政治と宗教の分離の原則は欧米の近代国家の基礎です。
ですから政教分離が徹底していない靖国神社の存在は、日本が欧米流の近代国家でない部分をその文化の中に少し抱えていることを示しています。
しかし私は、日本の文化の一部としても、祀られることを希望しない人は祀らないことを完全に実行して貰いたいと思います。
靖国神社の存在は日本人の宗教観や、神道が天皇家の宗教であることとも関係していて問題は複雑で深いので。いたずらに声高かに論争しても決着が着く筈がありません。
ですから靖国神社のことはブログに書かないほうが良いといいます。
書くと右翼や軍国主義者と誤解されがちです。
また過去に靖国神社は戦争に協力したと書けば心穏やかでない人々が多いのです。
左翼系の社会学者は日本固有の宗教文化を簡単に無視して靖国神社を非難して、その存在を許しません。しかし世の中はそんな簡単にはいきません。
例えば靖国神社のなした一つの重要な役割を以下に書いてみたいと思います。
それは靖国神社は復員軍人の心の痛手を癒してくれたのです。
幸いにも命ながらえて地獄の戦場から帰還した軍人や兵士の心のケアをする役割を果たしたのです。意図したことではなかったのですが、その役割を担ったのです。
復員軍人の多くは、死んでしまった戦友の遺骨や遺品を持たず帰って来た人が多かったのです。作戦の失敗で多くの部下を失った人も帰ってきたのです。殺すか殺されるの戦場で残虐行為をした人もいました。自分の身代りになって、戦友がBC級戦犯として処刑された人もいたのです。死んでも捕虜になるなという戦陣訓に反して捕虜になって帰ってきた軍人もいました。
復員してきた軍人や兵士の多くは、平和な時代には想像もつかない心の病を背負っていたのです。復員軍人の多くは心の痛手を背負って帰って来たのです。
そういう軍人のある一群の人々は亡くなった戦友の家々を訪ね、その写真や遺品を集めたのです。そしてそれを靖国神社の就遊館へ持って行って保管し、展示するように頼んだのです。
そうすれば亡くなった戦友の慰めになると信じていたのです。そしてそうすれば自分の心の痛手も癒されるのです。
それらを受けとった神主姿の就遊館の人々は静かに、「御苦労さまでした。神様の写真として遺品と一緒に展示させて頂きます」と言ったに違いありません。
戦後、戦死した軍人や兵士の遺品と写真を受け取って、大切に保管してくれるところは就遊館だけだったのです。
下の写真のように犠牲者の姿を命(みこと)として掲示してる額の前で、遺族のような高齢な夫人を神主がしきりに慰めている場面を私は偶然見たのです。
心に傷を負った復員者や遺族を癒してくれたのは就遊館の人々だけだったのです。
当時はカウンセラーという人は存在していませんでした。
就遊館の人々はカウンセリングはしません。遺品や写真を持って来た復員軍人の話を静かに聞くだけです。しかし聞くことがカウンセリングになったのです。
これが私が言いたい靖国神社の一つの重要な役割なのです。
戦後、厚生省の役人はそれをしませんでした。戦死者の情報は集めましたが遺品は受け取らないのです。
靖国神社は軍人の心の傷を治す努力をした訳ではありません。しかしその役割を果たしたのです。靖国神社の悪口を言う人々にこのことを静かに考えて頂きたいと思います。靖国神社の全てが悪ではないのです。良い部分もあるのです。
この事は私をヨットに何度も乗せてくれた元特攻隊だった田村さんから聞いたことです。
彼は予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料を集め、その展示館、「雄翔館」を茨城県の霞ヶ浦に作った人でした。
同期の予科練性が特攻で死んで行き、田村さんだけが残ったのです。その心の傷は予科練の跡地に、「雄翔館」を作ることで癒されたのです。
(田村さんのことは、人間が好きだから旅をする(2)悲しそうな特攻隊員の顔を忘れない 2008年10月24日掲載記事で説明しています。)
現在、靖国神社には下の写真のような展示があります。写真は私が2012年8月に撮ったものです。
この写真をご覧頂きたいと思いお送りするしだいです。現在でも年老いた遺族が神主に案内されて自分の夫や親族の写真を探しに来るそうです。
上の左から二番目の写真に女の子が写っています。艦載機の機銃掃射で国民学校の校庭で死んだ児童だったそうです。
今日は靖国神社が戦後に果たした重要な一つの役割を書きました。
それてにしても、私は政治と宗教の分離の原則をもっともっと徹底して貰いたいと思っています。それと祀られることを希望しない人は祀らないことも実行して貰いたいと思います。
しかし問題は複雑で深いので。いたずらに声高かに論争すべき問題ではないのです。
毎年夏になると終戦記念日がめぐって来ます。夏には静かに戦争にまつわるいろいろな事を考えてみたいと思います。(終り)