後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

再び景信山へ登ってきました・・・老人の体力テスト

2011年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

10月1日に景信山へ登りましたが頂上まであと200mの所で疲れ果てて帰って来ました。そこで今日は午前中に家を出発し頂上まで登って来ました。

かなり険しい登りの連続だと思っていたら、頂上は標高727mもありました。小仏峠の下の駐場の標高が369mなので、標高差358mも足で登ったことになります。

駐車場から小仏峠まで40分、そこから景信山の頂きまで40分。通算、1時間20分で登りました。万歩計で往復で12000歩、距離6.2kmでした。

頂上からは新宿の高層ビル街が見える筈ですが、今日は下の写真のように見通しが悪くて見えませんでした。

景信山への道で沢山の老人に会いました。皆さんが凄く元気な声で挨拶してくれます。それにしても元気な老人が沢山登っていることに驚きました。平日だったので若い人がほとんど居ませんでした。

皆様も体力テストのおつもりで景信山へ登ってみませんか?

JR高尾駅から小仏行きのバスがあります。終点で下りると登山口へと続く道があります。表側にある高尾山ほど人が居ません。昼食を食べる食堂も、お土産屋も一切ありません。有るのは自然だけです。皆は昼食持参で頂上で食べていました。

ご参考までに頂上の写真をお送り致します。

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感動的なペンション・ボーンフリー・・・その3つの魅力

2011年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

民宿やペンションは個人経営なので経営している人の個性が強く出るのが普通です。うっかりすると個性の押し売りが起きます。別に悪意は無い事は分かっていても敬遠したくなります。しかし今回家内と宿泊したペンション・ボーンフリーには感動しました。

第一に、建物の設計が良いのです。丁寧に考えられていて、ロマンチックに作られています。お風呂や薪ストーブなどの設備に惜しげも無く投資がしてあります。機能的で趣味の良い家具や食器が使われています。

第二に、食事が美味しいのです。魚料理も肉料理も手間暇かけてじっくりと仕上げてあります。オーガニック栽培の野菜はサラダでも、温かい野菜料理でも美味です。美しく皿に盛りつけた料理の量も充分です。コーヒーもヨーロピアン風の味です。ヨーグルトもパンも自家製です。

第三に、26年間も経営しているご夫婦がプロ意識に徹底しているのです。お客に負担をかける個性の押し売りは皆無です。いつぞやあるペンションに泊ったときご主人が料理法の説明をえんえんとするので参った事がありました。

料理は食べて美味しかったらそれで良いのです。うるさい説明は一切無い方が良いのです。

その上、経営者の安っぽい趣味でチャラチャラした造花やぬいぐるみを壁一面に飾ったペンションに泊った事もあります。翌朝、支払いを済ませて外に出たとたん何故か、「助かった!」とホッとした経験があります。そういうタイプのペンションが意外に多いものです。今回泊ったペンションは違います。

ペンション・ボーンフリーはご主人と奥様のセンスの良さと、お人柄の素晴らしさに初めてペンションを体験した家内もすっかり感心していました。

ここは私の山の小屋に一番近いペンションです。布団を車に積んで、山小屋のカビ臭い、寒い部屋に泊るのはそろそろ卒業しようと、近所のぺンションに泊ることにしたのです。インターネットで調べて、初めて泊る所です。ペンションは当たり外れが大きいので覚悟をしてチェックインしました。

大きな夕日が斜めに射しているウッドデッキの上にテーブルと椅子があります。ご主人がそこでコーヒーを淹れて歓迎してくれました。家内が美味しいコーヒーに感心している傍で私はビールです。あまり心地良いので暗くなるまで飲んでいました。

ダイニングに入ると写真の示すようなマホガニー色の二スを塗った椅子や壁があります。片隅には大きな外国製の薪ストーブが暖かく燃え盛っています。

それから風呂に入りましたが、その風呂が趣味の良い石造りで大きなガラス窓の外には中庭が見えます。手入れの行きとどいた中庭です。

そして夕食が感動ものです。オードブルに出た生ハムが絶品です。燻製の豆腐も楽しめました。カボチャのスープは丁寧に裏濾され、生クリームが程良く入っています。

魚料理は大きめのヒラメのムニエルに風味豊かなイタリア風ソース ジェノベーゼがたっぷりかけてあります。よくスズキのポワレと称して一口で食べられる小さな切り身が出て来ます。切り身の回りにほんの少しのソースが皿の模様のようにシャレてかけてあります。あまりにも少量で味も分かりません。ところがボーンフリーの魚料理はそんな子供騙しではありません。下にその魚料理の写真を示します。メイン・ディッシュの肉料理は牛のワイン煮です。シチューです。深い味わいです。ナスと2種類のピーマンも美味でした。

食べ物の事ばかり書くと意地汚くなりますので止めます。しかし止める前に一言。朝のサラダとベーコンが秀逸なのです。サラダはレタスとトマト、それとピクルス。中でも淡いピンクに染まったキャベツは珍しい美味しさでした。日本風に言えば漬けものです。ところがシャキシャキ、カリカリという心地良い歯ごたえがあるのです。ベーコンは燻製のよく効いた昔風の味です。本物です。

