後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

私のアイヌの友人への追憶と悲しみ

2012年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

皆様はもう忘れてしまったでしょうか?第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。

昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。しかしアイヌ人だけの村落は消えて無くなってしまったのです。

北海道に行くと、私は復元した村や博物館を見て回ります。いつも少年の頃のアイヌ人の友人のことを思い出しています。悲しい思いを心に抱きながら見て回るのです。

北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。従ってアイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。

しかし終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開く人もいました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。

仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。76歳になってその頃の事をよく思い出します。

終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいました。その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいました。同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏(いろり)があり、炊事や食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。

少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。

アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。60年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。

第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。

以前、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。敗戦後の仙台の郊外で付き合ってアイヌ人一家のことを懐かしく思いながら感慨深く見て回りました。茫々、あれから60年、あの一家の運命はどうなったのでしょう。

ウィッキペデアのアイヌ民族の項目には1904年、北海道で撮影したアイヌでの集合写真があります。どう見ても日本人とは全く違う民族です。この民族が消えてしまったのです。明治以後の日本人が消してしまったのです。

私の付き合っていたアイヌ一家の夫はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない人々でした。いつもニコニコしていましたが何かもの悲しく、消えゆく民族の運命を悲しんでいたようです。皆様でアイヌの人々と直接交わったご経験がおありでしたなら是非体験談をお聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

Ainugroup 

上の写真のように、明治時代まではアイヌは誇り高い民族だったのです。その民族の名誉を後世に伝えた4人の人を以下に示します。

民族の名誉を守ったアイヌ人、知里幸恵さん、知里真志保さん、川村カネトさん、萱野茂さん

民族の豊かな文化を日本人へ伝え、アイヌ民族の名誉を守ったアイヌ人を4人上げれば幸恵さん、弟の真志保さん、カネトさん、そして萱野さんと私個人は思っています。幸恵さんの事は有名ですが、弟の真志保さんは秀才で旧制一高、東大を卒業し、言語学者になり、後に北海道大学教授になった人です。金田一京助さんの指導でアイヌ語を学問的に研究し、特に日本の多くの地名がアイヌ語に依ることを立証した研究も彼の業績です。萱野茂さんは二風谷に民族博物館を作り、アイヌ民族文化の復権運動を広く、精力的に勧めたことで有名な人です。後に参議院議員に当選し、国会でアイヌ語で質問、論戦をし、日本にはアイヌ民族が現存していることを示しました。

この中で川村カネトさんは少し変わった経歴です。北海道に陸蒸気(汽車)が走っているのを見て、鉄道建設の技師になった人です。鉄道敷設に先立って行う測量技師です。そして東海道線と中央線を結ぶ飯田線開設の為の困難な測量を完遂したのです。アイヌ人だけで編成した測量隊を北海道から引き連れて行って、天龍山峡の難所を突破して飯田線の線路の路線を決定したのです。国鉄の技術史に残る大きな功績です。その後、彼は出身地の旭川へ帰り、民族博物館を作りアイヌ文化を保存に努めました。彼の業績に感動した日本人が少年、少女むけに物語を書きました。沢田猛著、こさか しげる絵、「カネトー炎のアイヌ魂」という本です。子供向けの本ですが私は興味深く読みました。感心してこの本の出版元へ電話をしてみました。浜名湖の弁天島にある地方の出版社で、「ひくまの出版」という会社です。この本は1983年2月が初版ですが版を重ねて、現在も売っています。一冊1570円だそうです。「ひくまの出版」のホームページから注文出来ます。この出版社は「ひくまのノンフィクションシリーズ(小学校中・高学年以上向)」という真面目な本を何冊も出版している会社です。良い本を出せば本屋さんはいつまでも存続出来るとことが分かりました。インターネットがいくら栄えても、本の重要性は変わらないと感心したので少し紹介しました。(終り)


ある女の一生

2012年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログの記事にいつも、コメントを下さるサッチ~さんという女性の方がいらっしゃします。

コメントは短い文章ですが、情感豊かで、何故かしみじみさせられます。どのような人生を過ごせばこのようなコメントが書けるのでしょうか?何となく興味が湧いてきます。

そこで数多くの過去のコメントを繋ぎ合わせて、その方の人生を偲ぶよすがにしたいと思いました。子供の頃から少女時代、青春と、長い結婚生活、そして終の棲家を鎌倉に決めるまでがボンヤリ分かるように繋いでみました。

私はこのような読者を持ったことを誇りに思います。嬉しいです。感謝します。

このブログは何時も同じような花々の話や樹木の話です。興味本位の面白い記事はありません。静かな記事だけです。それにもかかわらず読み続けて下さる方々が居るのです。

読んでコメントを下さる方々へ感謝します。

勿論、コメントを下さらない方々にも、素晴らしい方が沢山居ると信じています。

私は全ての読者を心から誇りに思っています。その一例を下に示します。

======サッチ~さんという女の一生========

子供の頃に住んで居た家の追憶

子供の頃、庭に大きな鈴かけの木が二本あって、台風の時にはユサユサと大揺れし、翌日は落ちた実を拾うのが楽しみでした。

今日は温帯性低気圧に変わった台風の風が吹き荒れ、雲の早い流れに心が揺さぶられるように感じる一日でした。

こちらのページ記事を拝見すると、懐かしい鈴のような実が落ちていてビックリしました。

仙台のお話に続いてこのお話を読んで、私も深い寂しさと懐かしさの入り混じった気持ちを感じました。

遊び場は明治神宮外苑と青山墓地

小さい頃は生家のすぐそばの外苑で良く遊びました。

白松となんじゃもんじゃの大木と広い芝生の中に現れる絵画館の中には明治天皇にまつわる大きな軍隊の絵画が主に飾られていますが、木々の間から海を臨み見るような小さな風景画が一枚だけあり、小さい頃の私のお気に入りでした。

