後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

気仙沼市鹿折(ししおり)地区の現状

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災で津波に洗い流された地域の現状はどうなっているのでしょうか?

そして、福島原発の爆発で避難生活をしている人々が以前住んでいた家や農地は現在どのようになっているのでしょうか?

最近、日本のマスコミは報道しなくなりました。忘れてしまったのでしょうか?

一周年の3月11日だけは被害者が見たくない悲惨な映像をさんざん流しました。しかし真面目に被災地の現状と、人々が困っている問題を取上げていた報道は見ませんでした。

あちこちで復興の槌音がしているような楽観的な、そして断片的な報道が時々あるだけです。

私は心配になり最近、毎日のようにインターネットを検索して調べています。

昨日、ご紹介した、1年後の大津波被災地はほとんど全然復興していませんと題する記事もその1つです。

今日は、 misty_hillさんが書いている「イーハトーブの森を抜けて」(http://mistyhill.exblog.jp/14885850/) というブログを御紹介いたします。

気仙沼市にお住まいで、大津波の現地のその後の状況を真面目に、そして根気良くご報告しています。

以下は、「大津波と大火に見舞われた鹿折(ししおり)地区の今」と題した、3月19日の掲載記事の冒頭部分と写真です。

是非、彼のブログを丁寧にご覧下さい。マスコミ報道では伝わって来ない現地の苦しみや、現在起きているいろいろな問題が分かります。

東日本大震災の復興はまだ手つかずと言って過言ではありません。簡単に忘れてはいけないと思い、ここにmisty_hillさんが書いている「イーハトーブの森を抜けてを謹んでご紹介する次第です。(続く)

===大津波と大火に見舞われた鹿折(ししおり)地区の今=====

東日本大震災で,大津波と大火に見舞われ3日間,燃え続けた,気仙沼市鹿折(ししおり)地区。
震災で旅立った大切な友人が住んでいた場所だけに,気持ちが重いが久しく行ってなかったこともあり,復旧の状況を知りたくて、訪れた。
幸い、雪が消えたこともあり,コンパクトデジカメをポケットに入れて,バイクで訪れた。
本日の最高気温の時間帯を選んで出かけたのだが,やはり6度ではかなり寒かった。

鹿折地区は,水産加工場だけでなく,一般家屋も多い地区で住民の結束力はとても強く,いつも賑わいをみせていた地区。
大津波と大火のために,風景は,阿鼻叫喚の地獄のような状態になった。
いつも報道で,象徴的に取り上げられる 300tクラスの大きな船が小さく見える。

気仙沼信用金庫鹿折支店があった場所から,鹿折駅方向を写したのだが
向こうまで見渡せるほど,瓦礫や破壊された建物が取り除かれていた。
ほとんど何もなくなり,船までの距離およそ500mが見渡せる。
船のすぐ脇には,JR大船渡線の鹿折唐桑駅があったが,駅舎は取り壊されていた。
この地区で,最も賑わいを見せていた かもめ通り商店街は 

一部の建物と道路が残り,写真右端には 船が横たわったままだった。
震災では、この通りの道路も破壊された。この道路は,土盛りして復旧された道路である。
鹿折川にかかる浪板橋の上から,コの字岸壁と呼ばれる,鹿折の岸壁方向を写す。

津波で破壊された水産加工場の建物が残っている周囲にあった一般家屋はことごとく,取り払われ,基礎部分だけが残されていた。気温6度だというのに,とても臭い。 魚が腐った匂いだけではなく,いわば「異臭」である。とても鼻につく匂いである。気温の上昇とともに、匂いはきつくなるだろうことを思うと
少々、気が重い。
浪板橋から 鹿折駅方向を写す。

=====以下省略いたします========

misty_hillさんはフライフィッシングの釣りの友人を大津波でなくしました。旅立ってしまった友人のことを想い釣りは出来ませんでした。

misty_hillさんの心の傷がはやく癒されるようにお祈り致します。そして川釣りを再開すれば亡くなった友人も天国から喜んでくれると思います。

大震災で亡くなった全ての方々のご冥福を心からお祈りしつつこの記事の終りといたします。

合掌


北朝鮮が何故、長距離核弾頭ミサイルを持ってはいけないのですか?

