後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

使用済み核燃料は穴を掘って埋めてしまえ!

2011年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

以前、このブログで掲載した原発関連の記事へ対して、「想定害」という方から核燃料の最終処分施設のオンカロについて教えて頂きました。

それ以来、使用済み核燃料の処分方法についていろいろ調べて来ました。

深い海溝に沈めるのが良いと思っていましたがそれは素人の間違いでした。

結論は、使用済み核燃料は穴を掘って埋めてしまうという方法が一番現実的な解決方法として各国でその場所を選定中です。その中で、フィンランドは既に穴の掘削を始め、2012年には使用済み核燃料を埋め始める事になっています。

それに関する報告書の冒頭部分を以下に掲載致します。2つのURLを開いて見ると各国の処分方法の進捗状況が分かります。皆様からのコメントをお待ちしています。

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(2)フィンランドにおける地下岩盤特性調査施設(ONKALO)建設の近況
企画小委員会委員 高橋美昭(原子力発電環境整備機構 技術部)

( http://www.jsce.or.jp/committee/rm/News/news8/Onkalo.pdf そして、

http://www.nsc.go.jp/senmon/shidai/hlwshop/hlwshop001/3.PDF もご覧下さい)

1. はじめに
2004 年夏,フィンランドのオルキルオトで,高レベル放射性廃棄物最終処分のための地下岩
盤特性調査施設(ONKALO)の建設が開始された。2005 年9 月9 日時点でアクセス坑道(斜坑;
延長5.5km)の総掘進長は約700m に達した。
今から4 年前の2001 年5 月,フィンランド議会は,原子力発電所で発生する使用済燃料の
最終処分場をユーラヨキ自治州のオルキルオト島に設置することを決定した。これによりフィ
ンランドは高レベル放射性廃棄物の最終処分サイトを世界で最初に決定した国となった。実施
主体であるPosiva(ポシヴァ)社(電力会社2 社の共同出資会社)は,処分計画の次のステー
ジである地下岩盤特性調査施設(ONKALO)の建設を開始し,2012 年の処分場建設許可申請,2020
年頃の操業許可申請に向けて着実に計画を進めている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下省略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


韓国の大統領と中国の首相の大震災被災地訪問に心暖まる。感謝します。

2011年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国の大統領、李明博さんと中国の首相の温家宝さんが一昨日、東北地方のガレキの広がる被災地を訪問しました。ガレキある近所で、犠牲者のお墓へ花を供え、冥福を祈ってくれました。

そして避難所にいる人々と話をし、激励してくれました。

その後で、福島市へ行き、菅直人首相と合流し、3人で福島産のサクランボなどを食べて、放射能の風評被害が無くなるように宣伝してくれたのです。

中国も韓国も大震災直後から救助隊を派遣してくれたり、ガソリンや食料を無償で送ってくれました。

その上、今回の韓国の李明博大統領と中国の温家宝首相の訪問が続いたのです。犠牲者の冥福を祈り、避難民と親しく話し、勇気づけようとする光景がテレビに出ていました。感動的な光景です。久しぶりに心が温かくなります。

今日の新聞には李明博大統領と温家宝首相と菅直人首相が並んだ記者会見の写真が大きく出て居ました。3人とも親しげに笑い顔で、打ち解けている様子です。

昨日、東京の迎賓館で3人が一緒に会い。原発事故や天災の時に情報を共有し、協力しあうという共同宣言を発表しました。日本の復興へも最大の支援をしてくれる事も発表しました。

3人の首脳が並んで、笑っている今日の新聞の写真を見て深い感慨をおぼえます。戦後、中国共産党は朝鮮動乱の後押しをし、韓国へ攻め込んで来たのです。そしてベトナム戦争で中国は韓国や日本と激しく対立し、厳しい冷戦を続けて来たのです。

