後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

海上に漂流中の英国兵422名を救助した駆逐艦、雷の艦長、工藤俊作中佐の快挙

2014年07月16日 | インポート

先の大戦中、日本軍は数々の残虐行為をしました。

敵艦を撃沈させ、海上に逃れた敵兵は機関銃で処分するのが普通でした。救助なんかしていると敵の潜水艦にやられてしまうのです。それが戦場の常識でした。

しかし逐艦、雷の艦長、工藤俊作中佐は海上に漂流していた英国兵422名を救助し、オランダの病院船へ引き渡したのです。

この武士道精神にあふれる行為は2003年まで日本では秘密になっていたのです。

この事実を正確に紹介しているHPを見つけましたので下にご紹介いたします。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/319402.htmlです。

下の写真は駆逐艦、「雷」(イカヅチ)

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1998年5月天皇皇后両陛下は、イギリスを訪問されました。この時、第二次世界大戦で、日本軍の捕虜となった元イギリス兵たちが、戦争中の捕虜虐待(泰緬鉄道での強制労働等)の賠償を日本政府に求め、天皇へ謝罪を求めて、反日運動を活発にしていました。

 当時は日本の財界がイギリスに積極投資をしている時期で経済的に親密度が増しており、イギリス世論も、新しい関係を重視するものや、あくまで日本政府を非難し謝罪を要求するものなど様々で、新聞も大きく取り上げました。
 この元捕虜たちは、日本軍を恨んで激烈な反日活動をしていましたが、細川首相の時にすでに講和条約の終わった問題にもかかわらず、この元捕虜に謝罪し、「慰謝料は在英の日本企業から払わせる」と発言したものですから、大変な混乱を生じてしまい、在英日本人会は大騒ぎになったこともありました。この時から問題が泥沼化しました。
 天皇皇后両陛下が到着後、エリザベス女王と馬車に乗ってバッキンガム宮殿に向われるパレードで、イギリス国民が歓迎する中、元捕虜の数人は、背中を向けて抗議したほどでした。この元捕虜たちの天皇訪英を阻止しようとする反日運動がもりあがるなかで、1998年4月29日英タイムズ紙に、ある投稿が掲載されました。
 サー・サミュエル・フォール卿による、「戦時中、日本帝国海軍に捕虜になったが友軍以上の処遇を受けた」とする一文でした。この投書は読者に感動を与え、以降この反日活動は急速にトーンダウンしていきました。
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左はサー・サミュエル・フォール卿 ===右が工藤俊作・駆逐艦「雷」艦長
  昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。
翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷(いかずち)」に発見されたのだ。
一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。
「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。
救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。
ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。
一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、内火艇(艦載ボート)で救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。
ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。
一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。
「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。
サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。
一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。
戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間  だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。
さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。 
  今年七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。  サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いはここに達成されるのである。 (この記事での日付は2008年のものであり、再来日はその年128日となり、89歳(2008年)になるフォール卿は、義理の息子に車椅子を押してもらいながら12月8日の「工藤中佐顕彰式典」に臨み、亡き工藤艦長はじめ帝国海軍に感謝を述べた。 

(自由主義史観研究会)

  驚くべきことに、本会理事の岩田義泰先生(終戦時、陸軍少佐)は、そのとき近くのジャワ島のバタビヤにおられ、この海軍の敵兵救助劇についても噂で聞いていた、と先日伺った! しかしながら、工藤艦長も、それを知った陸海軍の将兵も「美談」や「手柄話」として語る者はなく、フォール卿が語り始めるまで、日本国民に知られることはなかったのである。
  この奇跡の実話が多くの人々に知られるようになったのは、偶然、恵隆之介氏がフォール卿に関するリポートをラジオで聞いたことに端を発する。
  《2003年6月13日、私はNHKラジオの朝の番組「ワールドレポート」を聞いて、強い感動と驚きにとらわれていた。それはロンドン発のリポートで、ラジオのリポーターは「なんでこんな美談が戦後、日本で報道されなかったか、不思議でならない」と興奮を抑えながら発言していた》(恵著『海の武士道』)   
  このお話は、フジテレビのアンビリーバボーでも放映され、ご存じの方も多いと思いますが、もっと多くの人に知って欲しいおはなしです。
http://www.youtube.com/watch?v=jLdX2ngSepY&feature=related 
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フィリピン
非常に感動的な物語だ・・・。
            本来、人間はこうあるべきなのだ。
 
アメリカ合衆国(24歳)
この事実は、日本人が悪人でない事をはっきり示しています。
イギリスと日本に栄光あれ!
 