その絵が10年ほど前に大沢たかお主演の「解夏」という映画の伏線となって登場し、切ない内容と相まって胸が締め付けられました。

小さい頃の夏には絵画館前は窪地に水を張って無料プールになり、セミの声と子供達の歓声が溢れる最高の遊び場でした。

外苑の緑の中を寂しさと懐かしさを抱きしめてゆっくりと散歩してみたい気持ちになりました。

そして、墓地の散歩が好きという記事を拝見させていただいておりますと、私も子供のころからお墓で遊ぶのが大好きなので、つい笑ってしまいました。

お墓に刻まれた年号を見たりしながら、その方の生きていらしたころを想像すると同じ時代を共有しているようにワクワクしてきてとても楽しいのです。

実家の墓地は青山なので、亡くなられているとはいえ明治の大君のお墓がたくさんあり、だれにも気兼ねせずに気軽にお邪魔できるのですから嬉しくなってしまいます。

外国でも墓地には寄り道したくなります。

生前を忍ばせる言葉や彫刻が美しく飾られていることもあり日本とはまた違った趣です。

どちらでも皆様静かにお休みになっておられますが、帰り道は振り返らずに来た道と違った道を通るようにしております。

今は亡き父母から教わった怖くてちょっとドキドキするお墓の楽しみ方の一つです。

(その母は私の心のよりどころでした。それなのに中学生のころに亡くしました。母はマリア様のように身も心も美しく博愛の人であったのです。母の洗礼名はマリアです。)

今度どこかで見知らぬお墓に立ち寄る時には藤山様にならいまして「お邪魔してもよろしいですか?」と心の中で尋ねてみようと思います。

少女の頃、イエズス会のイグナチオ教会へ14年間通う

イグナチオ教会は、少女時代に学校の関係で14年間通った教会です。

聖書を勉強することは、西欧の思想を深く知る上でも、一般的な古典としてとらえても、教養を深める学びの場として適切であるかと思います。

中高年にとっては、人生を省みる良い機会になりそうです。

いつも深い示唆をいただき感謝しております。

・・・そして白鳥の記事を見て、BeatlesLet it beの歌詞を思い出しました。

ありがとうございました。

父が熱心な仏教徒、母がクリスチャンの私の心の中のわだかまりが溶けるような内容でした。ありがとうございました。

大学の思い出とドイツの思い出

Fulbright Fellowships とは、その名のとおりの留学体験ですね・・・

私が大学生のころの教授にはフルブライトの経験者が何人かいらっしゃいました。

経済成長期に豊に育って気持ちが弱い私達学生よりも、青年のような真っ直ぐな方が多かったような気がします。

話は変わりますが、子供の頃、ドイツに行きました。

藤山さんも行っていた頃の1971年に私もドイツに行ったことがあります・・・

まだ子供の頃ですが夏休みに1ヶ月間学校主催のヨーロッパ旅行に行かせてもらったのです。

憧れのファッションの都パリも、大好きなビートルズのロンドンも行ったのですが、一番美しいと感動し食事もおいしかったのは地味なはずのドイツでした。

今でもあのころのままの懐かしい風景ですね!

ドイツで買ったシュタイフのぬいぐるみを抱いて日本に帰りました。今でも大切にしています。

結婚生活のある情景

栃木県庁の目の前の屋根のある部分のベンチに、いつもいつもホームレスがいました。

どういう表現が正しいのかわからないのですが、荷物も少なくダンボールなどを使って横になっている姿は、それまで見たことがありませんでした。そして彼は常にそこにいたのです。

私は毎日のように犬の散歩で彼の前を通り過ぎました。

秋が深まる頃、私は夫に「こんなところで冬を過ごしたら死んでしまうよ!なんとかならないの?」と相談しましたが、彼は「好きでやっているんだから放っておけ!夜はどこかに移動して寝ているんだよ。自己責任なんだから。」と相手にしてはいけないと言いました。

県知事も通る県庁の前です。

誰かが手を差し伸べるだろうと私も何もしませんでした。

ある極寒の冬の日、そこを通りすがると彼の姿はなく、ベンチには人が寝転がれないように3分割するような手すりがつけられていました。

彼は保護されたと思いたいけれども、おそらくは凍死したのでしょう。

「愛の反対は無関心」マザーテレサの言葉が胸に刺さります。
===夫の転勤でいろいろな土地に住む========

ウツギ可愛いですね~

深紅から純白までありますよね^^

何回も挿し芽で増やしましたが、転勤で移動するたびに残してきました。

自然に混じるのか絞りのようになったりもしますね・・・

思い出の各地の庭で何色の花が咲いているのでしょうか・・・

今の時期に雑木林を歩くと、エゴノキの香りに誘われてでしょうか、古い記憶が蘇ります。

終の棲家

12月に東京の住居をたたみ海の近くに引っ越ししました。

実家を売り払い子供のころの思い出と別れる寂しさを経験しましたが、越してきてみれば幼いころに母と桜貝を拾い集めた由比ガ浜まで車で10分かからない場所です。

子供のころの幸せな記憶に救われることは本当に多いですね。

同じように子供のころの辛い思い出から立ち直るのも容易なことではありませんが

=====終り==========007

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矛盾した考え方があなたを幸せにする(3)親子の不仲を解決出来ます

