後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏の思い出2題・・・霞ヶ浦の帆引き漁と孫達の川遊び

2012年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログも、今年の秋が終わり、11月になると満5年間続けたことになります。

毎日2つ、3つの記事を掲載して来ました。

書くことによって経験が再確認され、その経験の中に新しい発見があるのです。書くと新しい問題が出て来ます。家族との旅のことを書くとその旅をもう一回楽しめます。 その上写真や文章が残るので、それを見て思い出を楽しむことも出来ます。

今日は、4年前の8月はどのような事があったかブログを見て楽しんでいます。

皆様にも楽しんで頂けるような夏の風物詩の霞ヶ浦の帆引き漁と、孫達の川遊びの写真を以下にお送り致します。毎年同じような夏の風景が繰り返されるのですね。

あなたさまは夏をどの様に過ごされますでしょうか?

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幅の広い大きな網を船の横幅いっぱいに水中へ入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。

8月にはワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。東風の吹く日は毎日毎日、大きな白帆が沖に見えます。

ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。

白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0298-28-0804)で食べることが出来ます。川海老の天麩羅や釜揚げもあります。うなぎは焼きの濃い昔風の蒲焼です。(撮影日時:2008年8月22日午後2時頃 )

次は山梨の北杜市の甲斐駒岳の麓にある川での川遊びの様子です。

2枚目の写真に4年前の3人の孫が写っています。あれから4年間で孫達も随分と大きくなったものです。年月の流れの早さに吃驚しています。

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8月半ばをすぎた川にはなんとなく秋の気配が漂っています。行く夏を惜しむがごとく子供たちが精一杯、川遊びに興じていました。空の雲も晩夏のたたずまいです。山林の中の小屋の近所の「フレンドリー武川」というオートキャンプ場公園の側の大武川での数ショットです。(撮影は2008年8月17日です。)


文藝春秋九月特別号、特集「太平洋戦争 語られざる証言」を読む

2012年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム

明日の終戦記念日にふさわしい読書はいろいろあるでしょうが、最近発売された文藝春秋九月特別号の中の特集「太平洋戦争 語られざる証言」は一つの優れた読みものと思います。

その内容の一部は今朝掲載しました、「地獄の沖縄戦を脱出し台湾へ渡ったある陸軍将校の話」という記事でもほんの少しご紹介しました。

しかし実際に戦争の本当の恐ろしさを体験するのは過酷な戦場に居た兵士たちだけです。作戦本部に居る参謀や将校には分からない現場の残酷さが兵士たちの深い心の傷になっていまうのです。その傷は家族にも絶対に話せない傷です。いや家族だからこそ話せないのです。ただ意味も無く怒鳴るだけです。その心の病は戦後何十年にもなっても残るのです。そして死ぬ間際になって叫ぶのです。

このような兵士たちの心の傷を丁寧に、根気よく聞き集めた人がいます。ノンフィクション作家の保坂正康さんと梯久美子さんです。

「太平洋戦争 語られざる証言」の冒頭に掲載されている「封印された「兵士の記億」」がその対談です。随分と多くの元兵士と会い、注意深く戦争の記憶を掘り出しています。家族には話せない残忍な体験や心の重荷を自宅から離れた場所で、静かに聞き出すのです。

戦後67年たってやっと本当の事を元兵士たちが話し出したのです。

この「封印された「兵士の記億」」を読むと戦争の真実が少し理解できます。

私は戦後、第二次世界大戦に関する本を数十冊以上読みました。しかし「封印された「兵士の記億」」ほど戦争の恐さを実感したことが無かったような気がします。

ここで「兵士」という言葉を使っていますが、それは戦場の修羅場を体験した将校も、そして民間人も含めるべきかも知れません。羅場を体験したという意味では将校も民間人も皆同じです。

