後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「満州写真館」という写真集を絶賛します!

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中には凄い人がいらっしゃいます。最近、見つけた「「満州写真館」という写真集には感動しました。そのアドレスは、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

何が凄いかというと満州に関する昔の貴重な映像が数千枚蒐集してあって分野別に分類整理されて公開してあるのです。

その画像は歴史研究に欠かせない貴重なものです。これをプリントし、製本し全国の公共図書館に保存すれば後世の人々の満州に関する研究に大いに貢献すると信じています。

その写真の収集の仕方が公平で、日本軍のしたことを正当化しようとか、平和が重要だと説教しようとしていません。ただあるがままの満州の平和な時代の市民の生活が写し出されているのです。

終戦後の、ソ連軍による蹂躙と、シベリア抑留、そして悲惨な引揚げの歴史によって日本人は満州のことを忘れたいと思っています。

しかし虚心坦懐にこの「満州写真館」を見て行くと一般人の幸せと悲しみが透けて見えるような気分になります。是非ご覧になって深くお考え下さいますように祈っております。

なお満州という言葉は使わない方が良いのです。日本が中国東北地方を支配下に置いていた1930年ころから1945年までのその地方の日本人の呼び方なのです。

中国人は「偽満州」とか「偽満州国」と呼んでいるそうです。しかし単に「東北地方」と呼ぶのが国際礼儀なのです。

その事は「満州写真館」の管理人も充分ご存知と信じています。しかし、それしか呼びようがありません。そんな心の痛みを感じながら私はこの貴重な写真集を皆様へ心から推薦いたします。

管理人のお許しを頂きましたので下に数枚の写真を例示します。

まず昔の大連の町の写真を2枚お送りします。

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歩いている人の雰囲気が平和です。

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上は大連の一番の繁華街だそうです。

次は瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。

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ロシア風の落ち着いた街でした。

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上は奉天の駅前風景です。

さて満鉄の「あじあ号」の写真も以下にお送りいたします。

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下は当時の食堂車の日本人の食事風景です。

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そして下は最後尾の展望車の風景です。ヨーロッパ人乗客も満鉄を愛用していたようすが伺えます。

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この「満州写真館」の写真は無断使用禁止です。お借りしたい時は、「みに・ミーの部屋」http://www.geocities.jp/ramopcommand/index.htmlの中の「掲示板」をクリックしますと、管理人の方へのメールを開けます。

この写真館の写真はテレビ局なども時々借りていますので、版権には慎重にしましょう。

さてくどくなりますが、それでは現在の大連と瀋陽の写真を掲載してみます。比較すると70年、80年の時の流れを感じます。感慨深いものがあります。

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上と下の写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g297452-Dalian_Liaoning.html#26043437 です。

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下の2枚は瀋陽です。私ごとですが、1981年に、ここにある東北工学院へ集中講義に行ったことがあります。1981年当時は満州時代の街並みがそのまま残っていました。

中国の経済成長の早さにただ驚くばかりです。

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上と下の写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g297454-w4-Shenyang_Liaoning.html です。

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武蔵境浄水場の上に湧きたつ白い雲

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

武蔵境浄水場は河川から引いて来た水を大きなプールの底の砂層で濾して、浄化し、水道水にしています。

今日はそこに隣接する3階のビルにある質素なレストランで家族で昼食をして来ました。

あまりにも白い雲が綺麗だったので写真を撮ってきました。

明日から9月です。早く残暑が終わるように祈りながら、白い雲の写真をお送りいたします。

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昭和という時代はどんな時代だったか(2)大戦争を推進した近衛文磨と松岡洋右

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次大戦にいたる日本は支那事変を起こし、満州事変を始め、満州帝国をつくりあげたのです。満州国を独立させたのでアメリカやイギリスが本気で怒り出したのです。

この一連の動きは昭和天皇の平和への希望を無視した軍部の独走でした。軍人の勝手な行動だったのです。

ですから悪いのは軍人です。特に陸軍士官学校や江田島の海軍兵学校を卒業したエリート軍人に責任があるのです。一般の日本人は彼等、エリート軍人の見境いのない欲望の犠牲になったのです。一般の日本人は戦争に一切責任がありません。

こんな主張が戦後の社会に横行していました。学校教育でも私達はそのように教わりました。

しかしそれは全く間違った主張です。全く間違った理解です。

日清戦争と日露戦争で勝った日本の国民は急に戦争推進者になって行ったのです。

真珠湾攻撃で全国民は狂喜したのです。その事を忘れてはいけません。

天才的な画家の藤田嗣治さえ戦意高揚の絵画を沢山描いたのです。アッツ島玉砕の自分の絵の前に軍服姿で立って、その絵を見に来た人々へ会釈をし、浄財を集めたそうです。

軍部の独走以上に戦争を推進した政治家は近衛文磨首相と松岡洋右外相と思います。

軍人出身の東條英樹首相以上に責任が重いと私は考えています。

戦後、日本人は東條首相だけを悪く言い、自殺した近衛文磨と東京裁判中に病死した松岡洋右のことを許したのでしょうか。どちらもA級戦犯として裁かれるべきでした。

松岡洋右は1932年2月に国際連盟から日本だけが脱退する名演説をしたのです。国際連盟が満州国の日本の既得権はすべて従来通り認めるが、満州国を国際連盟の管理下に置くと決定したのです。

満州の皇帝に清朝の最後の皇帝だった溥儀を即位させ、満州帝国を独立国にしようとしていた近衛文磨は反対し、松岡全権大使に国際連盟脱退の演説をさせたのです。

これで米英が本気で怒りだしたのです。満州帝国の独立こそがあの悲惨な太平洋戦争の出発点だったのです。

1932年は昭和7年です。それから急速に日米開戦への坂道をころげ始まったのです。

下に日独伊三国同盟を喜ぶ童画と近衛文磨と松岡洋右の写真を示します。

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上の童画の上端の真ん中が近衛首相の写真でヒットッラーとムッソリーニに囲まれています。下の写真の左が近衛首相で右が松岡外務大臣です。

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そして下には満州帝国の首都だった新京(現在の長春)の立派な中央通りです。Manchukuo_hsinking_avenue1

下がハルピンの日本百貨店の写真です。

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昭和という時代は暗くて悲しい時代だったとよく言われます。

その言い方は半分正しく、半分間違っています。

昭和元年から昭和17年までは戦勝気分がみなぎっていた明るい幸せな時代だったのです。そして東京オリンピックの昭和39年から終りの63年までは経済の高度成長に祝福された時代だったのです。その間の20余年は暗黒の時代でした。激戦から玉砕につぐ玉砕、そして特攻隊の犠牲、日本中の戦災と沖縄戦、原爆投下、ソ連軍の満州蹂躙と未曾有の惨劇を体験した時代だったのです。

人間は一旦戦争を始めると狂気になるのいでしょうか?悲しいものです。

今日はとても祈る気持ちになりません。虚しさだけが心の中を去来しています。(続く)

======参考資料===================

近衛文磨 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

松岡洋右 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3

満州国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD