後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏だ!旅に出よう!(2)江戸時代の雰囲気をそのまま残している中山道の奈良井宿への小さな旅

2014年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

岐阜県の中山道沿いの馬篭宿や妻篭宿は観光地として復元され、多くの人々が訪れています。

しかし同じ中山道でも奈良井宿はひっそりと江戸時代の雰囲気を残しています。観光客も少なく、静かに散策出来ます。江戸時代にタイムスリップしたような不思議な感じを受けるところです。

とにかく遠いのです。

東京から車で中央高速道路で長野県の塩尻まで行きます。

塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走ります。すると昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来ます。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場があります(一回500円)。車を預け、江戸時代の宿場町を静かに散歩するのです。江戸時代のままの旅籠や店を再現し、保存している900m位の通りを散歩するのです。 

奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えていました。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪、奈良井氏が居館を構えていたのです。 

戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所であったため、付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名前で残っています。 

江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅が決められたそうです。それ以来、260年間、中仙道は江戸と京都を結ぶ重要な街道でした。 

奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていたそうです。 

明治維新の時も幸い火災にもあわず江戸時代の家屋が残ったのです。戦後、昭和30年頃から、修理、復元の努力を続けて来ました。そして昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたのです。 

同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないのが幸いして、観光客も少なく落ち着いた雰囲気です。人影の無い宿場町を風が通り過ぎて行きます。現代風の服装をした人々も居ないので、本当に江戸時代に生まれ変わったような不思議な気分になります。 東京から日帰りの出来る小さな旅です。

静かな木曽蕎麦の「盛り」と五平餅の昼食にすることをお勧めです。ソバそのものの味を楽しむには「盛り」が良いと思います。

この奈良井宿へは数回訪れています。下に示した写真は2008年6月1日に家内が撮影しました。 

(奈良井宿の観光情報のURL:http://www.naraijyuku.com は良く出来ているので是非ご覧下さい。特に建物の特徴が面白いです))

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今年も真蔵院の蓮の花が咲きました

2014年07月11日 | 写真

日本各地には蓮の花の名所がたくさんあります。お釈迦様へ蓮を供えるのであちこちのお寺さんが大切に育てています。

それはさておき私の住んでいる小金井の蓮の花の名所は真蔵院というお寺の本堂前の庭です。毎年、毎年、7月中旬になると飽きずに写真を撮りに行きます。

インドで蓮の花を見たらどのような印象を受けるのでしょうか?そんなことを考えながら今朝撮ってきた写真を下にお送りいたします。
お楽しみ頂けたら嬉しいです。

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夏だ!旅に出よう!(1)パラオの海の写真

2014年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ「戦争の悲惨さを忘れないようにしよう」と題する連載記事を書いています。

最近、安倍総理が集団的自衛権使用の閣議決定を行い、戦争の足音が次第に高くなった来たこの時期に、もう一度戦争の悲惨さを思い起こして、絶対に戦争をしないようにという意図で書き続けている連載記事です。

私は安倍総理の閣議決定には賛成です。

日本人が国際社会で義務と責任をはたすという決心を示したのです。それはそれで良いことです。

今回の決定は昨今の国際情勢からした方が良いと思います。

しかし今回の閣議決定と、戦争をすることは絶対に別です。

二度と戦争はしていはいけません。

そのためにこの連載記事には精魂を込めているつもりです。

今まで掲載した記事は以下の3つです。

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(1)日本軍の侵攻が1900万人のアジア人を死に追いやった悲劇

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(2)特攻隊として5845人の日本人が死んだ悲劇とその精神的遺産

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(3)米軍の無差別爆撃で完全に焦土となった日本全国の都市の悲劇

しかしこのような深刻な記事が続いたので、ここで中休みをとって明るい楽しい記事を幾つか掲載したいと思います。

夏なので、海への旅、山登り、そして昔の日本の町々を訪ねる旅、そんな気楽で楽しい旅の記事を幾つか連載したいと考えています。

今日はパラオの海の中の写真と風景写真です。2012年8月に当時高校一年生だった男の孫が撮って来た写真です。

お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

なお「戦争の悲惨さを忘れないようにしよう」と題する連載記事は以下のように掲載される予定です。原稿は出来上がったいます。

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(4)64万人の日本兵のシベリア抑留と240万人のドイツ兵の抑留の悲劇  (7月13日掲載予定)

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(5)海外の114万柱の遺骨が還らぬ悲劇  (7月14日掲載予定)

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(6)日本の5700人のB,C級戦犯裁判とドイツのそれ以上の戦犯裁判の悲劇  (7月15日掲載予定)

さてそれはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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====参考資料:パラオ諸島の歴史=============

有史以前

有史以前のパラオについては未解明の状態だが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。

スペインの植民地

16世紀頃より、海運の進歩の結果ミクロネシア諸島にもヨーロッパ人が訪れるようになり、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきた。パラオも1885年にスペインの植民地下に入った。これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少したとされる。

ドイツの植民地

1899年に、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却、パラオもこれに含まれ以降ドイツ植民地となった。ドイツはパラオでココナッツ、タピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った。

日本の委任統治時代

1920年に第一次世界大戦が終わりドイツが敗れるとパラオ諸島などは日本の委任統治時代になりました。