2012年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

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親子関係は良いのもです。愛情で結ばれ、いつも暖かい感情が流れています。しかし親子の関係ほど深刻で危険なものがありません。時々、父親と息子の間に深い溝が出来、憎しみ合うことがあります。母親と娘の間も例外ではありません。

親はとかく自分の価値観や生き方を子供に押しつける傾向があります。特に英才教育と称して幼少の頃から音楽やバレーや絵画の訓練を強制します。

子供を喜ばせようとしてピクニックへ連れ出します。山へ登ります。キャンプもします。

しかしそういう事を、子供が脅迫に感じることがあります。子供の不幸の原因になるのです。

バレーや音楽の国際コンクールで一位になった若い人が親のお陰だと感謝の言葉を言います。それは親のお陰よりも「才能」のお陰なのです。才能が無いのに苦しい訓練をさせらている子供の数は想像できないほど多いのが普通なのです。

子供の為にと思ってキャンプをしたり、海外旅行へ連れて行ったりします。大抵の子供は喜びますが、なかには心の底では、そういう生活を嫌がっている子も居ます。

親は子供の一生の幸せを考えて子供の職業に意見を言い過ぎます。

親子の間の断絶や、不仲の原因は親にある事が多いので。それを無視して親不幸な子供を親が説教するから余計断絶が深くなるのです。

親子の間の断絶や、不仲を解決する方法は簡単ではありません。

よく世の中の識者が、親と子供の双方にもっともらしい忠告をしています。新聞の「身の上相談」の欄には親子関係に悩む人の相談が後を絶ちません。

親子はお互いに優しい言葉を言いましょう。季節、季節には心のこもった贈り物をしましょう。たまには一緒に食事をしましょう。孫が居るなら、その孫を時々親の所へ連れて行きましょう。などなどと忠告しています。

しかし私はまったく矛盾した考えを持っています。それはまず親子の縁を切ることです。現在の戸籍法では縁を切ると言っても何の違いもありません。そこで子供は親と離れた場所へ引っ越して、親とは全く違う職業につきます。そして親子の付き合いを全く止めてしまうのです。

要するに親子が他人のようになるのです。それを10年間続けます。いや20年でも30年でも続けます。自分が70歳になったら親子の関係を修復すると決心だけします。

すると親は、「子供が生きているだけで自分は幸せだ」と思います。

子供は、「そうかあの厭な親は私の為になると思っていろいろ強制したのだな」と思います。

そうです。お互いにこのように思い始めるのです。まず10年の絶交は必要です。いや20年、30年かかるかもしれません。

そして人間は大体70歳になると親を許す気持ちになります。子供を許す気持ちになります。こうして「老境が光り輝く季節」になるのです。

親子の関係は修復しようと努力してはいけません。絶交をすいることです。

しかし上に書いたことを信じないで下さい。こんな発想方法もあると時々思い出してくれれば、あなたの親子関係が穏やかになります。

あなたの親子関係は円満で温かい関係でしょうか?もしそうなら神に感謝です。

今日も皆様のご健康と平和のためにお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵は石塚園芸の品種改良したサクラソウとシクラメンの花です。

なお石塚園芸については、新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介しますという記事をご覧ください。

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暗い雨の日なので明るい海の写真をお送りします

2012年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は太平洋側の各地が雨です。暗い一日で、庭の気温も現在3度です。明日も雨という予報です。そこで先日撮って来た明るい海の風景写真をお送りします。少しはご気分も晴れますようにと願っています。

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矛盾した考え方があなたを幸せにする(2)私は2009年に原発反対に態度を変える事が出来た!

2012年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

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個人的な経験ですが、私は1961年に東海村の日本原子力研究所で日本最初の原子炉の運転講習会に参加しました。それ以来、2009年2月まで一貫して原子力発電賛成の態度を持ち続けていたのです。

2007年にブログを書き始めてから、原子力発電の分かり易い解説記事を何度か掲載しました。そしてその安全性を説明する記事も掲載しました。ところが、色々な反対意見のコメントを貰ったのです。

その反対意見は立場を変えれば当然な意見です。

その結果、私は「矛盾した意見や見解も、両方を受け入れて、自分で咀嚼してしまえば幸せになれる」という考えを持つようになりました。

原発賛成者には技術者や政治家が多いのです。大会社や役人も賛成派でした。

要するに日本の主流派が賛成していました。しかし共産党や社会党は反対です。その上大多数の主婦が反対していました。

私は原発の事故の確率は飛行機事故の確率より小さいように考えられるという説を盲信して推進に賛成でした。あくまでも技術的な視野からだけ考えていたのです。

共産党や社会党の政治的反対には感情的に反発して来ました。

ところがブログを始めてみると主婦達の反対意見は女性の本能的な直感からの反対です。

「一旦事故が起きたら広範囲に放射能がまき散らされる」。「そして子供の成育に長期間の悪い影響がでる」。この2つの理由だけです。少しも政治的な意見が混じっていません。

技術的な確率論だけから考えて来た私はこの盲目的な反対論を軽蔑していました。しかしよくよく考えて見ると一旦事故が起きたことを想定すると主婦達の考えの重要性が理解出来たのです。

その上、ここが一番重要な事ですが、主婦達が恐怖を抱いて生きている国は幸福な国とは言えないという考えです。世の中の全ての女性が少しでも恐怖を抱いて生けている国は不幸な国なのです。

「国家の幸福度」という指針を考慮に入れれば原発は次第に縮小した方が良いのです。そこで2009年2月24日に、2009/02/24 「原子力発電に反対し、現実的な解決法を提案します」 という題目の記事を発表しました。題目をクリックすると記事の全文が出て来ます。

私は2009年に原発反対者になりましたが、2011年にあの福島の4つの原発が大爆発したのです。主婦達の主張がまったく正しかったのです。

さて原発の現状はどのようになっているでしょうか?

