後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「靖国神社は政教分離の原則に反するが重要な仕事をした」に対するコメントをご紹介します

2014年07月15日 | インポート
靖国神社は政教分離の原則に反するが重要な仕事をした に対して貴重なコメントを頂きました。
これらのコメントを皆様に是非ご覧頂きたくて謹んでここにご紹介<wbr></wbr>いたします。

======中井 良穂さんと山下時義 さんからのコメント=====

中井 良穂から:
  私の母はサイパンで玉砕した実兄(私の伯父)を自宅で必死に供養<wbr></wbr>し、戦死の苦しみから兄が解脱してくれたことを実感できるように<wbr></wbr>なってから、靖国神社に詣でました。
社殿の奥から姿を現した兄が満面喜びの表情であったことで、母は<wbr></wbr>本当に兄が成仏した確信を得て、そこでしばらく号泣したのです。
靖国神社はそのように、英霊と遺族の出合いの場を提供していると<wbr></wbr>信じています。靖国神社は英霊の念波を受けるアンテナと、受信機<wbr></wbr>と、ブラウン管の働きをする、と言っても良いと思います。

山下時義 さんから:...

わたくしの叔父や親戚の人たちも戦死しました。余りにも一部分の<wbr></wbr>マスコミや一部の人達が騒ぎすぎると思います。
もうすぐです…終戦記念日がやってきます。
平和日本を愛する者として心静かに日本国の為に散っていった人達<wbr></wbr>のために心静かに祈るのみです(合掌)
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戦争の悲惨さを知るために第二次世界大戦後の日本のB,C級裁判の一覧表をご覧下さい

2014年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後の日本人はA級戦争裁判で東条英機以下少数の者が戦争犯罪者として絞首刑や有期刑になったことよく知っています。

しかし5700人もの元軍人がB,C級裁判で断罪された裁判のことはあまり知りません。

戦争の悲惨さを知るためにも是非以下のB,C級裁判の一覧表をご覧下さい。

出典は、「BC級裁判http://ja.wikipedia.org/wiki/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF#.E6.B3.95.E5.BB.B7.E4.B8.80.E8.A6.A7です。

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法廷一覧

総計2,235裁判、被告全総数5,724人(但し、同一人物が複数裁判を受けている場合があるので、実際の人数はこれより減少する)。

アメリカ裁判

全461裁判、被告総数1,446人

  • 横浜:331裁判、被告1,029人 1945年12月18日~1949年10月19日(アメリカ裁判終了)
    • 武士道裁判(アメリカ・横浜裁判23号)
    • 花岡事件(アメリカ・横浜裁判230号)
    • 伊藤ケース(アメリカ・横浜裁判233号)
    • 東海軍司令部B29搭乗員処刑事件(岡田ケース)(アメリカ・横浜裁判261号)
    • 石垣島事件
    • ドゥリットル・ケース
  • グアム:29裁判、被告109人 1945年2月26日~1949年4月28日
    • 父島人肉食事件(アメリカ・グアム裁判11号)
    • 海軍生体解剖事件(アメリカ・グアム裁判17号)
  • クェゼリン:3裁判、被告18人
  • 上海:10裁判、被告52人 1946年2月12日~
  • マニラ:88裁判、被告総数238人 1945年10月8日~ 1947年にフィリピンに裁判を移管。
    • 山下ケース

イギリス裁判

全316裁判、被告950人

  • シンガポール:137裁判、被告490人 1946年1月21日~1948年3月12日
    • カーコニコバル島住民虐殺事件(イギリス・シンガポール裁判12号)
    • 泰緬鉄道F軍団事件(イギリス・シンガポール裁判85号)
    • シンガポール華僑粛清事件(イギリス・シンガポール裁判118号)
  • ジョホールバル:4裁判、被告5人
  • クアラルンプール:50裁判、被告84人 1946年1月30日~ 1948年1月12日
    • ネグリセンビラン州事件
    • パリッティンギ村事件
    • スンガイルイ村事件
    • イロンロン村事件
  • タイピン:17裁判、被告36人
  • アロルスター:2裁判、被告16人
  • ペナン:1裁判、被告、35人
  • 香港:45裁判、被告123人 1946年3月28日~1949年12月20日(イギリス裁判終了)
  • ラブアン:6裁判、被告13人
  • ジェッセルトン:14裁判、被告17人
  • ビルマ:40裁判、被告131人 1946年3月22日~1947年11月21日
    • カラゴン村事件

オーストラリア裁判

全292裁判、被告総数960人

  • ラバウル:197裁判、被告408人
  • ラブアン:16裁判、被告157人
    • サンダカン死の行進(オーストラリア・ラブアン裁判14号)
  • 香港:13裁判、被告42人 ~1948年12月13日
    • ガスマタ豪軍飛行士介錯事件(オーストラリア・香港裁判13号)
  • シンガポール:24裁判、被告62人
  • ウェワク:1裁判、被告1人
    • ニューギニア人肉事件(オーストラリア・ウエワク裁判1号)
  • ポート・ダーウィン:3裁判、被告22人
  • マヌス:26裁判、被告121人 1950年6月5日から1951年4月9日まで。 6月11日で最後の死刑執行。この裁判で事実上BC級裁判終了。
  • アンボン・モロタイ:12裁判、被告147人
    • アンボン島豪軍捕虜殺害軍件

