖かい日でした。
彼は他のヨット乗りをまじえて4人で木造艇のニスをサンドペーパーで落とす作業をしていました。古いニスを丁寧に落とし、新しいニスを塗る作業です。職人のように丁寧な仕事ぶりです。
夕方からはHootaさんと2人だけでビールを飲みながら歓談しました。
私は、「このような豪華なヨットにのっている人々は別世界の人のような気がしますが?」と、彼に聞きました。
「皆さん、普通の人々です。生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々で話がすぐ通じますよ」。
私は何となく安心して、Hootaさんと気持ち良く冷えたビールを楽しみました。時折波が来て静かに船を揺らしてくれます。マホガニーで内装したキャビンにはいかにも帆船らしい古風な電灯がついています。気分が良いので夜遅くまで飲んで、それから私は陸に上がって近くの旅館に泊まりました。彼はヨットの中の寝室に泊まったのです。
Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。安定した職業をサラリと止めて、黒姫山に住んでいるニコルさんが主宰していた「レンジャー養成学校」の先生になりました。
ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。初めて保田港でお会いした当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。
千葉県の内房総の保田漁港に係留してある大型北欧風ヨット、Bambinoの保守管理を任されていました。
話題は16歳のとき、ヨットを指導してくれた師匠の素晴らしさ、ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫に造成した美しい林のこと、東京ベイヨットクラブを主宰しているK氏の卓見などなどでした。
全ての出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだ、と感じました。奥様の話も出ました。法務省に務めているそうです。結婚のいきさつなどを楽しそうに話してくれました。
始めは夕陽を見ながら甲板で飲んでいました。夜になったので、美しいキャビンの中で飲み合いました。そしてこの北欧の大型ヨットで是非一緒に帆走しませんかと招待してくださったのです。その約束は後に駿河湾で実現しました。
下に初めて一緒に飲んだ時の夕陽の写真、Bambinoの写真、Hootaさんの写真などを示します。