現在日本にある54基の原発のうち51基が定期検査で3月には全て停止します。

そして定期検査終了後の再稼働の開始には、原発のある県の知事の認可が必要です。多くの知事は福島県の困難な状況を見て、再稼働の認可に反対です。

従来から反対運動をして来た主婦達の意見の正しさを認めないわけにはいけなくなりました。

その上、原発が無くても日本全国の電力のやりくりがつくことも明らかになって来たのです。

この情勢では日本の原発はその数を減少せざるを得ません。完全撤廃にはまだ問題が残っていて早急には進みませんが。

しかし定期検査中の原発も、運転中と同じ位危険なことを忘れてはいけません。

数百本の核燃料棒が貯蔵プールの中にあるのです。プールの水が無くなる事故が起きればすぐに水素爆発をします。福島原発の4号炉と同じ爆発をするのです。

定期検査中の原発の現状をマスコミはもっと突っ込んだ取材をして実情を公開すべきと思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵は昨日、小金井公園で撮ったローバイの花です。梅のつぼみは固くてまだ一輪も咲いて居ませんでした。

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三浦半島の観光(3)佐島と葉山

2012年02月05日 | 旅行記

三浦半島の西海岸にある佐島はのどかな、そして孤立した楽しい別天地です。昔から何度も遊びに行った私のお気に入りの海岸です。葉山と三崎港を結ぶ134号線から入る自動車道路は2ケ所しかありません。

三崎から北上して行くと自衛隊の少年工科学校の前を過ぎると間もなく「佐島入口」という看板ついた交通信号機があります。そこを見逃さず、確実に左折します。すぐに佐島トンネルをくぐり、少し走ると下のような穏やかな入り江が広がっています。佐島漁港です。

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この佐島では楽しみはいろいろあります。

(1)地魚のお寿司や地魚の料理を楽しむ。(2)漁港前で地元で取れた新鮮な魚を買う。(3)港の向こう側の天神島へ渡り、横須賀市天神島自然教育園の磯公園を散歩する。展示館も見る。(4)佐島マリーナのレストランや店に寄る。(マリーナ本部は高級なホテルになっています。)(5)天神島側の岸壁を散歩しながら海の景観を楽しむ。などなどです。

上の写真は天神島側から佐島漁港を見た風景です。

下の写真は左が沖次郎という地魚専門の寿司店で、右が「かねき」という地魚料理店です。この2店はお薦め出来る店です。

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沖次郎は握り寿司が美味で、「かねき」は地魚の刺身や海鮮丼が美味です。

今回は「かねき」で地魚の海鮮丼を食べました。魚が苦の家内が新鮮な魚はこんなに美味しいのですねと感動していました。

「かねき」は佐島港沿いの道を折れて、天神島へ行く道に入ってすぐ左手にあります。沖次郎は佐島入口から入って、佐島トンネルを潜ってすぐの右手にあります。どちらも無料駐車場がありますが、週末や祭日は満員です。平日がお薦めです。

次は天神島にある臨海自然教育園の写真を示します。

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この教育園の入り口事務所を振り返った写真です。入場無料で、のんびりした雰囲気です。

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下はこの教育園の沖にある笠島です。海鵜やカモメの棲息島です。

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海の向こう側は相模湾と伊豆半島です。笠島の岩礁の向こうに江の島が小さく見えます。

広い無料駐車場はこの教育園のビジターセンター前にあります。駐車したらセンターに行き、臨海自然教育園へ行きますと断ってから散歩に行きます。駐車票をくれますので時間制限なく散歩できます。

さて天神島の高台には佐島マリーナのホテルやレストランがあります。高台に車で登り、レストランで食事をするのもお薦めです。そしてその高台の駐車場から漁港や沖の方の海原を見て楽しみます。下に駐車場から撮った写真を示します。

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佐島は 孤立した別天地なので人の行かない小さな浜辺を探して、ぼんやり海を眺めて時を過ごすのもお薦めです。

さて次は葉山です。葉山は北半分にヨットの発祥地の鐙摺港や はなやかな葉山マリーナがあります。幾つかの洒落たレストランや日影茶屋という有名な料亭もあります。しかし今回は隠れた穴場の「しおさい公園」について少し詳しくご紹介したいと思います。

この公園は葉山の御用邸の北の部分を開放して公園にした施設なのです。従って昭和時代の御用邸の雰囲気が流れていて、何故か懐かしく、そして心豊かになる公園なのです。しおさい公園は3つの部分からなっています。昭和天皇が集めた貝や小さな魚類の標本を展示している建物、その裏手の見事な日本庭園、そして松林の中の散策路です。まずこの3つの部分の写真を1枚ずつ示します。

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・貝や魚類の標本の展示館の木造の入り口は昭和天皇が出入りしていた葉山御用邸の北館のものです。

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・上が日本庭園の一部で、下が松林の散策路です。

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・この松林の北隣に神奈川県立美術館があり、この右手に連絡通路があります。

「しおさい公園」から県立美術館へ歩いて行けます。下の写真は美術館の駐車場から撮った写真です。行った時はあいにく休館日でしたが、以前訪問したことがあります。中のレストランの内装が芸術的で、料理も良かったです。

