先日以来、ローマ法王のフランシスコ教皇の出された「信仰の光」という本を眺めています。読んでも理解出来ないから眺めるだけです。
しかし部分的には理解出来るところもあります。
2つありました。一つは偶像崇拝はいけないという理由です。もう一つのところは第二章の「信じなければ、あなた方は理解できない」という部分です。
考えてみるとこの二つの部分はキリスト教を文化の基盤としているヨーロッパ人の共通な認識であり、基本的な考え方です。
そこで今日はこの本の18ページの13節から説明します。その節は「イスラエルの歴史は不信仰への誘惑をも示しています」という書き出しで始まっています。
こういう文章は日本人とお釈迦様に置き換えて読めば成程と完全に納得できるのです。
そうすると「日本人の歴史はお釈迦様への不信仰への誘惑をも示しています」と書き換えれば日本人なら誰でもそうですねと納得します。
そして偶像崇拝の定義とは「顔が、顔でない顔へ注意を向けることである」と書いてあります。
これを翻訳すると、「お釈迦様の本物の顔(教え)でない顔へ注意を向けることである」となります。
これ以下の文章を仏教に置き換えて翻訳いたします。
すると・・・人は、お釈迦様のへの信頼や信仰の代わりに仏像(偶像)を崇拝することを選びます。仏像とは例えば観音像とか薬師如来像などなどですね。そして人は仏像の顔を見つめることが出来ます。しかしその像は人間が作ったことも知っています。ですから仏像は自分を中心にした現実の存在になっているのです。
仏像を崇拝すると人は自分の多くの欲望の成就を祈ります。そしてお釈迦様の他にもう一つの崇拝の対象になるのです。
お釈迦様だけを大切にし、信じるという純粋な仏教への信仰心が消えてしまうのです。
ですから観音像や薬師如来像などを崇拝することは、お釈迦様へ向かう一つの道をたどるのではなく、無数の迷い道をたどることになるのです。
ですからヨーロッパ人は偶像崇拝を軽蔑します。蔑みます。軽蔑したり蔑むことをイエス様が厳禁しているのを忘れているのです。
それではヨーロッパに偶像は存在していなのでしょうか。
それが有るのです。数多くの聖人の像や絵画があります。ローソクが灯され花が供えてあります。ロシアには高価に取引される古い聖画(イコン)が沢山あります。日本と同じことです。
しかし決定的に違うことは「偶像崇拝はいけない」と知りつつ願い事を祈っているのです。
日本人は偶像崇拝はいけないと思いつついろいろな仏像を拝んでいるわけではありません。反対に観音像や薬師如来像を信仰の対象にすらしているのです。この違いが文化の違いなのです。
文化には優劣はありませんが違いは厳然として存在するのです。
イスラム教徒ではなくイスラム教が立派な高等宗教に見えるのは偶像崇拝を徹底的に排除しているからです。しかしその教徒が中近東でしている殺し合いには手の付けようがありません。
それでははカトリックの私はといえば、日本人なのでいろいろな仏像を拝むことがあります。
2つしていることがあります。仏像の保存のためにと必ずお賽銭を少しだけあげます。そして仏像を拝むときお釈迦さまの教えてくれた般若心経の一つの言葉、「色即是空、空即是色」と唱えます。
そんなことをしながらイエス様の無辺の愛を信じ、星のかなたにいる全能の神を信じています。しかし迷いの毎日です。
それにしても人間は救われない存在ですね。世界中でいつまでも戦争が絶えないのですから。
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