後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

真珠湾攻撃までの市民生活と農村の人々(1)味噌、醤油、酒は量り売りが普通だった

2011年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新から1941年12月の真珠湾攻撃までは、日本の内地の生活には平和があり、都会では欧米風の市民生活もすこしずつ普及して来ました。農村には地主と小作人が居て、江戸時代とあまり変わらないところもありましたが、小学校が普及し、裕福な人は都会へ出て出世していったのです。

しかしこのような秩序ある社会は真珠湾攻撃によってすっかり壊れてしまったのです。

真珠湾攻撃の大成功に全国民が狂喜し、やがてその大狂喜は狂気の戦争へと自然に続き、日本が有史以来の破滅の運命に遭うのです。

私は1936年に仙台市に生まれたので戦前の市民生活を少しだけ覚えています。

そこでかすれ行く記憶にたよりながら真珠湾攻撃までの市民生活と農村の人々について、その断片的なスケッチを連載で描いて行きたいと思います。

今日は味噌、醤油、酒、油、そして多くの食料品は量り売りが普通だったことをご紹介します。

小売店には一升枡や一合升があり、醤油や油や酒を、持参して行った空瓶に升ではかって売っていました。私の家には2人の女中が居て、空瓶を持って買いに行っていました。勿論、宴会などで多量に必要な時は店の小僧が瓶ずめのまま配達してくれました。

野菜や魚は毎日、御用聞きが家に来て注文をとり、夕方配達してくれました。

店への支払いは毎月の月末に集金人へ払います。

重さで売る商品を置いてある店には必ず「竿はかり」があり分銅を一方に吊って重さをはかっていました。重さは1貫目、100モン目などという単位を使っていました。

カツオ節やスルメは一本や一枚でも売ってくれます。勿論お菓子も一個ずつ売ってくれます。

このような売り方と支払いの方法は戦後も残り、東京オリンピックの1964年頃までの日本の商売の習慣だったのです。

このような売り方は買い手にとって便利です。しかし商人はそれで儲かっていたのでしょうか?今、考えると不思議な気がいたします。

下にそんな戦前の商店の風景写真を送りいたします。小金井公園内の「江戸・東京建物園」で一昨日撮った写真です。

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樹木の多い公園、そして老齢、その輝く時の流れ

2011年10月24日 | インポート

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小金井市には広大な都立公園が2つあります。北側に都立小金井公園、そして南側に都立武蔵野公園です。この南側の公園は野川が流れているので、何時もは野川沿いの遊歩道を散歩してきます。ところが昨日は野川から離れて南の林の中を家内と散策して来ました。色々な樹木が植えてあり鬱蒼とした林になっています。

樹木が多いのは、この公園の南半分が他の都立公園へ樹木を供給する木々の畑になっているためなのです。その畑の中の道は、森の中の道のようです。

そんな道に迷いこむと、何か山奥の林の中を夫婦で歩いているような錯覚に捕らわれました。その瞬間、今まで味わった事の無い幸福感が身を包みます。そして周りの樹木が一瞬輝き出しました。50年も一緒に住んできた男女が二人で老後に林の中を歩く。何か奇跡のようです。キラキラ輝く時が林間を風のように流れて行きます。そうです。老年になると生きているだけで幸福感に包まれるのです。何もしないで公園の樹木の間を夫婦で歩くだけで満足なのです。このような幸多い境地を、若い時は想像も出来ませんでした。

何時かは一方が先に旅立ちます。それだからこそ林の中の道の散策が一層貴重に思えるのです。

老齢の皆様にはそのような経験がありますでしょうか?お二人そろって林の中の道を散歩する幸福をお祈り申し上げます。  (終わり)

写真  トウカエデ ドッグウッド ケヤキの林      ネズミモチ ドッグウッドの実

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人