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

北朝鮮が長距離核弾頭ミサイルでアメリカ本土を攻撃出来るようになるのは時間の問題です。核爆弾を持っていて、来月には人工衛星打ち上げの実験をします。それが成功すれば大陸間弾道ミサイルの技術が完成したことになります。

次の技術開発は核爆弾を小型化して、大陸間弾道ミサイルの先端に取り付ける技術を開発することです。

それも時間の問題です。

アメリカがいくら阻止しようとしても北朝鮮は長距離核弾頭ミサイルを必ず開発するでしょう。

アメリカが阻止出来ない理由は中国とロシアにあります。この2つの大国はアメリカだけによる世界支配を少しでも弱めようとしています。アメリカの独走だけを許すと中国もロシアも経済的な圧迫を受けるのが明白なのです。

この2国が北朝鮮を陰で支援し、味方になっている以上は、アメリカは軍事的に北朝鮮を占領出来ません。

第二次世界大戦後の朝鮮動乱を思い出して下さい。

アメリカ軍の北朝鮮への侵入を食い止めたのは中国共産党軍の人海戦術だったのです。「ウンカの如く」押し寄せる中国兵にアメリカ兵が蹴散らされたのです。

アメリカはイラクやアフガニスタンのように簡単に北朝鮮を占領出来ないのは明白です。

それなのに日本政府は北朝鮮の確信犯的な核ミサイル開発を甘く見て来たのです。食料支援をすれば、それを止めるという判断は相手が普通の国なら正しい判断です。

北朝鮮は普通国ではないのです。

2012032301002353ci00021 左の写真がミサイルの迎撃システム「PAC-3」です。今頃になって慌ててそれを沖縄へ配備しようとしています。下に示したニュースをみて、私はひどく驚きました。ミサイルの迎撃システム「PAC-3」は、前々から、北海道から沖縄までにまんべんなく配置して置くべきだったのです。

第一、迎撃システム「PAC-3」の命中率が問題です。100発打って、すべてが北朝鮮の核ミサイルに命中するなら安心です。しかし「PAC-3」の命中率が低いといううわさが流れています。

北朝鮮が核ミサイルを持ってはいけない。それは悪いことだと言っても仕方の無いことです。

そんな道徳論は止めにして、日本の迎撃システムの命中率の向上に技術的に努力すべきではないでしょうか?

日本人は東日本大震災で大変な時期です。しかしそれにもかかわらず自国の防衛にはもっと真剣であるべきと信じています。

皆様はこの問題をどの様におかんがえでしょうか?

=====今日のニュース==============

北朝鮮の人工衛星打ち上げ名目での弾道ミサイル発射予告をめぐり、政府は、地上配備型迎撃システム「PAC-3」の配備など、不測の事態に備えた自衛隊の迎撃態勢を大筋で固めた。
発射予告を受け、政府は、北朝鮮がIMO(国際海事機関)に通告した、軌道や射程距離などをもとに、迎撃態勢についての検討を続けてきた。
そして、23日までに、PAC-3を沖縄本島と石垣島、 それに宮古島に配備し、迎撃ミサイル搭載のイージス艦2隻を東シナ海に展開する方向で最終調整に入った。
PAC-3については、静岡・浜松市の高射教導隊、第2術科学校などから、自衛隊の輸送艦で運ぶ案が有力となっていて、輸送量次第で民間の船舶を利用することも検討されている。
また、軌道が大きくそれた場合の首都圏の防衛のため、PAC-3を東京都内に配備し、日本海にもイージス艦1隻を展開させる方向。
政府は、すでに関係自治体との協議に入っていて、来週中にも、安全保障会議を開いたうえで、田中防衛相が、自衛隊法に基づく「破壊措置命令」を発令する方針。


