先週、越後の魚沼地方を旅して彫り物師、石川雲蝶の作品を沢山見ました。
上の写真のように地元では雲蝶のことを越後のミケランジェロと言って自慢しています。それを見た家内が、とんでもないと怒りだしたのです。ミケランジェロは彼女の尊敬する偉大な芸術家です。感情的になりがちな彼女は自分が軽蔑されたように思うのです。そして先年、サミット会議に使われたウインザーホテルの名前もけしからんと怒りの輪が広がります。来日した各国の要人たちがどう思ったのか恥ずかしいと、思い出しブツブツ言っています。
ここで反対すれば夫婦喧嘩の火ぶたが切れるのです。私は、本当にそうだねと深く同意した振りをします。実は私の同意の理由は少し違うのです。人間は一人ひとり違う存在なのです。それを一緒くたにされたら個性も独創性も伸びないのです。つい昔身についた教育的発想が出てくるのです。
家内の気持ちは分かりますが、考えてみると日本人はこのようにして外国の文化を取り入れて来たのです。
例えば遣唐使の時代には中国のお寺の名前を自由に使いました。日本にも中国のお寺の名前と同じ慈恩寺もありますし、観山寺もあります。
明治維新以前は中国の地名や名所旧跡の名前を勝手に使いました。
文明開化の明治になり、西洋の文化を急速に取り入れます。当然、向こうの有名な人間や場所の名前もどんどん取り入れます。
飛騨山脈を北アルプスと言い、木曽山脈を中央アルプスと言います。最近は山梨県に「南アルプス市」という片仮名の市が出来たのです。
それにしても石川雲蝶を越後のミケランジェロというのはチョット度が過ぎる様な気がします。
観光に乗ったタクシーの運転手さんが、こちらから何も言わないのにそのことをやんわりディフェンスするのです:「雲蝶の活躍した江戸末期には芸術家という職業は無かったのです。彼は宮大工としてお寺に雇われ内部の飾りものを彫ったのです」と言います。
私は何故、運転手さんがそんな事を言うのか察しがつきました。都会から行ったミケランジェロを尊敬している感情的な人物が運転手さん相手に藝術的彫刻と彫り物師の職人芸の違いを説教したに違いありません。目を白黒させながら謹聴しつつ運転をした彼の災難が目に見えるようです。
藝術だろうが彫り物師の飾りものだろうがどちらでも良いのです。見る人が好きになり、幸せ感に包まれればそれで良いと信じています。
下に雲蝶とミケランジェロの作品の写真をお送りいたします。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)