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ところで美しい貝殻のお好きな方々もいらっしゃると存じます。そこで最後にそのような写真をお送りして、今回の「三浦半島の観光」の連載記事の終りと致します。

お読み頂きまして有難う御座いました。(終り)

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矛盾した考え方があなたを幸せにする(1)となりの人々を大切に思える

2012年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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いきなり個人的な感じ方で恐縮ですが、私は「あなたの隣人を愛せ」という言葉が嫌いです。いかにもバタ臭くて、偽善の臭いがするから嫌なのです。この翻訳がいけないのです。あなたの隣の人を大切にしなさい。近所の人と好意的に付き合いなさいと訳すべきと思っています。そうするとごく当たり前の事で、日本には昔からそのような美風があったのです。

しかし「あなたの隣人を愛せ」という言葉にはもう少し広い意味がありそうです。イエス様はユダヤ人の憎んでいたサマリア人のような異教徒や異民族の人々も大切にし、愛したのです。

あなたは北朝鮮人を大切に出来ますか?中国人を大切に出来ますか?

大切にしなさい。ついでに愛しなさいというのがイエス様の教えなのです。

私はある時その簡単な方法を見つけたのです。それは「矛盾した感じ方や考え方を持つ事」です。そうすると異民族の気持ちが分かるのです。大切にすることは出来ます。愛することまでは出来ませんが。

「矛盾した感じ方や考え方を持つ事」という意味は、キリスト教と佛教と道教と共産主義の全ての矛盾を認めた上で、それぞれの良さを信じるのです。、自分で共産主義的な感じ方や考え方を持つことです。誤解を恐れずに書けばキリスト教の私が共産主義的考えを信じることです。佛教の良さや道教の頼みがいのある性質を信じるのです。無宗教の人々の考え方も信じるのです。

そうすると、それらを信じている異民族も大切に思えます。共産党独裁国家の北朝鮮や中国の人々を大切に思えれば、その西に広がるロシアやポーランドやドイツやフランスやイギリスの人々も大切に出来ます。「人類みな兄弟」というほど愛せませんが、大切に思うことが出来ます。

結論を言えば、自分の心を大きくして矛盾した主義主張や違う宗教を取り込むことが重要なのです。あなたの心を豊かに出来るのです。全ての人々を大切に思えるのです。そうすれば多くの人々があなたを大切に思います。あなたは一層しあわせ(幸せ)になります。

今回は少し大きな問題を書きましたが、次回からは原発賛成か反対か、とか嫁しゅうとめの関係や夫婦仲のことなどの問題解決の方法を書いて行きたいと思っています。上の写真は先日、葉山のしおさい公園で見つけた、冬でも青々としたツワブキです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


豪雪の対策は国家が考えて、皆で考えよう!

2012年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

関東地方は雪が降らず、毎日、明るい太陽が射しています。しかし日本海側や北海道は豪雪が続いています。例年にない雪の量で人々が除雪に疲れはてています。

青森に住んでいる友人の水木りょうさんも勤務終了後の夜の時間帯に毎晩、除雪作業をして疲れています。

私も昔、長岡や福井に冬に何度も行きました。大きな自動車道路はブルドーザーで除雪してあります。しかし家の回りや小路は自分で除雪しないと大通りに出て行けないのです。自分の車も雪の中から掘り出さなければいけません。

その上、危険な屋根の上の雪おろしもしなければなりません。

豪雪の来るのは毎年ではありません。数年に一度です。

この豪雪の対策は政府も、国民も一緒になって考えだす必要があります。

地震や津波と同じように日本列島の宿命的な自然災害なのです。皆で真剣に考えましょう。ご意見を頂ければ嬉しく思います。

下に水木りょうさんの撮った写真をしめします。

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八丈島の物産展が2月4日から19日まであります

2012年02月04日 | うんちく・小ネタ

都立小金井公園で、「東京地酒と酒器うつわ祭り2012八丈島物産展」が今日から2月19日まで、毎日10時ー16時に開催されています。

その一つのコーナーが八丈島物産展です。島の特産の黄八丈から、クサヤの干物、島焼酎のいろいろから焼き物まで展示、即売しています。八丈島から来て展示をしている人から島のことをいろいろ聞きました。八丈島だけでなく東京の地酒もあります。沖縄や広島や京都の食べ物もあります。

陶器は、常滑、有田、伊万里、信楽、唐津などなど全国の焼き物が出ています。

是非、お出掛け下さい。

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日本の政治、経済に明るい希望が持てる

2012年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の野田総理の国会での答弁を見ていると日本の将来の事を深く考えて増税をする決心をしている様子が分かります。

このように国家の財政上の崩壊を防ぐ政策は絶対に必要だったのです。それを歴代の自民党政権は毎年、赤字予算を決定し、お金をばらまいて来たのです。国家が倒産すれば塗炭の苦しみをするのは国民なのです。

それを未然に防ぐのが政治家のつとめなのです。

昨年、3月に大地震と大津波が起きました。原子力発電所も爆発して多くの人々が避難生活をしています。

人々は繁栄が永遠に続かないことを身をもって体験し、自分達の国家の将来を深く考えるようになったのです。

大きな経済成長より安全な経済活動。GDPの国際競争よりも人々の幸福度。赤字予算よりも黒字予算。人々の思考がそのように変わって来たのです。その時に野田総理が現れたのです。国会議員の削減。公務員の削減。大型土木事業の中止。なのなどの出費の減少をしながら増税によって国家経済をいずれは黒字にしようとしています。