麗しき日本へ送る賛歌(5)旧懐の情をかきたてる奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿

2012年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この麗しき日本という意味は自然の風景が美しいという意味です。しかしもう少しその意味を広げて考えてみます。日本古来の美しい神社仏閣の建物のたたずまいもあります。豊かに広がる農村風景も美しいものです。

そして昔の宿場町の景観も美しいものです。美しいだけでなく旧懐の情が湧いてきます。

何故か知りませんが、私は若い時から「旧懐の情」が突然、強くこの身を熱くするのです。それは旅先で突然起きる現象です。日本国内に限らず、ドイツの中世の村や町に入ると酔ったように気分になり、体が熱くなるのです。韓国の農村へ行った時も故郷へ戻ったような気がしました。

アメリカのさびれた田舎町を車で通り過ぎる時も同じです。そこでは、名も無い人々が生活のために働き、家族を愛して、そして静かに死んで行ったのです。あるいは若者達が捨てて出て行った町や村です。その若者たちが遠くで失意の生活をしている時、思い出す故郷です。いろいろな想念が私の体を駆け巡ります。しかし、旧懐の情は言葉では書けない一瞬の情念なのです。説明してしまうとウソになってしまう感情です。

日本にもそのような古い町があります。奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿です。江戸時代そのままの宿場を復原して、見事に保存しています。そこでは時間が停まったようです。江戸時代の時間を写真に撮れるのです。

この4ケ所は何度も訪問しました。特に木曽街道の奈良井宿は比較的近いので7回くらい訪れました。そこで以下に少し詳しくご説明いたします。

大内宿、妻籠宿、そして馬籠宿もそれぞれ違った感動を与えてくれます。とにかく遠路訪ねるだけのことはあります。詳細は割愛し、下に写真だけを示します。

長野県、塩尻から木曾谷へ国道19号線を木曽福島の方向へ20km位走ると奈良井宿があります。昔の中仙道の奈良井宿が右手に見えて来ます。奈良井へ入る道の案内看板があり、駐車場があります。車を預け、徒歩で江戸時代の宿場町の通りを散策するのです。長さ1kmくらいの通りを静かに歩くだけです。

奈良井宿は鎌倉時代から宿駅として栄えたそうです。木曽路の分水嶺、鳥居峠の北側のこの付近に土豪奈良井氏が居館を構えたのが始まりと言います。

戦国時代は木曽一族と甲斐の武田一族の戦いの場所でした。付近には多数の戦死者を葬った沢が「葬沢」という名前が残っています

江戸時代になり徳川家康により慶長7年(1602年)中仙道の宿駅として決められました。それ以来、260年間、奈良井宿は江戸と京都を結ぶ中仙道の重要な宿場だったのです。

奈良井宿は木曽11宿で一番大きな宿であり、中山道、全67宿の中でも有数の規模を誇っていたそうです。

参勤交代の大名行列が通るだけではありません、数多くの行商人や巡礼の庶民が通り抜けた宿場です。庶民の泊るところは大きな広間です。一緒に寝たのです。その広間の傍には馬が繋いであったのです。芭蕉の、「のみしらみ馬のしとする枕元」という奥の細道での俳句は現実だったのです。

宿場町には本陣や脇本陣が公開されています。しかし多くの庶民が泊った旅籠を見落とさないことが重要と思います。当時の名も無い庶民の旅の苦しさが分かります。

奈良井宿は幸い大きな火災にもあわず江戸時代の家屋が残っていたのです。戦後、昭和30年台から、修理、復元の努力を続け、昭和53年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

同じ木曽路の馬籠宿と妻籠宿ほど有名でないので観光客も少なく落ち着いた雰囲気です。人影まばらな宿場町を季節の風が通り過ぎて行きます。

ある年の初夏に訪れたときに、裏山の森から澄んだ春ゼミの声が絶え間なく聞こえていました。偶然立ち寄った古いお寺の裏手に、処刑された隠れキリシタンの墓が一基淋しく立っているのを見つけました。木曽へ逃げ、身を隠していた「隠れキリシタン」が捕まって、奈良井宿で処刑されたと書いてあります。裏山から聞こえる澄んだ春ゼミの声が鎮魂の歌のようでした。

