後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「人生で一度は行ってみたい!日本の絶景花畑で癒されよう」からご紹介します。

2014年07月20日 | インポート

このところ戦争のいまわしい話が続いたので素晴らしい花園の写真を3枚お送りします。出典は、http://mery.jp/13631 です。
上から順々に以下の通りです。
茨城県のひたち海浜公園の「みはらしの丘」のネモフィラの花園です。
山梨県南都留郡富士河口湖町本栖212の富士芝桜まつりの写真です。
長崎県佐世保市ハウステンボスのチューリップ畑です。

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忘れたいが、戦争になるとこういうことが起きるのです・・・・米軍機搭乗員捕虜の日本軍による処刑の一覧表

2014年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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日本人として忘れたいことですが、やっぱり記録は記録として、最近の若い日本人に読んで頂きたいと存じます。

戦争になると人々の人格は簡単に破壊されるのです。このような記録を見て、平和の重要性を何度も、何度も確認することが重要だと信じています。

殺された米軍兵士にも親も兄弟も居たのです。戦後、米軍が復讐の気持ちでB,C級戦争犯罪人裁判をしたのです。勝った方に正義があるのが戦争の理不尽さです。

それにしても、米国の犠牲者へせめてマリーゴールドの写真をお供え致します。

下の目次の項目をクリックすると詳細情報が出て来ます。

横浜BC級戦犯裁判で裁かれた搭乗員処刑事件

http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/yokohama.html#07

(注)(  )内は、「GHQ法務局調査課報告書」(INVESTIGATION  DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)の番号、及び「アメリカ陸軍第8軍法務官による横浜BC級戦犯裁判の再審 1946-1949」(REVIEWS OF THE YOKOHAMA CLASS B AND CLASS C WAR CRIMES TRIALS BY THE U.S. EIGHTH ARMY JUDGE ADVOCATE 1946-1949)に示された事件番号を示す。

(注)以下に列挙した各事件のうち、千葉県一宮町事件、父島事件、台湾軍軍律裁判事件は、横浜裁判で裁かれたものではないが、日本国内で起こった事件、または関連深い事件なので、一緒に記載しておく。

目次

千葉県日吉村事件 千葉県佐原町事件
千葉県紙敷村事件 千葉県一宮町事件
東京立川憲兵隊事件 東部軍一戸中佐事件
東京上野憲兵隊事件 東京陸軍刑務所飛行士焼死事件
東部憲兵隊事件 東海軍事件
中部軍・中部憲兵隊事件 高知憲兵隊事件
西部軍事件 喜界島事件
宮古島事件 石垣島事件
父島事件 台湾軍軍律裁判

【参考文献】

≪千葉県日吉村事件≫

(GHQ報告書3号、350号、624号、871号  再審記録25号、270号)
 裁判の期間:1946年4月5日~20日(境野鷹義は1948年1月7日~21日)

1945年5月25~26日の東京大空襲時の深夜、1機の29が千葉県長生郡日吉村(現・長柄町)に墜落し、搭乗員11人のうち4人は墜落死したが、5人は捕虜になり、残り2人は瀕死の重傷を負っていた。
 夜明けとともに、捕虜5人は茂原憲兵隊員によって連行されたが、重傷の2人は日吉村の長栄寺に駐屯していた東部第426部隊第1大隊第1挺身中隊(隊長は満淵正明大尉)に預けられた。

中隊では手当を施す術もなく、2人の米兵は放置され、1人は間もなく死亡するに至り、もう1人のDarwin T.EMRY少尉も苦しみ続けていた。中隊長の満淵正明大尉は、命が助かる見込みはないとして処刑を決意し、集まって来た100人以上の村民が見守る中で衛生兵の境野鷹義曹長に命じて斬首させた。その後、菊地重太郎少尉の指示によって、EMRY少尉の死体は初年兵の刺突演習の材料とされた。

戦犯裁判で中隊長の満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死のために武士の情けで介錯したもの」と主張し、「武士道裁判」と呼ばれた。

判決の結果は、満淵正明大尉は死刑、処刑実行者の境野鷹義曹長は無期懲役(戦後逃亡を続けていたため、分離裁判)、刺突演習を指示した菊地重太郎少尉は懲役25年、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1~2年となった。

≪千葉県佐原町事件≫

(GHQ報告書395号  再審記録276号)
 裁判の期間:1948年4月12日~5月13日

1945年6月23日、千葉県香取郡佐原町(現・佐原市)近郊の久賀村(現・多古町)の山中にP51が墜落し、操縦士のJohn V.SCANLAN Jr.中尉がかなりの傷を負って佐原国民学校に置かれていた第152師団司令部へ連行された。

