後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ウクライナ海軍を封じ込めるために、自沈させたロシア海軍の艦艇・・・その荒っぽさに胸が痛む

2014年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

ウクライナ海軍の基地のあるドヌーズラフスキー湾の中のある艦艇を封じ込めるために、ロシア海軍が艦艇を自沈させたのです。これでウクライナ海軍は出動出来なくなったのです。

3月7日、ロシアが古い艦艇を爆破して沈めたのです。その前近代的な荒っぽさに胸が痛みます。ロシアは何が何でもウクライナを屈服させる決心のようです。まず下の写真をご覧下さい。

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 船の右はドヌーズラフスキー湾、左が黒海。水深が浅いため、船体は海上に姿を見せている。漁船のような小型船舶以外は航行不可能になっている。=7日、ドヌーズラフスキー湾出入口 写真:田中龍作。(写真の出典は、http://blogos.com/article/81910/ です。)

このような敵艦隊を湾内に封じ込める作戦は、東郷平八郎元帥が旅順港の

ロシア艦隊を封じ込めるために、1904年に自分の艦艇を自沈させたのと同じです。

今年は2014年なので、1904年から110年も後なのです。時代錯誤です。

ロシアはクリミア半島への増援部隊をどんどん送っている上、海軍もウクライナ海軍と対決する姿勢を取っているのです。

どうも雲行きが悪くなってきたようです。ロシア軍とウクライナ軍の戦争が始まらないようにと祈るほかありません。

ウクライナ紛争は長引きそうな展開になって来ました。(終わり)


深遠な愛国心の重要性(1)ニコライの日本を愛する心

2014年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

深遠な愛国心はその民族を幸せにし、浅薄な愛国心はその民族を不幸にします。

これは原理原則ですからそれで良いのですが、それでは深遠な愛国心とは具体的にどういうことでしょう?

今回から始める「深遠な愛国心の重要性」という連載では、「愛国心」の中身を具体的に考えていきたいと思います。いくつかの深遠な愛国心の例を示して考えを進めていきたいと思います。

そして願わくばこの日本に深遠な愛国心が広がるように願いたいのです。

今日はロシア正教のニコライ・カサートキンという人の日本を愛する心を具体的にご紹介したいと思います。こういうのも深遠な愛国心の一例と思います。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 二本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。

明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(ニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 

ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。信者を愛することは「その隣人」日本人をも愛したのです。イエス様がそのように命じたのですから。

ですから私は、ニコライの愛は日本民族に対する「深遠な愛の心」の具体的な一例だと信じています。それを私は日本に骨を埋めたニコライの愛国心と言うのです。(続く)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

そして東日本大震災の三回忌が近いので犠牲者の冥福を祈ります。被災地の復興を祈ります。後藤和弘(藤山杜人)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。ここに転載しご紹介いたします。

=======ニコライの生い立ち=========

スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)修道司祭に叙聖された。

翌1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行された(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)サ。注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)。