オランダ裁判

全448裁判、被告総数1,038人

  • バタヴィア:109裁判、被告359人 1946年8月5日~1949年12月14日(インドネシア独立によりオランダ裁判終了)
    • 白馬事件(スマラン慰安所事件、スマラン事件とも)(オランダ軍バタビア裁判69号)
  • メダン:59裁判、被告136人
  • タンジョン・ピナン:6裁判、被告11人
  • ポンティアナック:20裁判、被告38人
    • ポンティアナック事件(西ボルネオ住民虐殺事件)
  • バンジャルマシン:10裁判、被告30人
  • バリックパパン:20裁判、被告88人
  • マカッサル:36裁判、被告92人
  • クーパン:21裁判、被告24人
  • アンボン:49裁判、被告79人
  • メナド:44裁判、被告59人
  • モロタイ:21裁判、被告65人
  • ホーランディア:53裁判、被告57人

フィリピン裁判

全70裁判、被告総数169人、

  • マニラ:70裁判、被告169人 1947年8月1日~1949年12月28日(フィリピン裁判終了)
    • 中村ケース

フランス裁判

全40裁判、被告総数231人

  • サイゴン:40裁判、被告231人 1946年2月11日~1950年3月29日
    • ランソン事件(フランス・サイゴン裁判39号)

中華民国裁判

全605裁判、被告総数884人。無罪判決は40%にのぼるが、これは国共内戦における政策変換によるとされる。

  • 漢口:79裁判、被告163人
  • 北京:89裁判、被告115人 1946年4月8日~
  • 広東:93裁判、被告170人
  • 瀋陽:115裁判、被告136人
  • 南京:28裁判、被告33人 1946年5月30日~
    • 百人斬り競争(中華民国南京裁判21号)
  • 済南:21裁判、被告24人
  • 徐州:13裁判、被告35人
  • 上海:144裁判、被告181人 ~1949年1月26日(中華民国裁判終了)
  • 台北:12裁判、被告16人
  • 太原:11裁判、被日告11人

中華人民共和国による裁判

全3裁判、被告総数46人(但し判明分のみ)。戦犯容疑者は処罰されるよりも「認罪学習」を受けることがおおかった。

  • 瀋陽:3裁判、被告46人

ソ連による裁判

ソ連は連合国戦争犯罪委員会に参加しなかったため、ソ連での裁判の実態がわからない。

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この話は悲惨な話でしたので挿絵代わりには花の写真を2枚添えます。

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上は マメ科のヒロハレリンリソウ の花です。ヨーロッパ原産の帰化植物です。

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上はナス科とオオセンナリでハエやシラミに対する殺虫剤に使われました。


戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(6)日本の5700人のB,C級戦犯裁判とドイツのそれ以上の戦犯裁

2014年07月15日 | インポート

第二次世界大戦の後で、連合国側は東京裁判とニュルンベルク裁判で主要な戦争責任者を有罪にし、そのうち何人かを死刑にしました。

東京裁判では被告28人のうち東條英機さんら7人が絞首刑、16人が終身刑でした。ニュルンベルク裁判ではボルマンら12名が死刑になりました。

現在の日本人はその程度の理解をしています。

しかし東京裁判とニュルンベルク裁判の終了後に、それとは別に、BC級戦犯の裁判と処刑が続いたのです。

日本のBC級裁判では被告5700人に対して死刑987人、無期刑475人、有期刑2944人という判決が出ました。日本ではこのBC級裁判は短期に終了しました。

そのため、このBC級裁判は拙速を極め、無実の罪を問われた人も多かったのです。

一方、ドイツにおける裁判がニュルンベルク裁判のあと連綿として長期間、続き、処刑されたり、有罪になったドイツ人は非常に多かったのです。

その研究はドイツ現代史の研究者の清水正義氏によって発表されています。

以下に引用しましたのでお読み頂き、日本とヨーロッパにおける戦犯の取り扱いの相違をお考え頂ければよいと思います。私の感想はいずれ記事に書いてみたいと思います。

今回は日本とドイツに於けるBC級戦犯の簡略な比較資料のみをお送りいたします。

====日本のおけるBC級戦犯==========

出典は、「我が家のホームページ」(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)です。

BC級戦犯
日本人のBC級戦犯への裁判は、1945年(昭20)10月から '51,4月まで、米、英、
仏、オランダ、オーストラリア、中国、フィリピンの7か国、49の法廷で実施さ
れた。総件数2244件、被告5700人といわれ、裁判の結果、死刑984人、
無期刑475人、有期刑2944人をかぞえた。  《「角川日本史辞典」より》

 BC級戦犯裁判で有罪に問われた韓国・朝鮮人軍属は148人(死刑23人)、
このうち129人は連合国軍捕虜の監視要員だった。彼らは日本軍の最末端に位置
付けられ、上官の命令に従わざるを得ない立場だったが、日本の戦争責任を肩代わ
りさせられる形で個人責任が問われた。    《中日新聞 2009.8.15記事から》

======ドイツにおけるBC級戦犯========

ドイツにおけるB,C級戦犯の裁判と処刑はどうだったのでしょうか?