随分と時が流れてから、木曽蕎麦の「盛り」と「五平餅」で遅れた昼食をとって帰って来たことが忘れられません。

撮影日時:2010年6月1日午前11時から午後1時、撮影場所:長野県塩尻市大字奈良井(奈良井宿の観光情報のURL:http://www.naraijyuku.com は良く出来ているので是非ご覧下さい。特に建物の特徴が面白いです))

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下は大内宿の通りを山の上から見た風景です。合津藩が作った宿場で会津盆地と日光街道の今市宿の中間の山の中にあります。交通が不便な所なので昔の家々がそのまま残りました。

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大内宿の通りの両側のカヤブキの家々が旅籠だったのです。家と家との間が離れているのが珍しいと思いました。現在は丁寧に復元されています。下の写真のように土産物屋や蕎麦屋になっています。本陣も公開されています。

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大内宿の写真をもう3枚、下にお送りします。クリックすると拡大します。

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妻籠宿は下の写真のように昔のままに丁寧に復元されています。

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下は夜の妻籠宿です。

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下の写真2枚は馬籠宿です。急な坂道の両側に旅籠があるという変わった宿場です。木曽は山が険しく平地が無いのです。

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この坂を登った通りに面して島崎藤村の生家が復元され、公開されています。

長野県の小諸城跡にある懐古園の中の「島崎藤村記念館」を見たあとで、藤村の生家を見学すると、何故、彼が故郷を捨てたかが分かるような気がします。山々ばかりで、因習にとらわれた人々の閉鎖的な雰囲気がやりきれなかったのでしょう。

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客船の小さな旅の風景(5)奇想天外なパッケージ旅行

2012年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

いろいろな旅行会社が格安のパッテージ旅行を企画し、お客を集めます。2泊3日とか3泊4日の国内旅行には何度も行きました。

2006年3月25日からの3泊4日の旅は奇想天外なコースでした。企画内容が独創的なのですぐに申し込みました。

コースが普通の発想ではありません。飛騨の山岳地帯の観光をしてから、名古屋港を出港し、太平洋を仙台港まで縦断する船旅を楽しみ、更に松島観光をして東京に帰ってくるというものです。

3月25日の朝に新宿を観光バスで出発し、奥飛騨の平湯雛祭りを見て、新穂高ロープウエイで穂高岳に登り、その夜は奥飛騨温泉に泊ります。

3月26日は高山の朝市を見て、高山散策後、白川郷に出ます。白川郷をしばらく歩きまわり、郡上八幡へ行きます。市役所の男女職員による郡上八幡の盆踊りをみて感動します。テンポが早いのに典雅な踊りです。そして連歌で有名な宗祇水を見て、一路、名古屋港へ向かいます。

その夜は航行中の「きそ号」(15000トン)の特等室で宿泊です。

3月27日の朝は、房総半島沖を巡航しています。その日は終日、茨城沖、福島沖、宮城沖と航行し夕方、仙台港に着きます。その夜は作並温泉に泊りました。

3月28日は松島へ出て、五大堂や瑞巌寺を観光し、松島湾を観光船で周遊しました。松島観光を終え、昼食後、一気に新宿まで観光バスで帰って来ました。

この3泊4日の食事、宿泊代、船と観光バスの乗船料金など全てを含めて1人45、980円でした。パッケージ旅行は一般的に格安な上に、宿泊するホテルや旅館がかなり立派なので安心です。

この太平洋の船の旅は名古屋に本社がある「太平洋フェリー」という船会社が運航しています。名古屋、仙台、苫小牧と定期航路があります。そして15000トン級の新造船を使っているので船内の施設が綺麗に出来あがっています。主力船は「きそ」と「いしかり」ですが、他にも「きたかみ」などのもう少し小さい客船もあります。