その後も韓国と中国は靖国神社問題や日本の昔の侵略を激しく攻撃し続けていまた。

私はそのような時代の3国の関係を見て来たのです。そのような時代の中国や韓国を知っています。それだけに今日の3人が仲良く笑っている写真を見ると目頭が熱くなってきます。ああ、良い時代になったなあと感動するのです。そして日本は必ずや復興するという確信が湧いてきます。

福島原発の直後にフランスのサルコジ大統領が来ました。大震災の犠牲者へ哀悼の意を表してくれました。有難かったです。しかしサルコジ大統領の訪日には原発の核燃料を従来通りフランスから買って貰いたいという目的もあったのです。

今回の韓国や中国の首脳は東北地方のガレキの前で犠牲者の冥福を祈ってくれたのです。福島へ行って、微弱とはいえ放射能で汚染された可能性のある果物を食べてくれたのです。誠意がこもっています。

現場を直接見た韓国の李明博大統領と中国の温家宝首相はその光景から必ず考えが変わると思います。日本への同情と親近感が強くなると信じています。感謝の気持ちが日本中に広がっていると確信しています。有難う御座いました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


新約聖書の面白さ・・・イエスを疑う弟子達の質問

2011年05月22日 | インポート

イエスと行動を共にしていた弟子達でさへ、イエスが神の子であると強く信じて居なかったと新約聖書に書いてあるのです。その部分では、弟子たちの人間的な疑問をとても率直に書いてあります。私自身も、時々、フッとそんな疑問を感じる瞬間もあります。ですから新約聖書はとても身近に感じられ、強い共感と親近感が湧いてきます。

弟子達はこの世の常識で考えて、イエスを信じられないのです。それでいろいろイエスに質問をします。信仰というものを合理的に理解しようとしている弟子たちにいらいらしながらイエスは神を見る方法を説いています。

以下に示した、ヨハネによる福音書のある部分を読むと、きっと皆様は弟子たちの気持ちに共感されれと思います。

このような箇所が新約聖書のあちこちにさり気なくちりばめてあるのです。その故に私は新約聖書に強い親近感を持っているのです。

今日のミサで朗読した「ヨハネによる福音書」(ヨハネ14・1-12)は以下のように書かれています。

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

トマスが言った。

「主よ、どこへ行かれるのか、わたしには分かりません。どうして、その道を知ることができるのでしょうか。」

イエスは言われた。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない。あなたがわたしを知っているなら、私の父も知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

フィリポが、

「主よ、わたしに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

イエスは言われた。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、「わたしたちに御父をお示しください」と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないのなら、業(わざ)そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業(わざ)を行い、また、もっと大きな業(わざ)を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」 (以下略)


数々の激動を乗り越えた日本は必ず復興する・・・何故そのように信じられれのか?

2011年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は江戸末期の開国と明治維新の動乱、そして1945年の敗戦と、激しい社会変化を乗り越えて豊かな国へと成長して来ました。

しかしその日本も、東日本大震災と大津波、そして続いて起きた福島原発の事故で、大きな試練に立たされています。日本人の精神文化も深い影響を受けています。この世のはかなさを深く認識し、思慮深い人間になりました。それはそれで良い事です。しかしその一方で、困難に敢然と立ち向かう勇気は持たなければいけないと信じます。

その為に昔の開国のいきさつや、敗戦後の事をもう一度思い出したいと思います。

嘉永6年、1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー艦隊4隻が浦賀、久里浜へ姿を現したが国難の始まりでした。蒸気外輪巡洋艦、サスケハナとミシシッピーの2艦と、帆船、サラトガとプリマスの合計4艦で、計100門の大砲で武装しています。

4艦で合計100門の大砲を東京湾の中で発砲したのです。独立記念日の祝砲とか、儀礼的な発砲であると称して江戸の人々を脅かしたのです。全て空砲でしたが、夜も打ったといいます。その恐ろしい、大きな爆発音で江戸中が大混乱になりました。「ジョウキセンたった4はいで夜も眠れず、、」という「ざれ歌」の意味は、「蒸気船4はいの大砲の音の恐ろしさで夜も眠られず、、、」という意味です。