ヨーロッパ諸国の財政危機を見て日本人が目覚めたのです。このままでは日本の財政も破綻し、民間会社の経営も危機を迎えるのです。

野田総理の政策に反対する自民党は自分達で国家財政の危険度を増加したことを忘れるべきではありません。

幸い日本の経済は不況とはいえ、まだまだ健全です。GDPも急には減少しません。

マスコミが暗いニュースを強調して報道し、人々が暗い気持ちになっています。

しかしいつも明るい希望を失うべきではありませ。

先日、観音崎のそばのホテルから浦賀水道を見ていましたところ、巨大な船が貨物を満載して出入りしていました。その物流の巨大さは、日本の経済運営がまだまだ健全なことを示しています。下に浦賀水道を出入りするコンテナ運搬船と自動車運搬船の写真を示します。

戦争が起きると、マスコミは戦争を煽りたてます。同じように少し不況になると日本はもう駄目だと煽りたてます。そのマスコミに惑わされず希望を失はないで根気よく努力するのが大切です。追いつけ、追い越せのような国家目標はもう不要です。健全な国家財政と人々の幸福度の増大が次なる目標なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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三浦半島の観光(2)剣崎、三崎港、城ヶ島、油壺

2012年02月03日 | 旅行記

温暖な気候で雪も降らない三浦半島のことを書いていると心が痛みます。

ここ数日、日本海側の地方で数年に一度の豪雪が降り続いています。雪崩の事故も起きています。屋根の雪おろしや道路の除雪に苦難の毎日です。

その上、大津波で被害を受けた多くの人々が仮設住宅で厳寒の冬を過ごしています。福島の原発事故で移住した人々にとっては見知らぬ土地で不便な生活を送っています。

このような日本の苦難の時に気楽な旅日記など書くのはいけないと思います。

しかしヒョッとして偶然こんな温かい地方の記事を見て、やがて必ず春が来ると確信してくれるかも知れません。元気が出るかも知れません。皆様が明るい希望の灯を持ち続けるようにと祈りつつ旅日記を続けます。

今日は津久井浜を後にして何処までも海岸に沿って車を走らせます。

津久井浜から剣崎、三崎港、城ヶ島、油壺という観光地を巡る旅です。

まず三浦半島の突端にある剣崎灯台を訪れます。060

・剣崎灯台には車が入る道がありません。細い舗装道路を怖々走って行ったら300m位手前に農家が経営している有料駐車場がありました。観光客はそこから徒歩で灯台まで登ります。家内が元気良く写真を撮ってくれました。

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剣崎はとても広い平らな台地です。上の写真のように一面に大根が植えてあります。瑞々しい緑の景観に感動して写真をたくさん撮りました。人はこんなにも大根が好きなのです。驚きです。

さて次の三崎港はマグロが美味なことで有名です。「うらり」という名前がついている15軒もの店が入っている大型店舗があり、いろいろなマグロの部位を売っています。

下の写真は昼食として、マグロ刺身定食とマグロの「づけ丼」を食べた大通りの向かいにある店です。味と価格から確信を持ってお薦め出来る店です。

002 マグロの味が東京でいつも食べるものと較べると格段に美味なのです。3種のマグロの刺身とマグロの角煮、味噌汁、ご飯、漬けもの付きで1570円でした。店の横に駐車場があります。

この店の前が「うらり」というマグロ販売の大型店です。マグロの頬肉、目玉、カマ肉、頭の頂点の肉、そして赤身、中トロ、大トロなどが冷凍パックになって、売っています。

勿論、冷凍でない生のマグロも売っています。小さな車載冷蔵庫を持っていたので数種類の部位の冷凍マグロを買いました。大きな駐車場が奥にあり2000円以上マグロを買うとサービス券が出ます。

なお、この大型店の前には綺麗な木造桟橋があり。モーターボートやヨットでマグロを買いに来る人も多いそうです。事実、何年か前に、私もそこから39フィートの豪華ヨットに便乗させてもらい東京湾を縦断して、浜離宮までセイリングした事もありました。

昼食も済み、マグロもいろいろ買ったので、つぎは有料の橋を渡って、城ヶ島公園へ行きました。下の写真のように水仙が咲き乱れ、太平洋が一望できる素晴らしい公園です。広い有料駐車場があり、いきなり大きな水仙畑が歓迎してくれます。

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・城ヶ島公園は昔は整備されていませんでした。観光客は島の三崎港の対岸の観光地に必ず行ったものです。昔風の小さな商店が沢山ある騒がしい場所でした。

そこにも寄ってみましたが、昔にくらべるとシャッターの降りている店も多く、さびれていました。時代の移り変わりに感慨無量です。

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磯の岩の上にあった白秋の「雨は降る、降る、城ヶ島の磯に、利休鼠の雨が降る・・・」という碑も大橋の下にできた白秋記念館の前に移されていました。

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城ヶ島の後は又橋を渡って油壺へ行きます。油壺の突端には有名なマリンパークという水族館があり、京急油壺ホテルもある観光スポットです。広い有料駐車場もあります。

夏には子供連の家族はそこに車を置いて、水族館を見て、それから海岸へ徒歩で下りて行って磯遊びをして一日過ごします。今回は冬なので家族連が居なくて静かでした。

さて油壺半島はヨットの係留地としても有名です。半島の両側は深い入り江になっていて、ヨットを沖がかり係留出来るのです。東の入り江には油壺湾と諸磯湾があり、京急マリーナがあります。西の入り江は小網代湾があり、シーボニアマリーナがあります。私自身も26年間、ヨットの趣味を持っていましたのでシーボニアへは何度も行ったことがあります。

