後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

国分寺の礎石は一人で歩き回る・・・時代によって人間の価値観が大きく変わるという考古学的小話

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

下の写真は武蔵野国国分寺の金堂のあった所に並んでいる礎石です。太い柱を受ける大石ですね。

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ある時、単純な私は、「1250年前の人は石を削らないでそのまま礎石にしたのだ」と呟きながら、その石肌に手を置き、1250年前の人々の姿を想像し、独り感慨にふけっていました。

そばで発掘調査をしていた人が何故か私を怪訝そうに見ています。私は挨拶をして、私の感慨を説明しました。

そうしたら発掘中の中年の男が笑いながら言うのです。

「あれは近所の畑から掘り出して、運んで来た大石なので奈良時代の国分寺の礎石でないのです。いやそうかも知れませんが農民が国分寺跡を畑にする時、邪魔な礎石は転がして、撤去してしまったのです」と言います。

「農民は田畑の邪魔になるものは全て取り除いて、動かしてしまうのです。どんな大きな礎石でも独りで歩いて消えて行くようなものです」と教えてくれます。

そう言えば信濃国分寺跡の真ん中には信越本線が通っていて、国分寺の敷地を分断しています。明治時代の鉄道技師が礎石を沢山、撤去してしまったようです。これは鉄道のお陰で大きな礎石が独りで歩き回ったような話です。

いきなり話は飛びますが、1981年に北京へ行き、下の写真の万里の長城を観光に行きました。

招待してくれた北京鋼鉄学院の周栄章教授へ、「それにしても古い長城が完全に残っていたものですね」と言いました。周教授は笑いながら、「いえ、長城の近所の農民がレンガを勝手に持ち出して農家を作ってしまうのです。ここは観光用に復元してありますが、少し奥に行くとレンガの無い土手が延々と続いていますよ」と当然のように笑っているのです。レンガが独り歩きして無くなってしまうのです。そんな事を昨日、国分寺跡を散歩しながら思い出しました。

それにしても人間という生物は何でもやってしまうのですね。発掘調査の邪魔をするのは昔の人間なのですね。

時代によって人間の価値観が大きく変わるという考古学的小話でした。

想えば、明治、大正、昭和、平成と私共の価値観も変わったものですね。

失礼します。

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ロマン溢れる考古学的発掘・・・・742年の石組みの発見! 

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

武蔵野国国分寺は741年に造営が始まりました。そして1333年頃、鎌倉幕府が崩れるときの戦乱で焼失してしまったのです。近所の分倍河原であった合戦の時、焼け落ちました。

その後紆余曲折があり現在の武蔵野国国分寺は奈良時代のものより北へ200m位引っ込んだ崖下にあります。

下の写真の左端が現在の国分寺です。その南200m位のところに下の写真の真ん中のように奈良時代の金堂跡の礎石があります。右端の写真は現在の国分寺の裏山の林の様子です。

昨日は猛暑でしたが、金堂の南面の下で考古学的発掘をしているのに気がつきました。

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考古学的発掘とはノミで材木を丁寧に切り取って行くように、土の層を崩さないように丁寧に削ることです。

普通は四角形の穴を掘って、その壁の面を丁寧に平らにすると、地層の色が浮き上がります。

黒い地層、赤い地層、白っぽい地層などが積み重なっているのが壁の面に鮮明に見えます。そしてその地層の出来た時代が推定出来るのです。もし、特定の地層に土器や矢じりが埋まっていればその時代が判明します。

昨日、昔の国分寺の金堂跡を一人で掘っている中年男に会いました。見事に染め上げた茶髪の男性です。顔から汗が流れ下っています。それが嬉しそうに相好を崩して、地層の深さを測っています。

私が知ったかぶりを発揮して、下の写真の石組みを指さして、「遂に出ましたね!」と言ったのが余程嬉しかったようで、いろいろなことを教えてくれました。

003 そして、先程、彼が奈良時代の742年に人間が作った石組みを発見しましたと満面の笑いでした。

私がいやその下にも別の地層があり、もっと古い石組みが出るかもと言ったら、彼は途端に真面目になり「この石組みより下には何も人工物が無いのです。ですからこの石組みは742年に作られたものです。」と、断言するのです。

そして私を見上げて嬉しそうに笑うのです。

私はこの金堂跡は近所の農民が畑にしていいたことを言います。ですから江戸時代の農民が作ったものかも知れないと言います。すると彼は二コリとして、「ご覧なさい。この地層の重なりが乱れずに水平に重なっているのです。畑にはしていましたが、ここまで深く耕さなかったのです」と言います。成程、彼の説明は理路整然として明快です。茶髪にしているのに知的な美男子です。私はすっかり感心して、「それにしても何の為の石組みですか」と聞いてみました。