それ以来、日本は欧米列強の脅威に勇気を持って立ち向って来たのです。

下の写真5枚は、ペリー提督が一回目の来航で初めて上陸した、久里浜の海岸にある記念碑や記念館の様子を写したものです。(撮影日時:2008年6月14日午後1時頃)

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日米和親条約と下田条約に従って、タウゼント・ハリスが初代の駐日米総領事として下田の玉泉寺へ着任したのが安政3年、1856年です。

1867年に大政奉還があり、明治政府が出来ました。

それから約80年、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続きました。

そして1945年、日本は完膚無きまでに破壊され、敗戦を迎えるのです。その戦争の降伏式は1945年9月、戦艦ミズリー号の甲板上で挙行されました。そのとき掲揚された軍艦旗は90年前にペリー提督が使用した軍艦旗だったのです。

1945年の末に、貧しい映画館でみたニュース映画では、暗殺未遂によって怪我した足を引きずる重光外務大臣の姿が悲壮に見えました。その降伏式を見下ろしてはためいていたのがペリー提督の旗艦だったポーハタン号(2415トン)の軍艦旗であると気がついた日本人は居なかったと言われています。それは日本人へは秘密だったのです。

1945年の敗戦後の日本は焦土と化し、食料が欠乏し、産業が壊滅状態でした。そのように困難な状況でも日本人は決して希望を失いませんでした。

少しずつ、一歩、一歩と努力しました。学校制度が変わり、新制の中学生になった私は復興へ貢献しなさいと毎日教えられました。欧米に追い付き、追い越せ!という言葉を毎日、誦文のようにとなえていました。

そして新幹線が出来、東京オリンピックが開催されたのです。

その頃の日本人の努力と元気さを思い出すと、今回の大震災や原発事故を必ず乗り越えられると思います。日本人はイザという危機に面すると大きな力を発揮する国民なのです。敗戦後の復興に参加し、日本の成長を見て来た我々の年代の人々は信じています。日本は再び必ずや復興する事を。

今日も皆様のご健康と、そして一日でも早い東日本の復興をお祈り致します。藤山杜人


新撰組と深い関係のあった日野宿、佐藤彦五郎の家の写真

2011年05月21日 | 写真

佐藤彦五郎は江戸末期の日野宿の名主で、土方歳三の姉のノブさんをを嫁に貰ったのです。その上、佐藤道場を開き、度々近藤勇を招いて、後に新撰組に参加した人々の剣術を教えて貰って居たのです。ある意味では近藤勇の支援者でした。

その幕末に建てられた家が日野市が保存、公開しています。下にその写真を示します。佐藤彦五郎の5番目の子供が彦吉と言い有山家へ婿入りした人で、家内の祖父にあたります。人間の縁の不思議さを感じながら写真を撮ってきました。つまらない写真ですがお送り致します。

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今日の散歩・・・里山の奥にある小山田緑地

2011年05月21日 | インポート

町田市の小田急線の鶴川駅からJR横浜線の淵野辺駅へ抜ける道路の真ん中位の所に「図師」という変わった名前の信号のある交差点があります。鶴川駅から走って行って右側へ曲がると水田や雑木林の続く田舎道になります。根気良く走って行くとT字路になり道が左右に別れます。それを左手の道へ曲がると細い道になり山の間の谷戸をうねうねと行きます。里山に迷い込んだようで心細くなります。その頃に道の左に良く整備された大きな無料駐車場がいきなり現れます。兎に角、そこに車を停めて、あとは都立小山田緑地の案内板にしたがって雑木林の中の小道を登ります。やがて吊り橋があって、ホウノキの大きな花が咲いています。交通が不便で、分かりにくい所にある緑地なので散歩をしている人が少ないようです。