懐かしさのあまりヨットの写真を撮ってきました。

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さて油壺の観光が終われば三浦半島の先端部分の旅も終りです。後は佐島、森戸海岸、一色海岸、葉山しおさい公園、鐙摺港を訪問します。明日、ご紹介いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。  後藤和弘(藤山杜人)


私の奇妙な趣味をご紹介します

2012年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

奇妙な癖と言うべきか、趣味と言うべきか分かりませんが、私の趣味は墓地を徘徊することです。流石に夜は気味悪いのでしませんが、家内が出かけた時にはよく行きます。家内は墓地は怖いと言って、好きではありません。

今日は午前中から家内は文学の講読会へ行ったので、早速お寺の裏の墓地を散歩して来ました。時間に余裕があるので、五日市街道の立川市に入ったところにあるお寺まで車で行ってきました。

大抵のお寺には駐車場があり、お墓の参拝者は自由に出入り出来るように門がいつも開いています。まず下の写真のような本堂の前に行ってご本尊様へ合掌します。

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・その裏には墓地が広がっています。墓地への入り口には下の写真のようにお地蔵さんが並んで墓地を守っています。

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・お地蔵さんの前で、今日はこの墓地に眠る全ての人々の冥福をお祈りします。入っても良いですかとお聞きします。返事が無いときは入って良いということと信じています。

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・墓地の中を散策します。日清戦争や日露戦争、そして太平洋戦争亡くなった人々のお墓は特に大きく作ってあります。遺族の悲しみが偲ばれます。

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・見上げると墓地の端には大抵ケヤキの大木が聳えているものです。

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・墓地の外側はこのように広い畑になっていて、その向こうに奥多摩の山並みが見えます。

何故、私は墓地が好きになったのでしょうか?

理由をよく考えると2つあるようです。

墓地は静かです。生前に騒々しく活躍した人も、静かな人生を送った人もみんな等しく静かに眠っているのです。幼くして亡くなった人も、中年の働き盛りに亡くなった人も、老人になり天寿をまっとうした人もみんな、みんな等しく一緒に眠っているのです。そのような様子を見ると深い安堵感に包まれます。心が安らぎます。私は仏教徒ではありませんがお釈迦様の慈悲の心が感じられるのです。

もう一つの理由は個人的な理由です。私の父方の祖父が兵庫県の田舎のお寺の住職だったのです。毎年、夏になると家族と一緒にそのお寺に数日間泊まります。祖父や祖母は、年に一回しか会えない私と2人の弟を可愛がります。

全ての人が檀家になっている下のの小川へサワガニを取りに行きます。村人が親切にしてくれます。住職さんの孫達ですから大切にしてくれます。

そのは幼い私共の桃源郷だったのです。それは昭和15年、16年、17年、18年、19年の夏の日の楽しい思い出です。

近所のお寺に行くたびに、幼かった頃の楽しい思い出が湧き上がってくるのです。

昔、祖父が住職をしていたお寺は取り壊されて跡形も無くなってしまいました。高天秀嶽大和尚がその祖父の戒名です。

墓地を徘徊する趣味には、自分でもよく分からない理由が他にもまだありそうです。しかし上に書いた2つの理由は自分で納得しています。

ところで、あなたは 奇妙なご趣味をお持ちではありませんでしょうか?お知らせ頂ければ嬉しく思います。(終わり)


青い鳥を求めて故里を旅立つ人々・・・観音崎の無縁仏の墓地

2012年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

観音崎公園の大きな駐車場から岬の突端まで遊歩道があり、左に碧く光る浦賀水道が見渡せます。歩いて行くと気持ちが晴れ晴れする散歩道です。しかし突然暗い、恐ろしげな墓地が左下にあります。周囲をびっしりと椿の木が囲んでいるので、そこだけ暗黒の穴があいているようです。その穴の底は4畳半位の墓地になっていて、粗末な墓石が30ケ程立っています。墓石の群れの前にはいつも花が供えてあります。

「何時も」と書きましたが数年おきくらいに観音崎へ行く度に美しい花が供えてあるので、何時もと書きました。

説明板があり、幕末から明治にかけて砲台を作る工事のために働き、不運にも観音崎で死んだ人々の墓と書いてあります。観音崎には当時100個くらいの砲台があったと言われています。故郷に帰ることも出来ず、出稼ぎ先の観音崎で死んで行った人々のお墓です。小さな粗末なお墓を作るのがせいぜいだったのです。

いつも写真を撮ろうとしますが、あまりにも痛々しくて写真なんか撮ることが出来ません。観光に来て、もの珍し気に写真を撮れば、眠っている人々の感情を害すると思います。フト、墓地の向こうを見やると下のような浦賀水道が見えます。

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この写真を観音崎の無縁仏の人々の鎮魂のためにお供え致します。合掌。

歩きながら何故人々は青い鳥を求めて古里を旅立つのかと考えていました。青い鳥をつかんだ人、つかめなかった人。そして残るのは古里から遠く離れた所にある墓だけです。その墓さえ無い人々も多いのです。

突然、青い鳥を求めて八丈島を出て行った人々のことを思い出しました。彼らのその後の運命はどうなったのでしょうか?

