後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

民族の名誉を守ったアイヌ人、知里幸恵さん、知里真志保さん、川村カネトさん、萱野茂さん

2014年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人を4人上げれば幸恵さん、弟の真志保さん、カネトさん、そして萱野さんと私個人は思っています。

幸恵さんの事は有名ですが、弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道大学教授になった人です。

金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。

萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。

この中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。

アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。

その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。

彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。

沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。

感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。

この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。

この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。

良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。(終り)

下の北海道の風景写真の出典は、http://uttinka12.blog.fc2.com/img/DSC_3336-.jpg/ です。

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アイヌ民族の食べた植物の写真

2014年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アイヌ民族の食糧は簡単に獲れるエゾシカの肉と多量に獲れる鮭の干物でした。ヒグマはまれにしか食べられませんでした。クジラやトドなどの海獣も食べましたがニシンやイワシが主でした。若布や昆布も食べました。

その他に下の写真のような植物を食べていました。そして肉食と草食のバランスを取りながら北の大地で豊かな食生活を楽しんでいたのです。

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上はペカンペ(菱)の大産地として有名な釧路湿原にある塘路湖です。菱の実の争奪戦が行われたとの伝説も伝わているそうです。

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左がギョウジャニンニクの芽生えで、右が汁物の具として好まれるニリンソウ。葉の形は毒草のトリカブトと似ているため、採集には注意を要するそうです。

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左がマウ(ハマナスの実)。アイヌ語では旧暦7月をモマウタチュプ(少しばかりハマナスの実を採る月)、8月をシマウタチュプ(本格的にハマナスの実を取る月)と呼ぶそうです。

右がアイヌ語ではユクカルシ、カムイカルシと呼ばれるマイタケ。和人との交易品として重要なので、日本語名・マイタケも早くから広まった。

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左が葱です。江戸時代後期から栽培され、汁物や刺身の薬味に使われたそうです。

右はマキリ(小刀)。山菜の採集や魚の処理、調理に使われました。

アイヌの住居チセ(cise)は、地面を踏み固めた上に藁やゴザ、毛皮を敷いて床とした平地式住居で、その中央に木尻席を欠いた大きな囲炉裏が設けられていた。この囲炉裏に数個のシュワッ(自在鉤)が下げられ、そこに和人との交易で得られた大小のシュー(鉄鍋)がかけられていました。

アイヌは和人と同様に生食を好み、素材の新鮮さを最大限に生かした「刺身」「肉や魚のたたき」が大変に好まれていたのです。加熱調理については、炉の直火と鍋のみで可能な調理法、すなわち「あぶる」「焼く」「煮る」「ゆでる」「灰の中で蒸し焼き」でした。

場所請負制などでアイヌが和人の食文化に接する例もあったが、彼らが竃や釜、蒸篭など新たな調理具を取り入れることはありませんでした。

以上の写真と文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86 です。(終わり)


ロマンかき立てる北海道(5)アイヌ民族の文化・・・知里幸恵、萱野茂、川村カ子トの活躍

2014年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代の北海道にはその南端に小さな松前藩がありました。江戸幕府へ参勤交代をする大名が治めていました。しかしその他の広大な北海道の大地には狩猟と漁猟で生きていたアイヌ民族が独自の文化を持っていたのです。

その文化の内容を伝えた人々として知里幸恵、萱野茂、川村カ子ト(カワムラカネト)の3人を上げたいと思います。いずれも純粋なアイヌ民族です。

私はこの3人の書いた本を読みました。そして旭川にある川村カ子トアイヌ記念館と日高にある平取町二風谷(ニブタニ)にある萱野茂二風谷アイヌ資料館を訪問したのです。

川村カネトは鉄道技師として長野の飯田線の建設を指揮しました。萱野茂はアイヌ文化を研究し博士号を取得し、後に参議院議員になりました。

彼等の本を読み、旭川にあるアイヌ記念館や平取町の二風谷アイヌ資料館を訪問してみました。すると、文字を持たない民族のアイヌが高度な文化を持っていたことに驚きます。全ての民族文化に優劣が無いという言葉を実感できるのです。まず知里幸恵著、「アイヌ神謡集」から一節をご紹介いたします。

  梟の神の自ら歌った謡
     「銀の滴降る降るまわりに」(知里幸恵著、「アイヌ神謡集」より)

「銀の滴降る降るまわりに,金の滴
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。

詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.htmlをご覧下さい。

この「アイヌ神謡集」を読むと彼等が豊かな自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。

一方私は2004年の4月に、旭川の川村カ子トアイヌ記念館を訪問してみました。鉄道技師をしながらアイヌの工芸品を蒐集してた川村カネトのアイヌ人としての誇りと情熱がヒシヒシと感じるのです。下の写真は2004年に訪問した時の写真で左端が川村カネトの孫の館長です。 

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そして下にこのアイヌ記念館のHPから転載した川村カ子トの写真をしめします。 

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それから日高にある平取町の二風谷(ニブタニ)はアイヌの村落があったところです。そこの出身の萱野茂さんがアイヌ文化を学術的に研究し、工芸品を系統的に蒐集し、展示しているのが アイヌ資料館なのです。下にそのHPから萱野茂の写真をしめします。 

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北海道にはいくつもアイヌ文化の展示館があります。しかし私はこの川村カネトと萱野茂の展示館にこだわるのです。この二つの展示館からはアイヌ民族の息ずかいや情熱や誇りが感じられるのです。

萱野茂の資料館は彼の死後、平取町 町の二風谷アイヌ文化博物館の一部として管理されています。それは全体は広い博物館ですが、その一隅にある萱野茂の資料館だけが感動的だったのです。他の展示館やアイヌの家々の復元展示は立派ですが、何故か魂がこもっていないように感じられるのです。

同じような感じは、川村カ子トアイヌ記念館でも受けました。この二つのHPは以下にありますので、北海道に行ったら是非ご訪問下さい。

萱野茂の展示館:http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/html/sryo0N.htm

川村カ子トの展示館:http://ainu-museum.sakura.ne.jp/cn24/about.html

さてそれはさておきアイヌ民族はどのような暮らしをしていたのでしょうか?

それはアイヌの食べ物やアイヌの料理法などを検索すると随分と詳しく出ています。

簡単に言えば彼等は容易に獲れるエゾシカの肉を食べ、秋には鮭を多量に獲り干して一年中食べていたそうです。そして粟や稗を栽培し、そのおかゆを食べていたそうです。魚や海藻も食べ、クジラやトドも食べていました。水田は作れませんでしたが彼等の食生活は想像以上に豊かなものだったのです。

下に秋に多量に獲れる鮭を干している写真と、料理に使った鉄鍋の写真を示します。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86です。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)