雑木林が好きな人が設計した緑地のようで、緑豊かな木々の下に心地よい遊歩道が延々と続いています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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日本に珍しい民主主義運動の資料博物館・・・町田市立自由民権資料館

2011年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新で江戸幕府が無くなり、薩長土肥の明治政府が出来あがりました。欧米諸国と同じような憲法と議会を整備し、近代国家になるのです。

しかしあまりにも急な政治体制の変革の為に、政府は憲法の制定や議会の準備まで手が回りません。

封建時代の武士だった薩長土肥出身の政府幹部には、自由とか民権の重要性が理解されて居ません。その上、高額の租税を全国の人々から徴収しようとします。

社会は混乱し、地方での打ちこわしや犯罪が増加し、それを地方のリーダー達が自主的に防いで安全な生活を守らないければなりません。そんな中で明治10年には西郷隆盛による西南戦争さえ起きたのです。社会は混乱を極めていました。

明治元年から23年の総選挙に続く第一回の帝国議会の開会まで、中央政府の統制が行きとどかず、地方地方で自治的に安全な生活を守ったのです。

このような社会混乱の中に個人の自由と民権の拡大を主張する運動が起きたのです。運動に参加したのは地域のリーダー達でした。豪農や豪商たちでした。教養のある知識人達でした。その運動は板垣退助の自由民権の主張に刺激されて全国に広がって行ったのです。

このような明治初期、23年間の地方における自由民権運動の歴史を学校教育では殆ど教えません。板垣退助が自由民権運動を指導したという事だけで終わります。地方地方の自由民権運動は歴史の闇に忘れられて行きます。

ところが町田市には市立の自由民権資料館があるのです。何故、町田市にあるのでしょうか?簡単に言えば明治初年の神奈川県と現在の東京都の三多摩地方で自由民権運動が非常に盛んだったからです。そしてその中心は現在の町田市にあったからです。当時、東京の三多摩地方は神奈川県に属していたのです。東京23区の外側で自由民権運動が盛んに行われていたのです。

江戸の近辺の人々は心情的に薩長土肥があまり好きではなかったのかも知れません。そして近藤勇の門弟や関係者が自由民権運動に多数参加していたのです。いろいろな事情や原因が複雑に関係しながら自由民権運動が燃え上がって行ったのです。

現在の あきる野市五日市で活躍していた自由民権運動家は「日本帝国憲法草案」まで作成し、発表したのです。

このような地方の活き活きした歴史の断面を明快に展示してあるのが町田市立自由民権資料館です。普通の図書館には無い貴重な本や資料を蒐集しています。神奈川県と東京23区の外側の明治の歴史書が丁寧に集めてあります。

図書室だけでなくビデオも自由に見られます。当時の自由民権家の写真や手紙などが展示してあります。展示が明快です。自由の重要さを21世紀の私へ力強く語りかけています。

こういう博物館には必ず優秀な学芸員が居るものです。私は新撰組の活動が明治初期の自由民権運動へ繋がっていると思い、学芸員の説明をお願いしました。

出て来てくれた方は杉山 弘さんという学芸員でした。私の質問を注意深く聞き、新撰組が直接自由民権運動に関係するという考えの誤りをいろいろな視点から説明してくれました。そして同志社大学人文科学研究所が2004年に出版した「幕末から明治へー時代を読み解く」という本を貸してくれました。そして鶴巻孝雄著「新撰組と武州多摩の人びと」という論文のコピーをとって下さいました。近藤勇がどのような政治感覚を持って京都へ行ったかについてはもう少し調べてから別に記事として書いて見たいと思います。

学芸員の杉山 弘さんへ感謝の意を表して終りと致します。下に町田市立自由民権資料館の写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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ロマンチックだった青春の花、マロニエの花の写真をどうぞ!

