後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

カラスウリの不思議な花が沢山咲きました

2012年08月23日 | 写真

8月19日に、この繊細な羽毛のような花をご存知でしょうか? という記事を掲載し、カラスウリの花をご紹介しました。

その花が次第に増えて、東側の塀の上にいっぱいに咲きました。その写真を前の記事への追加としてお送りいたします。

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気分が爽快になるパラオの海の写真をお送りいたします

2012年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事の前の2つの記事は暗い、悲しい戦争の記事でしたので、気分が爽快になるパラオの海の写真をお送りいたします。

先週、一家でパラオに行った孫の高校一年生が撮った写真です。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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20世紀は大戦争の世紀(7)ドイツ人自身がナチス6500人を裁判にかけた

2012年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム

朝からこういう記事を書くのは憂鬱なものです。しかし本当の平和を確かに持続させる為には書くべきと心を振るい立てて書くことにしました。

ですから読む方も始めの数行だけは是非お読み下さい。

戦後、日本では戦争を指導した政治家や軍人をみずからの手で逮捕し、裁判にかけ、処刑をしようという発想がありませんでした。

ところがドイツ人は全く違ったのです。ナチス一派の政治家や軍人を6500人以上逮捕し有罪にしました。オーストリアでは13607人が有罪になり43名が死刑判決でした。

ドイツ人自身がドイツ人のナチス一派を戦争犯罪者として逮捕したのです。

日本人は生き残った参謀や高級将校を逮捕して、裁判にかけようとはしませんでした。

開戦を指導した政治家も逮捕しません。軍に没収された財産の返還を求める裁判もしません。特高警察で違法な暴力を受けた市民も裁判にかけませんでした。インパール作戦のような無駄死を命令した参謀を逮捕しませんでした。未成年の沖縄の女学生や中学生を駆り出して、死なせた沖縄防衛軍の生き残り将校を逮捕しませんでした。

この日本とドイツの相違は文化の相違です。個人の責任を重視する欧米の文化と、個人の責任があいまいで、個人の責任を重視しない日本の文化の違いです。

21世紀を完全な世界平和の世紀にするためにはこの文化の違いも考えて、どちらの文化にしても戦争のキッカケになる事をしないことが重要です。小な島の領有権で争いのは危険なことです。

以下に、ドイツ現代の歴史の非常に優れた研究者である清水正義氏の研究発表をご紹介いたします。清水正義氏の研究は日本人が高く評価して、もっと注意深く読むべき成果と思います。

特にドイツの戦後の戦争にまつわる裁判は日本の新聞が殆ど報道しなかったようです。

私も詳しく知りませんでした。多分マッカーサー司令部が新聞報道を規制していたものと私は想像しています。日本とドイツの占領政策は切り離して、マッカーサー司令部は日本だけを混乱なく統治したかったのかも知れません。あるいは昭和天皇を裁判にかけようとする運動を無いものにしたかったのかも知りません。

もしご気分が悪くなければ、以下の清水正義氏の明快な研究成果も是非お読み下さい。

=====ドイツ人自身によるナチス一派の裁判===========

出典は清水正義氏のホームページです。

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/vergangenheitsbewaeltigung.htm

戦後ドイツはナチスの過去と深刻に向き合ってきました。この過去との対決のことをドイツ語では「Vergangenheitsbewaeltigung」といい、日本では「過去の克服」と訳しています。

「過去の克服」は次の5つくらいの方向でなされています。

第一に、ナチス犯罪者を処罰することです。第二次世界大戦後、連合国のニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスなどナチス指導者が裁かれました。また戦勝各国それぞれがナチスの犯罪者を裁く裁判を行いました。さらにその後、ドイツの国内裁判でナチスの幹部や犯罪実行者などが裁かれ、この国内裁判だけで現在までにおよそ6500人程度が有罪にされています。

日本でも、太平洋戦争後、連合国による東京国際軍事裁判や連合国によるBC級戦犯裁判が開かれていますが、その後、ドイツのように国内裁判で戦争犯罪人を処罰することはありませんでした。この点で、ドイツがナチス犯罪者を処罰しようとする姿勢は、日本人から見ると際立っているように見えました。しかしユダヤ人など被害者側から見ると、まだ不徹底であるという批判がされています。

第二に、ナチス関係者を公職から追放したことです。戦後、連合国によってナチス党は禁止され、ナチス党員は自らの過去を占領軍当局に報告することが義務付けられ、公職を追放されました。ただし、公職追放は連合国の方針の不統一や冷戦の開始などの政治状況の変化によって不徹底なものにとどまりました。とくに裁判官などの場合は簡単に人員交代ができないこともあって、元ナチス党員が戦後も枢要な地位にとどまったと言われています。

第三に、ナチス暴力の被害者となった個人に対して金銭や現物返却による補償措置がとられました。最初のうち、ナチスによって財産を没収された人(とくにユダヤ人)の財産返却のための措置がとられ、ついで、イスラエルやヨーロッパ諸国の人たちを対象に金銭による補償措置がとられました。そして、ドイツ国内在住の被害者に対して連邦補償法による金銭の補償措置がとられるようになり、これがドイツ戦後補償の基本となりました。近年になって東欧諸国からの戦時強制労働被害者に対して基金の設立のような形で補償措置がとられるようになっています。

第四に、憲法や法律などの中でナチス的なものが極力排除されました。ドイツ憲法は、ナチスの再来を許さないようなさまざまな工夫がこらされています。例えば、ヒトラー政権誕生にいたる過程で、当時のワイマール共和国憲法下の大統領権限の大きさが問題とされたので、戦後はこうした大統領の政治的権限を著しく弱体化させました。またワイマール時代に議会が少数政党の乱立から機能不全に陥り、結果的にナチス党のような極右政党の進出を許したことから、戦後憲法では有権者の5%の得票を得ない少数政党は連邦議会議席を得られないことにしました。また、ナチス党を賛美したり、ナチス式敬礼(「ハイル・ヒトラー!」と右手を挙げる敬礼)をすることは法律によって禁止されました。

第五に、学校教育における反ナチス教育の徹底です。ドイツでは中学校くらいのときにナチス時代のことを集中的に学ぶ機会があり、ナチスの権力掌握の意味や、当時のドイツ国民の考え方、どうしてナチスを支持したか、アウシュヴィッツなど強制収容所の実態などが細かく学習されます。ナチスの被害者となったポーランドとの間では歴史教科書をめぐる対話が進んでいます。

以上の5つの方向以外に、戦後の言論界におけるナチス的ものに対する批判、ドイツ国防軍の行動範囲の限定、歴史的なドイツ国境の放棄と戦後国境の承認などなど、戦後ドイツの内外政はナチスの過去と無関係に扱われるものは少ないのです。こうした戦後ドイツのナチスとの向き合いについて、これを高く評価する見方がある一方、まだまだ不徹底であるとする見方もあります。とくに1989年のベルリンの壁の崩壊、翌年の東西ドイツ統一以後、旧東ドイツ部分で再びナチス的な考え方が目立ってきたという見方もあります。それは経済的に困難な地位に置かれた旧東ドイツの人々が、ドイツにたくさんいる外国人労働者に対して排外的な態度をとりがちであることも関係しています。このように、ドイツではナチスの過去に対して真剣に取り組む実績を持ちつつ、しかし、今もなお、その努力が充分であったかと問い直すことが行われています。日本での戦争責任論、歴史教科書問題などの問題を考える際にも、ドイツの事例がしばしばとりあげられるのはこうした背景があります。

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