以前にご紹介した「飛鳥II]や「にっぽん丸」などの立派な客船のような感動的な「サービス」が無いことだけが違いです。夜には無料のショーもありますが、飛鳥IIのような大規模なショーではありません。

しかしこのようなフェリー客船は快適なので、苫小牧から仙台へと、そして川崎港から四国や九州迄も含めて4、5回乗り、太平洋の航海を楽しみました。なお日本海側にも新日本海フェリー社が同じような船を運航しています。乗ったことはありませんが、日本海側も一度行ってみたいと思います。下に「きそ」の写真を示します。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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これは「きそ」15000トンですが全く同型船として「いしかり」も運航しています。

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これは「いしかり」のダイニングルームです。「きそ」も同じですが絨毯やテーブルクロスの色が違います。

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船内は広々していてグランドピアノがあり午後にピアノ演奏がありました。

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船室はベッドが2つと、バス・トイレがついています。大きな四角な窓の外には太平洋の海原が広がっています。船が動いているので、巨大な河のように波と水が、うしろへ、うしろへと流れて行きます。一日中、その巨大な流れを見ていても飽きません。船がゆったりと上下します。その感じが何故か良いものです。


1年後の大津波被災地はほとんど全然復興していません

2012年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

宮城県にお住まいの中井政義さんという方が「東日本大震災を風化させない活動推進センター 」というセンターを運営し、被災地の現状を報告しています。

http://ameblo.jp/successboss/theme-10036523339.html を開けて見ると大津波にの一年後の松島地域の現状の写真が出ています。他の写真もいろいろ見ると被災地はほとんど復興していない事が分かります。

マスコミでは大津波の被災地の現状を伝えていません。全国の人々は何となく、かなり復興しているのではないかと想像しています。しかし現実には瓦礫の引き取り先も少なく、瓦礫処理すら遅々として進んでいないのが現状なのです。

以下に1年後の松島地域の現状の写真を中井政義さんのブログから転載させて頂きました。

他にも現状については検索するといろいろ御座います。

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中井政義さんの独り言:

現在みなさんがTVなどでご覧になっている
被災地の報道と現地では大きな違いがあります。

マスコミ報道は「復興に向かってる!」「復興の一歩を踏み出した・・」
という締めくくり方をしておりますが、
被災生活を送っている被災者の本当の姿をわかっていないと感じます。

それは当然です。
誰しも当事者にならないと分からないわけですから・・

現実は、津波で被害を受けた沿岸部はまだまだ、瓦礫の山です。
避難所の環境も悪くなるばかりです。
慣れない色々な法的手続きなとで、疲れ果てています。
(1つの手続きに数時間並ばなければいけません)

10ヵ月経った今も、何もほぼ・・変わっていません。
後手後手の行政に振り回され、理不尽な毎日を送っております。


そこで、被災し、家・財産を無くし、避難所生活を経験した
私が、真の情報(理不尽な真相)をお伝えしようと
活動を始めました。

全てを失った自営業者(私)の、マイナスからスタートです。
しかし、今回の震災で人生観が変わりましたので
必ず新たな分野で成功したいと思っております。===以下省略====


恒例、春桜オープンガーデンのご案内・・・陽賜里(ひだまり)工房ガーデン

2012年03月22日 | うんちく・小ネタ

陽賜里工房ガーデンの様子は、以前の記事、偶然見つけた美しい庭と老婦人 でご説明しました。そこの恒例、春のオープンガーデンを下記のように開催するそうです。私も参加したいと思っています。皆様のご参加をお待ちしています。

4月14日(土)から15日(日)の午前10時から午後4時頃まで、

そして、4月18日(水)から21日(土)の午前10時から午後4時頃まで。

場所は山梨県北杜市武川町 山高 3567-556

飲食物持ち込み自由です。

コーヒーあります。

いつもながらの~んびりと桜や山々の風景をお楽しみ下さい。

 

連絡先:携帯電話:090-4170-0370 Fax:042-551-3487

e-mail: t-taraku@t-net.ne.jp  (原田聖也さん)