2011年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後のある時期、フランスのシャンソンが流行り、マロニエの花咲くパリの街並みを憧れる人々が多くいました。そんな時代も遠い昔になりました。

先日、マロニエの花を見つけましたので写真をお送りします。

1970年にドイツに住んでいた頃はカスタニーエと呼んでいました。ドイツでもマロニエの並木道が多かったのを思い出しました。

日本では栃の木と言い、栃木県の県木になっています。栃の実をさらして渋を取除いたもので栃餅を作りますね。そんな事も思い出させる光景でした。多摩墓地で撮りました。

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今日の散歩・・・鎌倉街道、小野路と岩子山千手院

2011年05月20日 | 写真

鎌倉街道の大部分はそれ以前からあった中山道をそのまま拡幅、整備したものです。そのせいで鎌倉街道に沿って古いお寺や地名が残っています。

そこで今日は鎌倉街道の小野路と岩子山千手院を散策して来ました。

飛鳥時代から大和地方に勢力を持っていた小野妹子一族の一人が後に国司のような立場で、武蔵国へ来て、住みついたところが現在の町田市、小野路町と言われています。滋賀県の小野村が小野一族の発祥の地と言いますから不思議な縁です。

この現在の東京都町田市の小野路町という地名は実に古い地名なのです。小野路を少しだけ北へ行くと現在の府中市へ続きます。当時の武蔵国の首府は府中市にあり、江戸も東京も存在すらしていません。

今日はその小野路にある岩子山千手院とその裏の小野路公園を散歩して来ました。周囲は太い竹の密生している山でした。初夏のような陽射しの中で竹藪が涼しげな蔭を作っていました。

岩子山千手院は中山道へ面しているので奈良時代の創建かと思いました。調べて見たらやはり聖武天皇の頃の創建で、戦国時代に再興されています。

このお寺で感心した事は無縁仏を集めて、丁重に供養している事です。3枚目の写真の右下に少しだけ写っている線香立てには新しい線香の灰がありました。住職さんが名も無い死者の冥福を祈っていろのです。その優しさに感動しながら奥の院まで登ってきました。

小野路公園は運動公園で野球場やサッカー場があります。遊歩道はあまり完備してないようです。最後の写真のような竹藪の中を少し散歩しただけで帰ってきました。

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貴方を幻想的な旅へお誘いいたします

2011年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

退職後は時間に余裕があるので、家内と一緒に何度も旅に出ました。外国へ行くのが億劫になり、もっぱら国内のいろいろな旅です。

深く印象に残る旅が幾つか有りました。その中から、今日は丁度2年前に行った幻想的な旅をご紹介致します。

霧深い中世のイギリスへ迷いこんだような旅でした。

とにかく遠いのです。東京から車で200Km位、福島県の白河市から奥羽山脈の奥深くに忽然と建物群が現れます。

中世のイギリスの時代別の建物が10棟ほどが霧にかすんでいます。本格的な時代考証にもとづいて建てられ、内部の古い家具調度もイギリスから運びこみました。図書室に並んでいる本も全てイギリスの古書です。

従業員もイギリス人が混じっています。とにかく本物のイギリスの中世が有るのです。

神田外語学院の経営母体の佐野学園の初代と2代目の理事長がイギリスの歴史が好きだったのです。イギリスの中世の文化を研究しました。そして25年間にわたって構想をあたため、この建物群を1995年に完成しました。名前をブリティッシュ・ヒルズと言います。

「イギリスの中世の文化は重く、暗い。しかし、その底に文明開花の爆発力を秘めて来たのかも知れない」と想像し、霧に濡れながら散策しました。

領主の館の内部もつぶさに見ました。領民を支配し贅沢な生活をしていた様子が判ります。封建時代の空気が霧になって身を包みます。

イギリス独特なミートパイの昼食もとりました。そのレストランも暗いのです。電燈が無かった時代です。その感じを出す為です。土産物屋も暗いのです。イギリス直輸入の紅茶やカレー粉、カード、絵ハガキなどを少し買いました。

それにしても、この様に、一国の古い文化を正確に伝えようとする施設は珍しいものです。交通不便な山奥にあります。詳しくは、http://www.british-hills.co.jp に御座います。