支払いを済ませてからお二人にいろいろ聞きました。自分で生ハムもベーコンやチーズの燻製をし、ヨーグルトも自家製、パンも自分で焼くそうです。ベーコンと燻製のチーズと燻製の豆腐は買う事ができます。私も購入しました。

使っている野菜はすべてお嬢さんの経営している有機野菜の農場で作るそうです。スイスへ留学して本格的に有機農業を勉強して来たそうです。その野菜を使った料理を食べたければ月、火、水、土、日に11:30時から営業するランチがお薦めです。

ペンション・ボーンフリーのホームページ:http://bornfree.jp/ に詳しいことは出ています。昼食でもなるべくなら電話で予約してほうが良いと思います。

結論を言えば、「このペンションは一流ホテルなみのサービスと食事が低料金で得られる」という事になります。料金のことを書くと下品になりますが、料金以上のサービスなのです。その事は書かずにはいられません。

なおホームページの中の以下の記事は是非ご覧下さい。このペンションの近所の風景やイベントの写真が豊富に出ています。

白州・四季のいちページ(更新記録)
2001年の記録 2002年の記録2003年の記録 2004年の記録2005年の記録 2006年の記録 2007年の記録 2008年の記録2009年の記録 2010年の記録2011年の記録

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辛亥革命100周年記念事業をする中国を日本人はどのように考えるべきか?

2011年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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(左の写真は一昨日の10月10日の辛亥革命100周年記念会議に飾られた孫文の写真で、右はその記念会議に出席した胡錦濤国家主席と江沢民前国家主席です)

中国の辛亥革命は1911年10月10日に始まり、清朝が滅亡し、翌年、孫文が率いる中華民国が成立したのです。その後、国民党の蒋介石が引き継ぎ、日中戦争へと続くのです。その間勢力を伸ばしてきた中国共産党は国民党と合作して、共同で日本の軍事侵略へ対抗したのです。その間、日本は満州の数多くの馬賊を帰順させ、最後に満州を勢力圏にしていた張作霖を爆死させ満州帝国を樹立するのです。

その満州帝国の皇帝には、孫文が倒した清朝の最後の皇帝の溥儀が即位したのです。勿論その即位は日本の関東軍の陰謀によるものでした。

1911年に清朝が滅亡する前にも日本は日清戦争に勝利し、中国へ過酷な要求をしたのです。そして中国を日本の権益圏にしたのです。

したがって、日本は1867年の明治維新から1945年の第二次大戦の敗戦に至るまでの実に78年間の長きにわたって中国人を苦しめて来たのです。

この歴史的事実を返り見ると隣の国で辛亥革命100周年記念事業をしている時、どのように考え、どのように対処すべきでしょうか?

心から謝ってしまうのがまず第一歩ではないでしょうか?

孫文が日本に長い間亡命していたとき、宮崎宮滔天や山田良政・純三郎兄弟、そして梅谷壮吉などの日本人が熱心に孫文の生活を支援し、革命活動へ協力しました。

その事実は立派な行為でしたが、その後の日本軍の暴虐ぶりが日本人の善行を消し去ったのです。残念ですが中国人は孫文を日本人が支援したことを知りません。それは歴史の闇に消えてしまったのです。

そして日本の敗戦後、中国共産党は国民党を台湾へ追い落とし、大陸を統一して、1949年に現在に続く「中華人民共和国」を樹立したのです。

1949年以後は日本は中国へ直接軍事行動はとっていませんから無罪です。しかし、朝鮮動乱やベトナム戦争の間はアメリカの空軍や海軍は日本、特に沖縄の米軍基地から出撃していた事実を忘れてはいけないと思います。

中国の共産党を長い間、軍事的に支援したのはソ連でした。1953年にスターリンが74歳で死ぬと、ソ連と中国の蜜月時代がかげり始めます。そして遂に1959年に中国はソ連と決別し、敵対するのです。

毛沢東はソ連との全面核戦争を覚悟し、全国に深い防空壕を作りました。当時の中国の人口は6億人と言われていました。毛沢東はその半分の3億人がソ連の核攻撃で死んでも3億人が残るから中国が勝利すると演説をしました。

私は1976年の毛沢東の死後の1981年に中国の幾つかの大学へ行きました。その時非常に長い階段を下りて行った深い地下室に案内されたことが3回ありました。そうして先方の教授が言うのです。「中国はアメリカの核攻撃があってもこのような深い防空壕が沢山あるから勝てるのです」と。

実はソ連との核戦争の為に掘った防空壕ですがアメリカの核攻撃にも勝てると言うのです。

その時、「ああ、私も含めて多くの日本人は1949年以後の中国大陸のことを知らな過ぎる」と愕然としたものです。

そして1950年代の後半、毛沢東による大躍進政策の失敗によって3400万人から4000万といわれる餓死者が生じたのです。その失敗で毛沢東は国家主席を追われます。しかし1966年から始まった紅衛兵運動と文化大革命で再び権力を掌中にするのです。この続編ではその毛沢東の時代に中国人は日常どのように苦しんだかを書く予定です。中国の大学の人々から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人