「昭和という時代はどんな時代だったか」という連載記事を始めたいと思います。
どんな時代であったかと問われれば日本の歴史上一番激動の時代でしたと答えることも出来ます。大きな戦争に明け暮れ、徹底的な敗戦、そしてアメリカ軍による占領を経験したのです。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。
この時代に生きて来た私ですが、老後になってこの昭和という時代をいろいろと考えています。
昭和11年に生まれ、昭和35年にアメリカへ留学するまで住んでいた仙台は私の大切な故郷です。その故郷への追憶については以前、以下の4編の記事を書いています。
追憶の中の我が仙台(1)東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など
追憶の中の我が仙台(2)ベーブ・ルースが来て2本のホームランを打つ
追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり
追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅
そこで、今日は私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。
ここでは仙台の風景だけを示しますが、日本全国の都市はほぼ同じような風景がひろがっていたと思います。
戦前、戦後に生きた日本人ならきっと懐かしい思いでご覧頂けると思います。
上が戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。
下は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。
下は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。
下は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。
下は戦災で焼けてしまった青葉城の大手門と隅櫓です。
下は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。
下は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。
下は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。
これらの写真を見ていると、戦前、戦後の日本の貧しさがしみじみと身に感じます。
こんなに貧しくともよくアメリカ相手に戦争をしたものだと驚いてしまいます。日本人は狂っていたのでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。
後藤和弘(藤山杜人)
後藤様、初めまして。
シナーラ号で検索していたら辿り着きました。
シナーラ号は、最近まで船検切れだったようですが、今年のG.W.に整備されて船検も取り直し、今でもシーボニアに係留されております。
先週末に写真を撮ってきたばかりなので、現在のシナーラを撮影したデータを差し上げます。