尚、下は陽賜里工房ガーデンの昨年の4月のオープンガーデンの様子です。

このガーデンとその喫茶店は、北杜市の真原桜並木のはずれにある花の園です。庭全体がなだらかな南向きの斜面になっていて満開の桜の木が2本、ピンクのユキヤナギ、水仙、ヒトリシズカ、イカリソウなどに囲まれて店主手造りの店があります。

花園の一番高い所にはロマンチックなデザインの木造の家があり店主が寝泊まりする場所になっています。お客は勝手に花の園を歩きまわり、花々を鑑賞します。そして花疲れしたら洒落た店に入って香り高いコーヒーを頂きます。

コーヒーを飲む場所には女主人が居て、つれずれの話し相手になってくれます。店の主人のお母さんです。上品な日本語を使う方です。花の園の作り方などのよもやま話です。折り目正しい一生を過ごした方なのでお話をしていてもスッキリとした印象です。

下にこの花の園の中の喫茶店の写真をお送り致します。

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北海道の道端に群生している水芭蕉の花々

2012年03月22日 | 写真

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北海道は自然がいっぱいです。網走のそばの道端で偶然、水芭蕉が一面に咲いているのを見つけました。観光客用でないのです。店も案内板もありません。雑木林の下の湿地に静かにただ咲いているだけです。10年ほど前の5月に車で通り過ぎた道端で撮りました。

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大震災後に見た人間の美しさ(3)数々の感動的な場面

2012年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

東日本大震災から1年がたちました。震災直後に見た人間の美しい行為が忘れられません。

1年前を振り返って、その感動的な場面を幾つか書いて行きたいと思います。

少し長くなりますが、よろしくお願い申し上げます。

尚、この記事に関連した4枚の写真は下にある「写真の追加」として示しました。合わせてご覧下さい。

(1)3月11日直後、テレビで見た美談、4つ:

3月11日の後の数日はガソリンの入手困難で車も使えません。そこで終日、テレビを見ています。その中で見た美談を4つ書きます。ご覧になった方も多いと思います。

(1)ある瓦礫の広がる町の隣で、幸運にも水の入らかったスーパーマーケットの快挙です。地震で店中は足の踏み場も無いのに店先の屋外でお菓子や食料の袋を全て200円で売っていました。罹災者たちが行儀良く行列し、1人5袋まで買っていました。停電でレジが使えないので昔のように現金で売っています。何かを買った老人へ記者が感想を聞くと、「非常に勇気づけられました」と言っていました。このスーパーは一袋300円、400円のお菓子や食品を全て200円で売る事にしたそうです。

(2)ある避難所の前に箱型の大型トラックが停まっています。取材中の記者が何をしてますかと聞いていました。怖い顔をした運転手が話しています。「運送用の大型トラックを持っているので、この際、避難者へこうして食べ物を届けているのです。市役所に食品が山積してあるのですが運ぶ人が居ないのです」と言ってました。自分の家も津波に全て持っていかれてしまったとも話していました。

以上は偶然、私が見ていたテレビに出ていた光景です。このような美談は被害を受けたあちこちであるようです。

(3)東京の民間テレビは地震・大津波発生以来、不謹慎なコマーシャルやお笑い芸人のドタバタ番組を一斉に放映しなくなりました。今まで民間テレビの露骨な儲け主義や低俗な番組を困ったものだと思っていました。

しかし今回の民間テレビ局の姿勢に感動しました。日本人の良識に今回ほど感動したことはありません。

(4)大槌町中学校のある中年の男性教師の生徒への愛

岩手県の北の方にある大槌町も大津波で壊滅しました。しかし生き残った人々の為に避難所が山沿いのあちこちにあります。

大槌町中学校のある中年の男性の教師の話です。

彼は避難所を一軒一軒回って、叫んでいます。「大槌中学校の生徒はいないか!」と。返事がありません。彼は泣きそうな顔になります。そしてその避難所の入り口の掲示板に大槌中学校はしばらく休校になるという張り紙をしています。彼が担任をしているクラスの多くが行方不明の様子です。彼は本当に悲しそうです。

