明治維新から1941年12月の真珠湾攻撃までは、日本の内地の生活には平和があり、都会では欧米風の市民生活もすこしずつ普及して来ました。農村には地主と小作人が居て、江戸時代とあまり変わらないところもありましたが、小学校が普及し、裕福な人は都会へ出て出世していったのです。
しかしこのような秩序ある社会は真珠湾攻撃によってすっかり壊れてしまったのです。
真珠湾攻撃の大成功に全国民が狂喜し、やがてその大狂喜は狂気の戦争へと自然に続き、日本が有史以来の破滅の運命に遭うのです。
私は1936年に仙台市に生まれたので戦前の市民生活を少しだけ覚えています。
そこでかすれ行く記憶にたよりながら真珠湾攻撃までの市民生活と農村の人々について、その断片的なスケッチを連載で描いて行きたいと思います。
今日は味噌、醤油、酒、油、そして多くの食料品は量り売りが普通だったことをご紹介します。
小売店には一升枡や一合升があり、醤油や油や酒を、持参して行った空瓶に升ではかって売っていました。私の家には2人の女中が居て、空瓶を持って買いに行っていました。勿論、宴会などで多量に必要な時は店の小僧が瓶ずめのまま配達してくれました。
野菜や魚は毎日、御用聞きが家に来て注文をとり、夕方配達してくれました。
店への支払いは毎月の月末に集金人へ払います。
重さで売る商品を置いてある店には必ず「竿はかり」があり分銅を一方に吊って重さをはかっていました。重さは1貫目、100モン目などという単位を使っていました。
カツオ節やスルメは一本や一枚でも売ってくれます。勿論お菓子も一個ずつ売ってくれます。
このような売り方と支払いの方法は戦後も残り、東京オリンピックの1964年頃までの日本の商売の習慣だったのです。
このような売り方は買い手にとって便利です。しかし商人はそれで儲かっていたのでしょうか?今、考えると不思議な気がいたします。
下にそんな戦前の商店の風景写真を送りいたします。小金井公園内の「江戸・東京建物園」で一昨日撮った写真です。