しかし、生き残った後の戦後の生活が違うのです。兵士だった人の戦後の生活は一層厳しいのです。そいう意味でも兵士は記憶を封印しなければならなかったのです。

私はノンフィクション作家の保坂正康さんと梯久美子さんへ深い敬意を表します。

そして皆様も是非ご一読されますようにお願いいたします。

下に「太平洋戦争 語られざる証言」の目次だけを示します。

出典はhttp://gekkan.bunshun.jp/articles/-/419です。

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完全保存版「太平洋戦争 語られざる証言」 pp250ページから363ページまで

保阪正康/梯久美子 封印された「兵士の記憶」

五木寛之 平壌を遠く離れて

千玄室 特攻隊同期の西村晃になじられ

真珠湾攻撃 愛機は泥水をかぶった

●ガダルカナル 日本兵に憑いた「死神」

「飛龍」山口多聞中将 妻への「恋文」  山口宗敏

海老名香葉子 大空襲で一家六人を失って

●大和艦橋から見た栗田艦隊謎の反転

硫黄島 バロン西の最期を見た

南京入城 「大虐殺」はなかったけれど

小野田少尉 ルバング島の「タブー」 森 史朗

立花隆 母が遺した引き揚げ体験記 橘 龍子

●ひそかに書きためた記録 立花 隆

ミッドウェー海戦 上空から見た三空母炎上

大震災中国戦線を俳句に託して 小原啄葉

野村万作 焼夷弾が奪った面と装束

戦艦大和の最期 上官は切腹して果てた

沖縄戦 今なお答えの出ない疑問

ゼロ戦 敗戦翌日の「特攻命令」

ニューギニア戦線 自決した司令官の慈愛

●人間魚雷 「回天」ついに発進せず

二・二六事件 憲兵は父を守らなかった 渡辺和子

ソ連軍侵攻 命を懸けた停戦交渉

インパール作戦 「死の山越え」

●空母 「赤城」に打ち込んだ二発の魚雷

紀野一義 台湾で不発弾処理千七百五十二発

内海桂子 狙い撃ちされた北支慰問

●特攻 「櫻花部隊」全滅の衝撃

杉下茂 俘虜収容所で初登板

●玉砕の島で 「潜伏生活」二年半

渡辺喜太郎 戦災孤児からバブル長者に

●軍医が用意した三千七百人分の青酸カリ

沢村栄治、嶋…戦場に散ったエース 早坂 隆

マリアナ海戦 空母「飛鷹」の悲劇

中国戦線 五万人の包囲をくぐり抜け

●父はスパイ容疑で六年拘束された エドナ・エグチ・リード

野坂昭如 二重写しの「焼跡」


「それから」の昭和天皇   福田和也


地獄の沖縄戦を脱出し台湾へ渡ったある陸軍将校の話

2012年08月14日 | インポート

1945年4月1日の米軍上陸から6月23日の日本軍の玉砕までの沖縄戦は阿鼻叫喚の地獄でした。9万人の軍人が死に、9万人の沖縄にいた民間人が死んだのです。下の写真は「ひめゆり部隊」に徴用される以前の女学校の楽しげな集合写真です。ニコニコ笑っていた女学生のはたして何人が生き残ったのでしょうか?

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写真の出典http://matome.naver.jp/odai/2127726384218993601 

ところで沖縄戦について長年疑問に思っていた謎がありました。何度も、葉山でヨットに乗せてもらった元特攻隊の田村さんから聞いた話です。

沖縄戦の真っ最中に士官学校を優秀な成績で卒業したあるエリート将校が単身、戦線を脱出して台湾へ渡ったという話です。沖縄に残した部下は全部戦死したそうです。

田村さんの話によると、彼は沖縄本島から焼き玉エンジンの漁船で石垣島、西表島、波照間島と夜だけ航行し、台湾の基隆(キールン)軍港の南の漁村に着いたそうです。

田村さんがそのエリート将校さんへ何故台湾へ行ったのですかと聞いたところ、それは軍事機密だと言って答えなかったそうです。私はこの話を忘れませんでした。

そうしたら文藝春秋の2012年9月特別号で謎がおおよそ解けたのです。

その中に「太平洋戦争語られざる証言」という特集欄があります。その欄の中に「沖縄戦、今なお答えの出せない疑問」という記事があります。そして台湾の状況は、「・・・・台湾で不発弾処理1752発」という記事に書いてあります。

