人の心は有名なブランドの名前に対して憧れを感じるものです。そして有名なブランド名のついた品物を尊敬します。
しかし何処の国でも知識人はそんな人の心を批判的な目で見ます。名前の有名さに頼って自分で考えることを放棄する傾向を非難しています。
しかし良いものを作ることは尊い文化活動です。そのお蔭で経済が発展し生活が豊かになるのです。
こんなブランドと人の心のいろいろな揺れ動きに関して連載記事を書き進めて行きたいと思います。
夏の暑さを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
はじめはロールスロイス、ベンツ、シャネル、ルイ ヴィトンなどのヨーロッパのブランド品ですが、次第に日本のブランド品、そして最後は人間のブランドとは何かについても言及したいと考えています。
今日は英国の栄光と衰退を示すようなロールス・ロイス社の自動車と航空機用のジェットエンジンの話をいたします。
昭和生まれ昭和育ちの古い日本人の憧れの車はロールス・ロイスでした。昭和天皇も長い間ロールス・ロイス車に乗り、戦後の地方巡幸でも近場へは乗って行きました。
その車は現在、昭和記念公園にある昭和天皇記念館に展示してあります。
この乗用車は信頼性の高い高品質な高級車でした。日本が輸入した数も限られていて、昭和天皇や一部の大金持ちしか乗れなかったのです。ですから人々は一生に一度は乗ってみたいと憧れていたのです。
私自身も戦後、東京の街でたまにロールス・ロイスの走る姿を見て感激したことが数回あります。
しかしロールス・ロイスという会社は日本の高度成長期に経営難にあえぎ、1971年にはイギリスの国営会社になりました。
そして紆余曲折のあと、1998年にはドイツのフォルクスワーゲン社に買収されてしまったのです。このニュースを新聞で読んだ時、私は大英帝国の凋落を実感し、その栄枯盛衰の激しさに悲しい思いをしたものです。
その後いろいろありましたがロールスロイス車の製造、販売権はドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)が保持しています。
現在の日本人はロールスロイス車を忘れたように誰も話題にしません。
実はロールスロイスのブランドのジェットエンジンは故障の少ないことで有名で、いまだに民間旅客機の主流エンジンなのです。
一方、ドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)は戦前、戦中はドイツの戦闘機の直立水平エンジンを製造していて、日本の戦闘機にも使われていたのです。しかしその航空機エンジン部門は解体され、現在は作っていません。このBMWがロールスロイスの製造、販売権を持つことになった運命のいたずらを不思議に思います。
さて今日の話題の自動車と航空機用エンジンのブランド名は長い年月の使用実績による高品質の証明のあるブランド名なのです。こういう場合は名実共に揃った本物のブランドなのです。
下にロールス・ロイスの車の写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
上は15hpの車(1905年)です。
上は20hpの1924年製の車です。
上はシルヴァークラウド(1956年)です。
===参考資料:ロールスとロイスによる1906年の創業========
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9より。写真の出典も同じです。
1906年3月に設立された[1]ロールス・ロイス社 (Rolls-Royce Limited ) は、航空機用エンジンや乗用自動車の製造を行うイギリスのメーカーであった。1931年には同じイギリスのスポーツカーメーカーであるベントレーを買収するなど規模を拡大し、特に乗用車製造においては高級車の代名詞となった。しかしながら1960年代になると、乗用車製造における技術革新の遅れ、更には新たに開発・発売した航空機用ジェットエンジン「RB211」による損失の拡大などのために経営が悪化した。そのまま1971年4月に経営破綻、イギリス政府によって国有化された。
1973年、国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち自動車部門(ベントレーを含む)のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカースに譲渡された。この再び民営化された自動車部門は、ロールス・ロイス・モーターズ(Rolls-Royce Motors )と命名され、ロールス・ロイス車の製造・販売を継続することとなった。1998年、ヴィッカーズはロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功した。しかしながらこの際、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどはBMWに譲渡されるという捩じれが生じている。その後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年1月からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなった。BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始した。
一方、国有企業として残存したロールス・ロイスでは航空機用エンジンや船舶の製造などが行われていたが、1988年に再度民営化され、新生ロールス・ロイス(ロールス・ロイス・ホールディングス)として現在に到っている。
創業者たち
ロールス
チャールズ・スチュアート・ロールズは、上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者であった。
学生時代には自動車速度制限法として悪名高かった赤旗法廃止に力を尽くし、イギリスの王立自動車クラブ (RAC) の前身となる自動車クラブの設立にも寄与した[1]。卒業後の1902年には、親友でRAC幹部でもあったクロード・ジョンソン(Claude Goodman Johnson 、1864年 - 1926年)を右腕に、ヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズ(C.S.Rolls&Co. )を設立して自動車の輸入ビジネスを営み、フランス製のパナールとモール、後にはベルギー製のミネルヴァを扱った[1]。
1900年前後のイギリス車は、フランスやドイツに比して技術的に遅れていた。見るべきものとしてはフレデリック・ランチェスターが開発した先進的な小型車「ランチェスター」が存在したが、これは設計が複雑で、広く普及するだけの普遍性を欠いていた。
当時のイギリスの自動車市場をリードしたのはフランス車であった。チャールズ・ロールズも大型のフランス車に乗ってレースに出場しており、1903年にダブリンで93mph(約149km/h)の世界速度記録を達成した車は、自ら輸入したモールであった。チャールズ・ロールズとクロード・ジョンソンは、イギリス人として、欧州大陸の水準に比肩しうるイギリス車が存在しないことを常々残念に思っていた。
ロイス
フレデリック・ヘンリー・ロイスはリンカンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれ、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となった立志伝中の人物である。1884年、20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F・H・ロイス(F.H.Royce.Co )をマンチェスターに設立した。
努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機とモーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げた。
1902年に、長年の過労で体調を崩して療養を勧められたロイスは、療養中にフランスのドコービル製のガソリン自動車「12HP」を購入した。ところがこの車は扱いにくい上に度々故障を起こし、幾度修理を重ねてもまともに実用にならなかった。ロイスは強い不満を感じた。
その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがF・H・ロイスの市場に競合相手として出現してきた。ロイスと共同経営者のアーネスト・クレアモント(Ernest Claremont 、1863年 - 1921年)は新しい分野の市場を開拓する必要に迫られていた。そこで自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意した。1903年から自社の優秀な電気工数人を助手として、マンチェスター・クックストリートの自社工場で開発に着手。昼夜を次いでの開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車を完成させた。
1904年に完成した「10HP」は、Fヘッド(フラットヘッド)の直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計だった。奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていた。メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、トレンブラー高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。4月1日に行われたテストドライブでは16.5mph(約26.5km/h)のスピードで145マイル(約233km)を走破した。・・・以下省略・・・