幻想的な旅がお好きな方は霧の日か雨の日に行く事をお勧め致します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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平和的な佛教、戦闘的なキリスト教・・・だから仏教が良い

2011年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

私はカトリックの洗礼を受けました。1971年に、35歳の時受洗しました。キリスト教が好きなのかも知れません。それでこのブログでもキリスト教の事をいろいろ書いてきました。自分は立派な信者でないのでキリスト教の宣伝をする資格はありません。

しかし自分の好きなキリスト教に関連した光景の写真や文章をこのブログへ何度も掲載して来ました。下の写真は長崎のある公園にある26聖人の像です。

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このようにキリスト教に関係した写真や文章を掲載すると、時々批判的なコメントを貰います。この非難の趣旨はいろいろですが、最大公約数的に纏めてしまう事が出来ます。

要するに、仏教は平和的で良いがキリスト教は戦闘的、攻撃的であり悪い宗教ですという主張です。私自身は祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので一緒にお経も読みました。大人になってからは般若心経や観音経の勉強もしました。ですから私は佛教的キリスト教徒なのです。仏教の良さもある程度なら理解している心算です。

そこでこれからが私の言いたい事です。まず宗教には良い宗教も、悪い宗教も無いのです。信じて居るその人が悪人か善人かの違いがあるのです。悪人が自分の宗教を自分の欲望のために利用するのです。そうするとその悪人が利用した宗教が悪い宗教となるのです。それだけの事です。

キリスト教を作ったイエス様は汝の敵を愛せと教えました。また仇は7の7たび、許せと教えました。罰は神が下すもので人間が他人を罰してはいけないとも教えました。しかし中世にキリスト教の聖職者が堕落して魔女裁判をし、何十万人の魔女を火あぶりにしました。

その事をイエス様は悲しんでいます。そんな事をした神父やその同調者はイエス様とは何のかかわりも無い人なのです。不信人者なのです。

一方、お釈迦さまはすべての生き物を殺す事を禁じました。殺生を禁じたのです。それは人間にとって一番重要な教えです。虫や魚も、そして他人も殺してはいけないのです。実に平和的な教えです。ところが歴史的に考えると仏教の信仰国のタイ、ミャンマー、ベトナムのようなアジアの諸国の王朝の間では戦争が絶えなかったのです。戦争に参加した人々はお釈迦さまの殺生を禁じる教えを踏みにじっていたのです。戦争の間は仏教徒では無いのです。

日本の戦国時代も同じことです。当時の日本は敬虔な佛教国でした。それにも拘わらず、地方地方の武装集団がお互いに血を血で洗うような殺戮を繰り返していたのです。

仏教が善くて、キリスト教が悪いと言う議論ほど好戦的、戦闘的な議論は有りません。それを主張する人の心情が戦闘的なのです。その事に気がつかないで外国人が悪で、日本人が善だと考えることが戦争の種になるのです。

自分がどの宗教が好きかと考え、それを他言しないのは善です。しかし、もし貴方がどの宗教が良いか、悪いかと考えだしたら、それこそが危険信号です。

その考えを進めて行くと、イエス様の教えを、そしてお釈迦さまの教えを踏みにじることになります。争いの火種になるのです。現在起きているイスラム教徒やキリスト教徒と自称する人々の間の争いや戦争は、宗教に関係の無い人々がしているのいです。イスラム教にもキリスト教にも何の関係も無い人々が己の欲望に負けて争っているのです。日本人も全く同じです。自分だけが偉いと思う心が争いの種になります。

人間とは儚くて、愚かな存在なのですね。(終り)


今日の散歩・・・万葉時代から野山に自生しているキスゲの花の写真を撮りに行く

2011年05月19日 | 写真

花々は世界を移動します。花の好きな人間が移植するからです。

野山に咲く花々を見るとき、日本古来の花、ヨーロッパから引っ越して来た花、中南米からはるばるやって来て日本に棲みついてくれた花、などと考えて観賞しています。そうすると花々の世界の広さ、奥の深さが感じられ、一層その美しさが輝いて見えます。花々を愛した人々の想いも偲ばれて楽しいものです。

