愛国心は非常に重要な愛の一種です。しかしその中身が問題です。
私自身は強い愛国心を持っていますが、いつもその中身について迷って生きています。ただ偏狭な愛国心だけは避けてきたつもりです。
今日はいろいろなことを考えさせる藤田嗣治画伯の愛国心について考えてみたいと思います。
第二次世界大戦の前、彼は上のような油彩を描いてパリの美術界の寵児として絶賛を浴びていたのです。彼は本当に天才でした。傑出した画家でした。
それが大戦勃発とともに急に帰国し、日本の軍隊の依頼に従って戦意高揚のために数多くの戦争画を描いたのです。
日本軍のために絵画を描く芸術家たちの組織の理事長として、自ら積極的に戦争画を製作したのです。
下に彼の戦争画を2点示します。
上の絵は1941年の、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」と題する大きな油彩です。
上の絵は日本軍が初めて玉砕をした、「アッツ
島の玉砕」の油彩です。
この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。
そして彼はこの絵の前にお賽銭箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。
人々がお賽銭を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。
しかし日本は戦争に負けました。
戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。
逮捕はまぬがれましたが、彼の心をひどく傷つけた
のは人々の執拗な非難でした。とくに特高にいじめられた共産主義者の非難は陰湿で耐えられなかったようです。
そしてついにフランスへ亡命するように逃れ、1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナーレ・フジタと称したのです。
フランスではカトリックの礼拝堂を建設し静かな信仰生活を送り、1968年、82歳で天に帰ったのです。日本へはめったに帰って来ませんでした。
さて戦争画を率先して書き、賽銭箱の前で敬礼をしていた藤田は本当に純粋な愛国心を持っていたのです。
彼のこの愛国心を軽率だと誰が非難できるでしょうか?私は黙するばかりです。
そして戦前何十年もフランスで暮らしている間に受けた差別の深さが彼の愛国心を育てたに違いありません。何かが間違っているような気が致しますが、私は藤田画伯の戦後の悲劇的な運命に憐れみと同情を禁じ得ません。
しかし1957年に洗礼を受け、神の慈しみのもとて本当の平和を味わったのです。
その穏やかな晩年を想うと何故かホッとしています。心が和みます。
下にカトリックの洗礼を受けた後の1960年に描いたイエスの降誕の絵を示します。
それにしても、つくづく愛国心とは難しいと感じ入っている今日この頃です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
そして明日は東日本大震災の三回忌なので犠牲者の冥福を祈ります。被災地の復興を祈ります。後藤和弘(藤山杜人)
===レオナーレ・フジタに関する参考資料=====
日本への帰国
陸軍美術協会理事長時代
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚する。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力に対する心無い批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
晩年
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人は、死後も藤田旧蔵品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。2007年には東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開されている[5]。そして、40年以上を経た2009年4月2日に、東京で98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。君代夫人が持っていた藤田作品の大半は、現在ポーラ美術館とランス美術館に収められている。
2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは見つかっていない)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。