「現代史研究者清水正義のホームページ」

http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/qanda/BCWarCriminalsTrial.htm

ドイツではA級戦犯、B・C級戦犯という呼称はなく、主要戦争犯罪人と(単なる)戦争犯罪人という言い方をします。そこでここでは、主要戦争犯罪人を裁いたニュルンベルク国際軍事裁判以外はすべて、いわゆる日本で言うB・C級戦犯裁判と考えて回答いたします。

ドイツでの(B・C級)戦犯裁判について日本での研究例はあまり多くありませんが、次の文献はヨーロッパ諸国内での反ナチス裁判について興味深くまとめています。

野村二郎『ナチス裁判』(講談社現代新書)
さて、ドイツにおける戦犯裁判は米英仏ソの4占領国によるものの他、それ以外のヨーロッパ諸国で行われたものがあります。

まずアメリカによる裁判ですが、ニュルンベルク国際軍事裁判が終了した後、同じ場所でアメリカ占領軍によるニュルンベルク継続裁判が行われます。

この裁判は全部で12件ありましたが、そこではSS隊員、国防軍将校、医師、外交官、裁判官、企業家など合計184名が被告になり、うち24名が死刑、20名が終身刑、98名が有期刑、35名が無罪、7名が病気その他で審理除外となっています。

アメリカによる裁判はこれ以外にダッハウ裁判があります。

この裁判ではダッハウをはじめブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなどの強制収容所関係者が裁かれました。

このうちダッハウ強制収容所員に対する裁判では被告40名中、36名が死刑判決で、うち32名が執行されています。

ダッハウ強制収容所が解放される直前にSS隊員は逃亡を試みていますが、なお所内にとどまっていた所員は米軍により逮捕されました。

ダッハウでは捕虜に対する生体実験が行われていましたが、これに関わった軍医も逮捕され死刑判決を受けています。

以上のニュルンベルク継続裁判、ダッハウ裁判を含めアメリカ占領地区全体で被告1941名、うち324名死刑、247名終身刑、946名有期刑、367名無罪、57名不起訴となっています。

イギリスの裁判はヴェネツィア裁判、ハンブルク裁判、アウシュヴィッツ裁判、ベルゲンベルゼン裁判などがあり、全体として英軍事法廷では1085名の被告中240名が死刑になっています。その他の量刑については不明です。


フランスの場合はノイエブレム裁判、ナッツヴァイラー裁判などがあり、2107名被告中、104名死刑となっています。この他にフランス国内での戦犯裁判があったようですが、詳らかにしません。その他の量刑については不明です。


ソ連については詳細な数字が明らかになっておらず、ソ連占領地域、ソ連国内でどの程度の戦犯裁判が行われたのかはよく分かりません。

一方、1950年代初頭にソ連のジューコフ将軍が東ドイツ政府に対し1万名の有罪者を刑に服させるため移送させると通告し、同時期、3432名の抑留者が東ドイツに犯罪行為調査のため移送されています。

東ドイツでは裁判の結果、全員が有罪となり、うち32名に死刑判決が下されています。ただ、私の推測ではソ連による戦犯裁判の人数は以上の程度に収まるものではないと思います。

以上が4占領国による裁判ですが、それとは別にヨーロッパ諸国でドイツ戦犯裁判が行われています。

例えばポーランドでは1977年までに5358名が有罪を宣告され、同様にベルギーで75名、デンマークで85名、ルクセンブルクで87名、ノルウェーで81名、オランダで240名が有罪者となっています。

また、ご承知のように1961にイスラエルでアイヒマン裁判が行われ、死刑に処せられています。

以下は戦後の日本では無かった裁判です。個人の責任を問題にするかしないかという文化の相違です。

 

すなはちナチス犯罪の場合、このような諸外国による戦犯裁判の他に、ドイツ、オーストリア国内でも裁判が行われています。まずドイツでは1992年までの数字でナチス犯罪で有罪になった数は6488名を数え、オーストリアでは1972年までに、1万3607名有罪、うち43名死刑(30名執行)、29名終身刑、他有期刑となっています。

戦争が終わってやっと平和になって家族のもとに帰った人々がB,C級裁判に拘留され死刑にされた人もいたのです。それも無実の罪です。

これも忘れてはいけない戦争の悲惨な悲劇なのです。

下に絞首刑になったB,C級裁判中山下奉文陸軍大将の写真を示します。出典は、http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-28.html です。

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その他、本間雅晴陸軍中将は、日本軍がフィリピンを占領した時の最高指揮官だった。この時起きたのが、東京裁判でも大きな問題とされた「バターン死の行進」だった。銃殺刑を執行されました。