後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ロマンティッシュ・シュトラーセの町々(1)バンベルク、Bamberg

2011年10月03日 | インポート

もう随分と昔のことですが、1969年から1970年にかけてシュツットガルト市にあったマックスプランク金属研究所で働いていました。そこに赴任する前にロマンティッシュ・シュトラーセ沿いのローテンブルグでドイツ語の集中研修に参加しました。

その関係で、その後ローテンブルグとシュツットガルトの間を何度も車で往復しました。その折に中世のロマンティッシュ・シュトラーセ沿いの町々を車で通りました。

ロマンティッシュ・ストラーセとは日本の鎌倉街道のようにローマへの街道という意味です。特にロマンチックな街道という意味はありません。

赤い屋根の石造りの中世の家々が城壁に囲まれた町が幾つも通り抜けるみちでした。

あれから茫々、40有余年、懐かしさのあまり記憶に残る町々のホームページを開き、その町の風景写真を見ています。

現在も変わらないヨーロッパの雰囲気をご紹介したいと思い、連載で町々のホームページの写真を掲載して行きいたいと思います。

このBambergを通過するときは写真の市役所の門のような城門を必ず通ったものです。町にはバイパス道路が無くて、古くからの城門の石畳の道路を車でゆっくり通り抜けたのが印象深くて忘れられません。その石畳の道はでこぼこで、タイヤの音がゴボゴボと古い家々の壁に反響するローマ時代の道路でした。

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自分の住んでいる所を客観的に見るとこんなところです

2011年10月03日 | 写真

東京都の小金井市は日本橋から真西へ26kmの所に広がる住宅地です。多くの人が都心へ通勤しています。通学生も多いのです。市の人口は11万人です。

そこに住み始めてから丁度47年になります。生まれ育った仙台に24歳になるまで住んでいました。その倍近い年月を小金井市に住んでいたことになります。これも運命なのだと思います。それにしても住んでいる所を客観的に見たいと思い駅の南側にあるイトーヨーカ堂の6階から写真を撮ってきました。

南西の方角に丹沢連峰が見え、その向こうに富士山が見える筈ですが、今日は厚く雲がかかっていました。北西方向の我が家のある方向の写真を下に示します。

写真の真ん中に写っている森は公園の樹木です。我が家はこの森の陰にあります。

この写真の遠景を撮ったのがその下の写真です。西北の方向に奥多摩の山並みが見えます。真ん中が御岳山で、右の一番高い山が大岳という山です。

家から青梅市のJR御岳駅までは車で1時間かかります。近い観光地なので以前は毎週のように遊びに通ったものです。

小金井市の土は関東ローム層で水捌けが良すぎて水田が作れませんでした。江戸時代から玉川上水の水を分岐した小金井用水を用いて、畑作だけをしていました。水田が出来ないと村は貧しいのが普通でした。特産品も栗の他は無く、あまり豊かとは言えない土地がらでした。

江戸時代の有名人といえば侠客の小金井小次郎だけです。しかし彼もしまいには捕まって三宅島に流され、其処の土になりました。

その縁で三宅島村と小金井市は姉妹都市の関係をもっています。

小金井市には有名な神社仏閣もありません。大工場も無く、競馬場も無い、都会と田舎の中間のような小さな市です。大きな都立公園が南と北にあるのが良い点でしょうか。このような地味な土地もあるのですね。皆様の住んでいらっしゃる所はどのような所でしょうか?

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旧甲州街道、小佛峠への急坂で考えたこと(1)明治維新による大変化

2011年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

小仏峠へ登る狭い急な坂道が江戸から甲州へ抜ける甲州街道でした。現在はハイキングコースとして人々が登り降りしています。苦しい40分間の登りです。

馬も苦労するような狭く、曲がりくねった坂です。その狭さに吃驚します。本当にここが甲州街道だったのでしょうか?

この山道を登りながら私はいろいろな事を考えました。明治維新のこと。第二次大戦のこと。そして東日本の大震災のこと。それらを3回の連載にして掲載して行きたいと思います。

江戸から甲州に通う道は武田信玄一族が滅んで、徳川幕府が出来たときに早々と整備されました。北条氏照の城だった八王子城を廃城にして、その南の峠の小仏を通る道を甲州街道にし、小仏関所を作りました。

そして八王子に新しい町を作り、江戸の西方を守る千人同心を配置したのです。江戸幕府は、この下級武士団に武田信玄や北条氏照の下級武士を採用したと言われています。現在も八王子には千人町という町があります。

その頃に小仏峠を通る甲州街道が整備されたのです。それ以来、自動車道の出来る明治時代の中ごろまで、この狭い急な山道が唯一の街道でした。初めて山梨県の県令に任命された人も、そして甲州へ行幸した明治天皇もこの山道を通ったのです。

山駕籠と駄馬がやっと通れる幅しかありません。

明治維新の文明開化で蒸気機関車や自動車が全国に普及するまではこのような急坂の峠道を全国の人々が登っていたのです。明治維新で急に昔の道が廃れたのではなく、ゆっくりしと少しずつ近代的な交通手段へ変わって行ったのです。

明治元年に全てが一新したのではありません。明治時代の苦しみを想像すると近代文明の導入に努力した人々に頭が下がります。

そして新幹線や高速道路のある現在から考えると、江戸時代と現在の交通事情のあまりにも大きな変化に愕然とします。

交通の便利さは、人々の考え方や思想も大きく変えたのです。江戸時代までは自分の住んで居る藩だけが世界でした。それだけが宇宙だったのです。移住の自由など想像も出来ません。

よく近代文明の導入で古来の日本文化が消えて行った。人々はなにかせわしげになって不幸になったと近代化へ対して否定的な主張をよく見ます。

しかし私は交通の自由さ、移住の自由さを心から有難く思っています。それは平等で自由な国を作る根底になっているからです。

それにしてもこの甲州街道は狭く、急で、息が切れるとブツブツ言いながら登りました。ある日の山道でのつまらない思いでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人

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