この2つの記事を読むと以下のようなことが考えられます。

沖縄の防衛には満州から関東軍がまわり、牛島中将の指揮下に入ったのです。そしてもともと関東軍のエリート将校だった彼も沖縄に渡ります。

沖縄戦が始まり砲兵中隊長として奮戦していた彼が参謀に呼び出されます。「ひそかに単身台湾へ渡り、私と親しい台湾の参謀へ頼んで沖縄援軍を編成し、沖縄へ逆上陸せよ」。こんな命令を受けたに違いありません。台湾にはもともと沖縄に居た第9師団が駐留していたのです。

島づたいに必死で台湾に行ってみると台湾の日本軍もアメリカの爆撃で戦争など出来る状態ではありません。

沖縄に上陸すれば台湾の日本軍が逆上陸することは米軍が見通していたのです。ですから台湾を空爆で叩いておいて沖縄へ上陸したのです。その事情は米軍の不発弾が多数残っていたという上に示した記事から明白です。

台湾に渡った彼は援軍を得ることも出来ず、そこで終戦を迎えます。沖縄に残した自分の砲兵中隊の兵士は全員玉砕したのです。

戦後、そのエリート将校は罪悪感にとらわれます。

戦死した部下の資料を集めては靖国神社の「遊就館」へ届けたのです。

戦後、東京で始めた事業も成功しましたが利潤は殆ど「遊就館」の整備のために寄付をしたそうです。

そして彼は田村さんへ、「奉天では幸せな新婚生活をしたが、沖縄戦以後は家族と幸せな生活をするのが何故か死なせた部下に悪いようだ」と言っていたそうです。

これが田村さんから聞いた話です。

戦争で死んでしまうのも大きな悲劇です。しかし生き残った人にも悲しい人生があるのです。あまりにも過酷な体験をすると普通の家族生活が出来なくなるのです。それは家族にとっても悲劇です。不幸です。戦争の被害は家族へも及ぶのです。

本人は死んだ戦友の為にと全てを捧げて冥福を祈るのです。家族を大切に思っていてもそうすることが不器用で出来ないのです。

しかしそれも立派な人生ではないでしょうか?

最近もこのブログでご紹介した、義兄が特攻隊員だった方からのご投稿をご紹介します という記事も同じようなもう一つの実例です。

戦争の被害者は戦没した人だけではありません。残った軍人、そしてその家族の全てが戦争の被害者なのです。その被害者たちも次第に高齢になり次々と旅立って行きます。

世代が交代すれば次第に戦争の悲劇が薄れていきます。この記事の冒頭に示した女学校生徒の集合写真の笑いが悲しみに変わり、そしてみんな、みんな旅立って行きます。

しかし日本民族は永久に戦争の悲惨さを忘れるべきでないと思います。

明日は8月15日、終戦記念日です。いろいろな戦争の悲劇を思い出しましょう。

二度と戦争をしないと固く決心しましょう。

そして祈りましょう。太平洋戦争のいろいろな犠牲者の為に祈りましょう。(終り)

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参考資料:

田村さんは予科練の跡地に特攻隊の記念館「雄翔館」をつくるために靖国神社の資料館「遊就館」を度々訪れたそうです。その時、沖縄戦線を離脱したあるエリート将校さんに会い、体験談を聞いたそうです。そのエリート将校は関東軍の将校でしたが沖縄防衛のため満州から沖縄へ転出していたのです。

田村さんのことは、人間が好きだから旅をする(2)悲しそうな特攻隊員の顔を忘れない 2008年10月24日掲載記事で説明しています。