今朝は、「日本に万葉時代から自生しているキスゲ(カンゾウや忘れ草とも呼ぶ)の写真を撮る」というテーマで家を出ました。

キスゲは咲いている場所で少しだけ違いがあるので、ニッコウキスゲ、ムサシノキスゲなどど呼ばれます。日光の戦場ヶ原や信州の車山や霧ケ峰に一面に咲いていた光景が忘れられません。

近所の浅間山はムサシノキスゲの唯一の自生地として有名な所です。毎年5月になると沢山咲いています。

キスゲはカンゾウとも言われ、野にあれば野カンゾウ、佐渡島にあればトビシマカンゾウと言いますが。皆ほとんど同じ植物です。そしてカンゾウは万葉時代には「忘れ草」と呼ばれ、その葉を身に付けていると、辛い事や悲しい事を忘れる事が出来ると信じられていました。

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「忘れ草わが紐に付く 香具山の古りにし里を忘れむがため」

万葉集巻三、大伴旅人。大宰府に在って、故郷への慕情を断ち切りたいとの心情を詠んだ歌です。

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それはそれとして、下に先程撮って来たムサシノキスゲの写真をお送りいたします。

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大津波、水素爆発の福島原発での負傷者は何名いたのでしょうか?

2011年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

地震が起き、しばらく時が経過して、大津波が襲いました。そして次の日に水素爆発が起きて頑丈な鉄筋コンクリート製の建屋が吹き飛びました。地震発生から水素爆発まで10時間以上あったのです。

この間に東京電力の社員や関連会社の社員は何処に居て、何をしていたか想像すると必ず負傷者が出た筈です。この地震発生から水素爆発までの内部情報の一部を一昨日少し公開されました。中央制御室のホワイトボードの上の走り書きに関連する情報だけが公開されたのです。負傷者や犠牲者の有無とその情報はあまり報道されません。

普通、これだけの大工場では正常稼働の時には100名近い現場従事者が居るものです。

大地震が起き、緊急スクラムが作動し、原子炉が全て停止した時、その現場に居た人は工場施設の安全確認のために彼方此方の設備の所へ走って行って、施設の安全を確認するのが普通です。その瞬間は津波の心配を一かなり居た筈です。彼等はその後に襲って来た大津波の犠牲者にならなかったとしたら不自然な話です。

更に緊急停止した原子炉建屋の中や近辺に現場従業員が装置の状況を確認する為に行かなかった筈は有りません。爆発前は正常に見える建屋だったのです。防護服を着て建屋の近辺へ行ったと想像できます。その時、水素爆発で建屋が吹き飛び、破片が周囲一帯へ飛び散ったのです。

爆発の可能性を知らない自衛隊の車両が建屋近辺に入っていて、隊員が軽い傷を負いました。爆発の可能性を東電から自衛隊が知らされなかったとして自衛隊は抗議していまた。

東京電力の情報隠蔽体質には驚きの連続です。はじめの地震で全ての原子炉が緊急停止した直後から、水素爆発以後までの現場作業従事者の動きと、負傷者の有無を明解に公表すべきと思います。そんな情報は内部情報で企業秘密と考えているのでしょう。そして今更公表しても仕方が無いと東京電力は考えていることでしょう。

現場従業員が何人居て、必死の緊急作業をしていたに違いありません。その犠牲的行動へ敬意を表しながらも、しかし緊急対策として間違った行動だったか否かを科学的に検証する事こそが重要なのです。今後の原発の危機管理の確立の為に欠かせない情報なのです。それを東京電力が企業秘密として隠蔽していたとしたら大変間違った考え方です。原発の爆発に至るまでの現場従業員の行動に関する情報開示を期待しています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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