彼の説明では、「昔は雨樋が存在していなかったので屋根の雨水を受ける石組みが必要だったのです。この場所が丁度、金堂の南の屋根の端に一致するので雨だれ受けの石組みと考えています」。成程明快です。

「それにしても良かったですね。熱中症にならないようにして下さい」と言って別れました。考古学的発掘に魅了された男がニコニコしながら私を見送っています。

それだけの話です。それにしてもロマン溢れる考古学的発掘だなと考えながら炎熱の原を帰ってきました。下にその石組みの写真を示します。

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考古学的発掘では掘り下げる四角形の穴の4つの辺がそれぞれ正確に東西南北に合致するように掘ります。出土品の存在場所を紙の上の地図に描き込む為の測量も正確に行い記録します。下の穴の方向は手前が南で、右が東になっています。

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20世紀は大戦争の世紀(2)240万人のドイツ兵が抑留、100万人死亡

2012年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

恥ずかしい話ですが、私はソ連が抑留したのは満州の日本兵だけだったと思っていました。日本の新聞や雑誌は日本人のシベリア抑留だけを書き立てたのでそのように思い込んでいたのです。

しかしソ連がドイツへ攻め込んで得たドイツ兵捕虜の取り扱いに疑問が出ます。少し調べたらソ連の捕虜になったドイツ兵は約350万人だったことが分かりました。

ベルリン陥落後、すぐに返された捕虜以外の約240万人はソ連へ連行され過酷な強制労働をさせられたのです。そしてその約40%に当たる100万人が死亡したのです。

日本兵は64万人がシベリアへ抑留されその約10%の6万人ほどが死亡しました。

ソ連によって抑留されたドイツ兵、240万人のうち何人がシベリア送りになったかは分かりません。しかしドイツ兵の取り扱いは日本兵のそれより一段と凄惨だったのです。シベリアでドイツ兵に会った日本兵がそのことを帰国後報じています。

下に第二次世界大戦後にソ連へ連行され、強制労働をさせられた捕虜の数が国別に示してあります。

この表をよくご覧ください。驚くなかれ、ドイツ以外の枢軸国の多くの捕虜がソ連へ連行されたのです。

ハンガリー51万人。  ルーマニア19万人。  オーストリー16万人。

チェコスロバキア7万人。  ポーランド6万人。  イタリア5万人。

フランス2万人余。    ユーゴスラビア2万人余。

などなど合計417万人もの捕虜を連行し、強制労働をさせたのです。

これは戦時捕虜に関する国際法を完全に無視した行為です。ソ連という国がどんなに非道な国家だったかを証明しています。ソ連解体後、ロシアがソ連の後継者になったのです。ロシアはこの417万人の外国捕虜の抑留に対して謝罪し、正当な損害補償を支払うべきではないでしょうか?

ソ連が417万人の捕虜へ何年間も強制労働をさせた事は重大な人道に反する罪です。絶対に許されるべきではありません。

しかし国連はこの問題は取上げません。所詮、戦争というものはそういうものだと思っているのでしょうか?

虚しさを感じます。

今日はソ連へ連行され、ロシアの極寒の荒野の土となってしまった日本人の冥福を祈ります。そして抑留中に亡くなった全ての人の冥福をお祈りします。

===出典:「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)===

ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
                                  (1941年6月~45年9月)
 ド  イ  ツ 2,389,560   日     本  639,635  

ハ ン ガ リ ー  513,767     ル ー マ ニ ア  187,370  

オーストリア   156,682    チェコスロバキア   69,977

 ポ ー ラ ン ド   60,280    イ タ リ ア   48,957  

フ ラ ン ス    23,136       ユーゴスラビア   21,822  

モ ル ダ ビ ア    14,129     中     国   12,928

 ユ  ダ  ヤ   10,173     朝     鮮   7,785  

オ ラ ン ダ   4,785       モ ン ゴ ル   3,608  

フィンランド    2,377      ベ ル ギ ー   2,010
ルクセンブルグ   1,652    オランダ・ダッチ    457  

ス ペ イ ン    452         ジ プ シ ー    393  

ノ ル ウ ェ ー    101      スウェーデン      72
                                

                    24ヶ国合計 4,172,042人

 〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉
 《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》

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下はシベリア抑留へ送られる日本兵の写真と亡くなった人の荒れた墓地の様子です。

写真の出典はシベリア抑留画像集からです。

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