日本の行政区分は天武天皇時代(672年~686年)に畿内五国と東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の五畿七道に区分されました。@@道とは道路の名前でもありましたが、現在の北海道のように大きな行政区画も意味したのです。
私が現在住んでいる場所は東山道の中の武蔵野国に属していたのです。そして武蔵野国から都へ登る道は東山道武蔵野路だったのです。当時は江戸も東京も存在していませんでした。そして武蔵野国の国府が現在の府中市にあったのです。
741年に造営の始まった武蔵野国分寺はこの東山道武蔵野路が府中に達するその入り口にあるのです。下の図面をご覧下さい。
武蔵野国分寺は西暦800年以前に完成しましたが、1333年に鎌倉幕府が崩壊するときに近辺の分倍河原で合戦があり、すべて焼失してしまったのです。500年余の命でした。
国分寺の金堂跡は発掘調査され位置や規模も分かっています。そして金堂の南東に七重の塔もあったのです。その七重の塔は「続日本後記」によれば西暦835年に雷が落ちて焼けてしまいます。しかし10年後に現在の埼玉県のある郡の長官が再建します。この長官の名前は壬生吉志福正(みののきしふくしょう)という名前でした。万葉仮名を連想させる不思議な名前ですね。(想像を逞しくすれば、アイヌ人だったのかも知れません。)
この7重の塔は後世に焼け落ちてしまい礎石だけが残っているのです。何時、焼け落ちたかは分かっていませんが、私は鎌倉幕府の崩壊の時の1333年前後の国分寺の焼失の折に一緒に燃えてしまったものと想像しています。
今日の午前中、この七重の塔跡の隣に車を停めて、金堂跡まで散歩しながら写真を撮って来ました。奈良時代や平安時代、そして鎌倉時代と栄えた国分寺の様子をご想像しながら写真をお楽しみ下さい。
雲のたたずまいは何となく秋の気配ですが地上は37度の酷暑でした。
七重の塔跡のまわりは広い平地になっています。往時は僧たちの住む僧坊が並んでいたのかも知れません。
上の写真の七重の塔の礎石の下を発掘すると焼けた瓦が礎石の下に敷きつめてあり、西暦835年以後の再建と合致する証拠と考えられています。なお上の写真の礎石は本物でない可能性があります。そして昔の礎石の位置は現在の地面より約1mほど深い場所にあったと私は想像しています。金堂の礎石と同じ高さに有った筈です。
上は七重の塔跡から北西へ200m位離れた金堂の跡の礎石です。この礎石は最近の研究で分かった柱の有った場所に近所で拾って来た大石を並べたもので本物ではありません。
元来は現在の地面より約1m深い所に当時の地面があり、写真にある礎石は1m下にあったはずです。
昔の武蔵国分寺の周囲には数多くの僧侶や尼僧の生活を支える使用人の家々があり、かなり賑やかな一区画を形成していた筈です。しかし、それも鎌倉幕府の崩壊とともに消えてしまったのです。
時代が下って、戦国時代に太田道灌が江戸城を造ってからは武蔵野国の中心は次第に府中から江戸の方向へ移動して行ったのです。
現在はその面影も無く、夏草だけが茂り、ミンミン蝉が耳を聾せんばかりに鳴いていました。
(終り)
日本の経済成長が急速に伸びていた1980年頃から結婚しない人、結婚してもすぐ離婚する人が次第に増加してきました。
東京都の場合、2010年に、30歳男性で結婚していない人は43.7%で、全国一でした。女性は34.1%でした。確かに東京都は男女ともに一位ですが、全国平均もあまり変わらない数値です。
一方、東京都の2010年の人口は約1300万人で、結婚数はここ数年横ばいで年間80000件です。それに対して離婚数は26000件でした。
この東京都が行った調査結果に、私は驚きました。動転しました。
結婚しない男女が驚異的に増加し、結婚したカップルの3組に1組はすぐに離婚しているのです。この事情は東京都が一位ですが、全国的にもあまり変わらない数値です。
詳しくは、東京都の「人口動態調査結果」、http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2012/01/60m1u200.htm を是非ご覧下さい。
高齢者の皆様は、上に述べた事実に必ずや驚くと思います。
経済的余裕が出来れば結婚しない人や離婚する人が増加するのだと簡単に理解するのは雑すぎます。この現象の原因は、経済成長の他に、日本人の結婚へ対する価値観が大きく変化した事に由来すると考えるべきです。
従来の日本の伝統的な文化では結婚して子孫を作り、家系を守ることが重大な義務だったのです。
しかし経済の高度成長とそのバブル経済の崩壊を体験した多くの日本人は伝統的な価値観に疑問を感じ始めたのです。
恋愛や結婚は人生において本当にそんなに価値あるもでしょうか?もっと他にも重要な、そしてもっと楽しい事があるのではないか?結婚して家庭に縛られて一生過ごすことより自由な独身を通して好きな仕事や活動、趣味をしたい。
その上、自分の親の不仲や、親子の確執を見ているととても結婚する気持ちにならない。家族関係はうまくゆくと幸せになれるが、うまく行かないと地獄だ。そのうまく行かない場合があまりにも多いのが実情だ。そんなふうに考える人々が多くなったのです。
昔、我々が結婚した時代には、結婚は社会的な責務だと言う人がいたものです。結婚しない奴は信用できない。結婚しない奴は会社で偉くなれない。などど公言する人が多かったものです。
先日、そんな時代を鮮明に思い出すきっかけがありました。それは下に示した奥多摩の鳩の巣駅を訪ねた瞬間でした。52年前の1960年の夏に家内とはじめてのデートで降り立った木造の駅舎が当時のままの様子で建っていたのです。
当時は結婚出来ない男は駄目だという風潮でした。やっと結婚出来そうになってやれやれと思ったものです。その上幸運にも、鳩の巣渓谷を案内してくれた女性が上品で優雅だったのです。
時代によって日本人の価値観がどんどん変わって行きます。全てが変わるのがこの世の定めです。喜びもせず、悲観もせず、ただ奥多摩川の清い流れを眺めるように私は日本人の価値観の変化を眺めています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
1960年当時も駅舎はこのような木造の小さなものでした。
左の屋根の下や柱のペンキの色も当時のままです。不思議です。
降り立ったホームから見た鳩の巣渓谷の向こう側の山並みは52年前と同じでした。