この様に光は人間を幸せにさせるものです。
Face Book ではこの欄に「今何している?」書いてあります。
私は今はこの文章を書いていますが、今朝は早く起きてローマ教皇<wbr></wbr>フランシスコさんが出した回勅、「信仰の光」の序文を読んでいま<wbr></wbr>した。
回勅などという日本語は誰も使いません。しかしその意味は、ロー<wbr></wbr>マ教皇が全世界の司教あてに出す公文書のことです。
その公文書を日本では翻訳して一般人向けに売っているのですから<wbr></wbr>日本社会の自由さに感謝します。それにしても難解きわまりない本<wbr></wbr>です。神学の素養の無い人は理解しにくいと思います。
しかし今朝はその序文が少し理解出来たので分かりやすく簡単な日<wbr></wbr>本語へ翻訳してみたいと思います。
まず序文の要約を一行で書いてみます。
冒頭に書いた朝日の光や月の光は一時的に人々を幸せにしますが、<wbr></wbr>永遠に幸福にさせる光は神とイエスの愛を信じることで見ることが<wbr></wbr>出来る「信仰の光」なのです。
この序文を読むと、本の題目が何故「信仰の光」となっているかが<wbr></wbr>納得出来るのです。
しかしこの光は神とイエスの愛を信じることが出来ない人々には見<wbr></wbr>えない光なのです。
ここで大部分の日本人は「そんな光は関係ない。読む必要なんか無<wbr></wbr>い。大体私は無宗教なのです。」と言ってこれ以上読むのを止める<wbr></wbr>でしょう。当然です。
ところがこの本には西洋文化の基本的な考え方が書いてあるのです<wbr></wbr>。宗教書として読むのではなく、エジプト文化から連綿と続く西洋<wbr></wbr>文化の基底的な考えかたが書いてあるのです。
西洋人の本音、そして彼等の喜びや悲しみを少しでも深く理解した<wbr></wbr>いと思う日本人、いや多くのアジア人のとっては大変重要な助けに<wbr></wbr>なる本のようです。
例えば序文の始めにエジプトの太陽神信仰についてこのように書い<wbr></wbr>てあります。
「・・・光を切望した異教世界(私の注釈:エジプトやその他の地<wbr></wbr>域)では、太陽神、すなわち「不滅の太陽」への崇拝が発展しまし<wbr></wbr>た。人々は日の出とともに太陽に祈願をささげました。しかし、太<wbr></wbr>陽が毎日新たに昇るとはいえ、それがすべての人の人生の上に光を<wbr></wbr>輝かせるとは考えられません。実際、太陽は現実の全体を照らしは<wbr></wbr>しません。その輝きは死の闇までは届きません。・・・」と書いて<wbr></wbr>あります。
そして死の闇まで届く光は神とイエスを信じると見える信仰の光な<wbr></wbr>のですと続きます。
この部分は西洋人の原始宗教への考え方を明快に示しています。
日本人は神社で家内安全、商売繁盛と祈願します。ヨーロッパ人は<wbr></wbr>エジプトの宗教を考えてそれは自然な幸福追求の祈りとして受け入<wbr></wbr>れます。彼等もそのような現世の願いはマリア様にしています。人<wbr></wbr>間として当然です。
しかしそのような原始宗教の神々の発する光はすべての人の人生の<wbr></wbr>上に光を輝かせるとは考えていないのです。
これがキリスト教と原始宗教の相違だとヨーロッパ人が考えている<wbr></wbr>のです。
そして日本人が尊敬し崇拝しているお釈迦様については一切言及し<wbr></wbr>ていないのです。
彼等の文化にはお釈迦様は存在していません。理解も出来ないので<wbr></wbr>す。勿論少数の ヨーロッパ人には仏教徒もいますし、仏教を専門にする宗教学者も<wbr></wbr>います。
しかし彼らは非常に特殊な人々と理解したほうが現実的な理解です<wbr></wbr>。
この様にこの「信仰の光」という本にはヨーロッパ文化の基底をな<wbr></wbr>す考え方が書いてあり大変興味深い本なのです。
今回はここまでとします。(続く)
少し心の休まるようにささやかな花の写真を一枚お送りします。