私の知人で八丈島の郷土史家の「ながれ」さんが自分のブログで書いています。

=======八丈島から旅立った人々と、その後========

出百姓 開拓 移民 2http://nangare.blog94.fc2.com/blog-entry-75.html

明治に入ると開拓や移住が始まります。
北は北海道の名寄から南は沖縄の南大東島まで。
主なものは
 明治十九年(1886年) 鳥島 アホウドリの捕獲。全滅し世の顰蹙をかいます。現在も再生事業が行われているのは周知の事実です。

 明治三十二年(1899年)当時無人島だった南大東島を開拓。

 明治三十五年(1902年)北海道北名寄(現下川町)へ開拓移住。

 大正六年(1917年)サイパン

 大正七年(1918年)サイパン テニアンへ移住。この後、北大東島、ブラジル、台湾等。昭和に入り満州。

調べていくうちに北海道へ行ったのを今回初めて知りました。早速、下川町にお尋ねしましたところ下川町教育委員会より「下川町史」の八丈島民移住関係のコピーが送られてきました。それによりますと「八丈島からは明治三十五年24戸入植し今日の素地を作ったが次々と現地を離れ大正七年には一戸も無し」となっておりました。現在下川町には八丈島関係の、菊池、浅沼等の苗字の人はないそうです。10年程前に八丈島から九十才くらいのお婆さんが「ここで生まれました懐かしいので来ました」と尋ねてきた事があったというエピソードが書き添えてありました。その人も二年位で皆さん下川町を後にしたと言っていたとの事でした。香川県、岐阜県、福井県民も同時期に入植し、こちらはそのまま現地に留まり今日にいたっているそうです。どうして八丈島の人だけが現地から離農したのか、想像するに自分達が思っていたよりずっと寒かったのではないでしょうか。暖かい所で育った八丈島民にとって極寒の地は耐えられなかったのではないかと思います。最低気温の上位の殆んどが下川町のある上川郡ですから。====以下省略====

みんな、みんな、古里の島を旅立ってしまったのです。青い鳥をつかんだ人。つかまなかった人。お墓を作った人。作れなかった人。

日本という国は明治維新以来、世界の一流国になろうとして隆盛をきわめました。しかし静かに目を下に向け人々の運命をみると国の繁栄の陰にある人々の悲劇が見えてきます。そして、いずれは多くの人々の墓も無縁仏になってしまうのです。

お釈迦様の「死んでも墓は作らずに骨を野原に捨てよ」という遺言を思い出します。

そんな観音崎への散歩道でした。観音崎という地名が私の心のなかにこだまのように響く散歩でした。

下に神戸市にあるある墓苑の無縁仏の墓石の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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Wikipedeaの無縁仏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E4%BB%8F)よりお借りした写真です。


三浦半島の観光(1)観音崎、久里浜、津久井浜

2012年02月01日 | 写真

三浦半島は黒潮が洗っているので冬でも温暖です。冬に行く観光地として良い所です。今回は観音崎に一泊したのでいろいろな観光地をゆっくり訪問できました。写真を使ってご案内したいと思います。ご気軽にご覧下さい。

まず浦賀水道を照らしている観音崎灯台を示します。

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上の写真の灯台の左足元に巨大なLPG運送船が写っています。浦賀水道はひっきりなしにコンテナ船や自動車運搬船やタンカーが通ります。消費文化の凄さが実感出来るのです。

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灯台は逆光で撮るのも良いのではないかと思います。

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このように順光で撮ると鮮明に写りますが、味わいの無い写真になりました。

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京急観音崎ホテルの門です。平らな建物ですが部屋からの海の風景が良いことが自慢のホテルです。阪急の「The宿」から予約したのでかなり安く泊れました。部屋も良質で、レストランも海がすぐ下にあり、サービスも良かったです。別棟の大浴場も清潔でした。

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上と下は部屋の窓から撮った写真です。横濱のランドマークタワーから東京方面、そして対岸の房総半島が良く見えました。

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部屋に双眼鏡が置いてあります。浦賀水道を往き来するいろいろな船を眺めながら暗くなるまでビールを静かに飲みました。

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ホテルの近所に横須賀美術館があります。建物が藝術的で美しいところです。開館時間に合わなかったので展示は見ませんでしたが次回は見たい所です。

観音崎の駐車場を出て、三崎方面へ向かうとすぐに海に面した展望台と自然博物館があります。駐車場があるので、ゆっくり太平洋を眺めることが出来ます。水仙が沢山咲いていました。

そこから浦賀を通過して久里浜の港沿いの道に入ると「ペリー上陸記念公園があります。

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公園の中央には大きな記念碑が立っています。その右手奥には記念館がありペリー上陸に関連した展示があります。

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この記念公園は国費で運営されているのか展示物が立派です。予算に余裕があるのか入場無料です。

江戸幕府がアメリカの圧力に屈して、1852年に開国した歴史的記念物です。これ以後日本はロシアや欧米列強と通商条約を作り富国強兵の嵐の中に巻き込まれて行くのです。

そんな感慨を覚えながら車を運転して、下の写真の津久井浜にでました。

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この砂浜は三浦半島では珍しく広い海水浴場です。砂が綺麗で、ゴミが皆無です。その上、美しい種々の貝殻が落ちているのです。壊れていない貝殻です。

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貝を夢中で拾った後は、足跡ひとつない渚をご機嫌で走っている老妻です。

それはそれとして、三浦半島の観光地は近年よく整備され眺めの良い場所には駐車場があり、展望台があります。その上大部分の駐車場は平日は無料なのです。心豊かにゆっくり散策できるのです。夏は賑わいますが、冬は静かです。温暖です。水仙が沢山咲いています。(続く)