明治維新以来、日本を近代国家にするために西洋文化の導入こそが一大事業でした。
富国強兵のための科学や技術の導入に成功しました。そして、ヨーロッパの文学や芸術作品の紹介も精力的に行われました。
現在、多くの日本人はヨーロッパ文化を完全に理解していると信じています。
私もそのように思っていました。ところが私の西洋理解が浅はかだったと吃驚するような体験をしたのです。
昔、アメリカ留学も終わりの頃、アメリカで就職するために「履歴書」の書き方を調べたのです。
そうしたら履歴書の重要な部分に「宗教的訓練」の有無とその内容という項目があったのです。意味が分からずアメリカ人の同級生に聞きました。
アメリカ人は気楽に、どの宗派のキリスト教の教会への何年間通ったかとか、日曜学校へは何歳の時、何年間通ったかを書けば良いのだと言います。
私はキリスト教の教会には行ったことはありません。すると彼は仏教に関して、僧侶の説教を何年間聞いたか、お墓参りは毎年行っているとか適当に書けば良いと気楽に言います。そして付け加えたのです。
「宗教的訓練を受けていないと就職が難しくなるから必ず適当に書いておくのだよ」と真顔で忠告してくれたのです。
その体験以来、私は「宗教的訓練」という言葉が忘れられません。
それ以後、私は折々に西洋人の書いたキリスト教に関する本を読みました。教会に行って説教も聞きました。
その結果、西洋人の感情や心の中には2つの共通な認識があると知ったのです。
一つは「信じなければ理解出来ない」という考え方です。
そしてもう一つは「信じるためには宗教的訓練を受けることが絶対的に必要だ」という考え方です。
はじめの考え方は、信じなければ理解できない・・・多くの西洋人の共通な認識 という記事に書きました。(7月27日掲載記事)
そこで今回は私の受けた宗教的訓練について簡単にご紹介します。
兵庫県の能勢の妙見様のそばの山里にある正林寺で、祖父が住職をしていたのです。
子供の頃、毎年夏、そのお寺に一家で帰省していました。
そして、その祖父や叔父と一緒に意味の分からないお経を唱えていたのです。
子供用の袈裟を着て、叔父とともに集落の家々を一軒一軒訪ね、お経をあげていたのです。お経は般若心経と大悲心陀羅尼などでした。
これが私の決定的な宗教的訓練になったのです。この体験のお蔭で私は人間を超える絶対的な存在を感じたのです。存在することを信じたのです。
そしてずっと後になって中年になってからカトリックの洗礼を受けました。すでに宗教的訓練を受けていたので何も抵抗感もありませんでした。現在もカトリックです。
そして最近、テレビでイスラム教徒が集団でモスクで膝まづいて神を礼拝している光景をよく見ます。すると、つい彼等を尊敬してしまうのです。
しかし一方では宗教の無力さも知っています。人間とは悲しいものです。
クダクダ書いているとキリが無いので、もう止めます。今日の挿絵代わりの写真は多摩川の上流の涼しそうな流れの写真です。2010年の夏に撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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