彼は傷の手当を施されることなく、やがて、数人の兵士たちによって学校の前庭に引き出され、群衆の前に引き出されて殴打を受けた。その後、詰めかけた群衆の数は数千人にもふくれあがったので、彼は改めて校庭へ移され、そこでさらに群衆から殴打暴行を受けた。その間、衛生兵が何度かカンフル注射を繰り返したが、数時間後に死亡するに至った。

戦犯裁判の結果は、第152師団参謀長の霜田千代士大佐が懲役40年、同参謀の新郷良夫少佐が懲役5年、酒井興三中尉が懲役5年、高橋一中尉が懲役5年、本宮宇之助中尉が懲役5年などの他、暴行に加わった佐原町民4人も懲役1年となった。

  第152師団長の能崎清次中将、同高級副官の笠井平馬少佐、佐原町民7人は、直接の関与はないと認められて無罪となった。

・・・・以下省略 ・・・・

参考:

B-29による日本への初ミッションは1944年11月24日の東京空襲より。45年8月15日までに広島・長崎への原爆投下を含め、延べ33,000機のB-29が約380回の爆撃ミッションを行った。日本に与えた人的損害は死者33万人、負傷者47万人、被災者528万人以上。これに対して、B-29は512機失われ、のべ2、707機が損傷。乗員の戦死者は2,982名。ちなみにB-29の総生産数は3,971機。
 (アメリカ空軍爆撃機運用史による)


私は貝になりたい・・・集団自衛権に関する対立と論争

2014年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、「私は貝になりたい」というテレビドラマを涙を流しながら見ました。

話は若い床屋が妻子を残し出征し、本土防衛作戦に参加します。そしてB29搭乗員の捕虜を刺殺する命令を受けたのです。いやいやながら銃剣で刺殺します。戦後復員し、平穏に床屋をしていると米軍のMPが来て、逮捕連行されます。

BC級裁判で絞首刑の判決を受け、随分時間がたってから刑が執行されます。

床屋の主人役をした中居くんは性格が優しすぎて、戦前の日本軍の野蛮さや、理不尽な裁判に苦悩する姿の演技には向いていないようです。草柳くんのほうが向いていたと感じました。

それに比較して仲間由紀恵さんは精魂込めた演技でした。特に夫の助命嘆願の署名を集めるために、雪の降りしきる山村を歩きまわる映像は美しく、幻想的でした。

訪ね回る農家では署名を冷たく断れるのです。玉砕した息子に比べれば貴女の夫は幸せだといって断られる場面がはさまっています。

悲しげな音楽に合わせて降りしきる雪の場面が転換して行くようすはいかにも映画芸術のきわみでした。涙が唐突に流れ出しました。

死刑執行直前の仏僧の教誨師へ「今度生まれ変わるときには、深い海の中の貝になりたい」といって絞首台へ登っていったのです。

このBC級裁判の悲惨さを描いたテレビドラマは昭和30年代の名作として歴史に残ったのです。フランキー堺さんが名演技を見せてくれたのが忘れられません。

詳しくは、http://blogs.yahoo.co.jp/kouji_sg1/35665195.html をご覧下さい。

昨夜このドラマを見てからいろいろなことを思いました。

こんな理不尽なことが起きるから戦争は嫌だ。そして戦争への道を開く集団自衛権の行使に反対する人々がますます多くなるのも自然だ。復讐心から裁判をし、そして刑を執行したアメリカ人はキリスト教徒なのにイエス様のことを忘れているのだ。これは反戦ドラマだ。そういえば「二十四の瞳」も反戦映画だった。

しかし日本軍は捕虜を残虐に取り扱ったのは事実だったのだ。

以上のようなにいろいろな思いが湧き出てきました。

しかしこのドラマのように日本人の感情だけに訴えて、お涙頂戴的に描くのは客観的公平さに疑問が残るものです。

しかし「二十四の瞳」も「私は貝になりたい」も人間の悲しさを美しく描いた文芸作品です。それを反戦映画と見るのは間違いだという考えもできます。

ですからこそ私は集団自衛権の行使に関する論争には貝になりたいのです。

昨夜のドラマに関係する最近の記事3件の題目と写真を下に示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

戦争の悲惨さを忘れないようにしよう(6)日本の5700人のB,C級戦犯裁判とドイツのそれ以上の戦犯裁判の悲劇

戦争の悲惨さを知るために第二次世界大戦後の日本のB,C級裁判の一覧表をご覧下さい

日本は数多くのアメリカ兵捕虜を殺し、ドイツはほとんど殺さなかったという事実

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