カナダ(54歳)
            美しい話です。
            溺れているイギリス水兵を救助するために、海に飛び込む日本水兵のシーンは非常に説得力があります。
            戦時中に起こった全ての忌まわしい出来事に対して、ひとつの光をあてるものです。
 
アメリカ合衆国
            非常に説得力があります。
こんな話はこれまで聞いたことがありませんでした!
 
タイ(46歳)
これは間違いなく賞賛に値する行動です。私は尊敬の念を禁じえません。
 
フィリピン(27歳)
とても感動的です・・・。涙が出てきました。
 
イギリス(35歳)
たとえ、戦いの中であったとしても、名誉と尊厳は存在するのだ。
 
訳者注
            埋め込みしてある動画は、某両国によって荒れ放題になっているので、翻訳は諦めました。
ここからは同じ内容の別の動画からです。


Japanese Bushido saved lives (1-3 of 3-3)

http://www.youtube.com/watch?v=jLdX2ngSepY

            Japanese Bushido saved lives(2/3 of 3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=vbHIC_CLDhk

            Japanese Bushido saved lives (3/3 of 3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=KcwX93oi1CE

宮城県、鬼首高原にて想う(1)その不思議な風景が語りかける

2014年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム

鬼首(オニコウベ)高原に2泊して来ました。何もしないで高原の風を楽しんだだけです。

このところ「戦争の悲惨さを忘れないようにしよう」と題する連載記事を6編と関連の戦争記事を数編書いたので疲れていました。丁度良い息抜きになりました。

そこで高原のホテルでは戦争に関係のないいろいろなことを考えていました。

鬼首(オニコウベ)という恐ろしい地名は今から1200年程前坂上田村麿が東征の際、賊の首領「大武丸」を征伐し、この山地でその首をはねたことによるそうです。

当時「大武丸」を鬼と呼んでいたので、地名を「鬼切部」と称していたのが
      いつの頃からか「鬼首」と云うようになっそうです。(http://auo-kz.com/driv/kitaon/onikoube/oniko.html

名前の由来は別にしてこの山地に入って来るとその不思議な風景に圧倒されます。別世界なのです。

この高原は20から30万年前に大きな火山が爆発し、火口がその後数万年かけて沈んで平地になった場所です。直径約10Kmのカルデラ平地なのです。ですから周囲は外輪山に囲まれています。そして火砕流の流れ出た東北の一角は外輪山が無く、自動車道路になっています。

この鬼首カルデラ高原にあるホテルに泊まり、部屋の外のベランダでビールを飲みながら外輪山を飽かずに眺めていると、その風景が私にいろいろなことを語りかけて来るのです。

まず日本の陸地の風景は次の3つの自然現象で出来上がっていることに思い至りました。

(1)海底の堆積岩が盛り上がって高い山々になる。例えば日本の南北アルプスの山々の大部分がそうです。上高地のような美しい場所も出来ました。

(2)火山活動で山が出来、外輪山も出来る自然現象で風景が出来上がる。そしてこの場合カルデラ平地やカルデラ湖が出来る場合もあります。火砕流が川をせき止めて湖を作ります。例えば富士山とその北側の外輪山と富士五湖はこうして出来上がった美しい風景です。

(3)川が山々や河岸段丘を削り、美しい渓谷を作り、下流では川下りで紅葉を楽しめるような風景を作る場合もあります。

勿論、上の3つが複雑に作用しあって自然の風景を美しくしている場合もあります。

それはさておき、鬼首高原の魅力はカルデラ高原にあります。

回りをとり囲んでいる外輪山の斜面が緑豊かな草原になっているのです。そして高い尾根の上の樹木が背景の空に透けて見えるのです。尾根は風が強いらしく木々の枝が大きく揺れています。この草原は人間が作ったものです。スキー場やゴルフ場に使っているのです。

晴天の青空も良いのですが、突然霧が出てくると外輪山が途端に幽玄な水墨画の風景になるのです。

この地上では戦乱が起き、栄枯盛衰が起き、人の世はめまぐるしく変わります。

しかしホテルのベランダから見える自然の風景は10万年、20万年と変わらないのです。そんなことを考えながらビールを飲んでいたら何時の間にか日が暮れました。そんなのんびりした旅だったのです。下に鬼首高原の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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上は泊まったホテルです。ヨーロッパアルプス地方のホテルの内装と同じでした。ホテルの後ろ側も外輪山がとり囲んでいます。

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ホテルの西側の外輪山です。外輪山で一番高い山が中央のカムロ岳です。

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ホテルの部屋の前の北に面した斜面に霧がかかっている様子です。

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霧が晴れて青空になると黄色の花々が一面に咲く草原になります。

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上はその黄色い花の写真です。名前は分かりません。どなたか教えて下さい。