最近、人間同士の絆が無くなったとよく言われています。しかし師弟愛は確かに存続しているのです。大津波は大悲劇ですが、それによって人間の絆が強くなっているのです。

(2)ニューヨークでのいろいろな宗教家が合同でした追悼式:

ニューヨーク中心部の教会の中に仏像を乗せた祭壇を作り、佛教、神道、キリスト教合同で、地震・大津波犠牲者への追悼式が18日に行われました。

参加者は約200人でした。現地在住の日本人僧侶、中垣顕実 師(浄土真宗)が読経し、神主がお祓いをし、牧師が聖書の一節を読みました。そして200人のアメリカ人や日本人がキャンドルを手にして5分間の黙とうを捧げたのです。

その鎮魂の祈りのあとにはキャンドルを手に市内を練り歩き、最後に国連本部の前の広場ですべてのキャンドルに火を灯し、冥福を祈ったのです。

(読売新聞夕刊、2011年4月19日版、2ページ目の記事、「震災鎮魂・・・NYでも」より)

(3)若い人々によるボランティア活動:

大震災直後にテレビで報じられた一例です。

東京の若いラーメン屋さん達が8名程、気仙沼市へ行って、温かいラーメンを1200食も作って避難民へ食べさせたのです。麺、スープ、から焼き豚、ネギ、メンマなど1200食分を自分達の乗用車へビッシリ積み込んで東北高速道路を一路北上したのです。東京の警察署も即刻通行証を出しました。

気仙沼市の避難所の学校の校庭にブロックで即製の炉を作り、持参の大鍋でラーメンを作ったのです。釜石市でラーメン屋をしていて、津波で店を流されてしまった男も参加しています。避難所の学校の中学生、数人も下働きとして走り回っています。

避難以来、例年になく寒い日が続いたので、人々はアツアツのラーメンを感動しながら食べていました。汗か涙か分からいないものを拭いながら食べている人もいます。たったラーメン一杯でも家族を亡くした人々へ生きる希望を与えたに違いありません。

マスコミは福島原発の事ばかりですが、大津波で壊滅してしまった東北地方の復興へ向けて全国の人々は立ちあがっているのです。放射能も怖いのは事実ですが、東北地方には大津波のあとの惨状が累々と広がっているのです。自衛隊も外国の救援隊も日夜苦しい仕事を黙々としているのです。頭が下がります。

(4)枝野官房長官の仕事ぶりを外国のマスコミが絶賛:

http://rocketnews24.com/?p=81025に出ている記事を読むと枝野官房長官の仕事ぶりが絶賛されていることが分かります。その記事に出ていた彼の写真を下に掲載します。私はこのブログで枝野さんの広報ぶりは立派だと褒めて来ましたので大変満足しています。彼の政治家としての素顔は知りませんが今回の仕事ぶりは確かに称賛に値します。

何故、枝野さんの広報が立派かというと、技術専門家の言うことをまず深く理解して、その上、自分で一般人の不安も考えて発言しているのです。自分が理解していない事は一切喋りません。不眠不休の情報収集をしていながら何度も記者会見をしています。そして忙しくても必ず一つや二つの記者からの質問を注意深く聞きます。質問の意図をよく理解してから簡明な返事をします。絶対にはぐらかりたり、逃げたり、誤魔化したりしないのです。凄く広報の上手な政治家だと感動しました。

(5)更に感動的な話:

目を転じて、被災地を支援するボランティアの多彩な活動ぶりを見ると感動します。胸が熱くなります。特に学生や若者の活動に心強さを感じ、日本の将来に安堵します。心が明るくなりました。

ボランティアの活動は組織だっていて被災者のニーズに合わせてタイムリーに助けているのです。ボランティアが行っても被災者へ絶対に迷惑をかけないように細心の注意をしています。

大学生はお金が無くて交通費や現地での宿泊費がありません。しかし労働力はあります。そこでお金のある社会人のボランティア組織と共同して労働力だけをニーズに合わせて提供しています。そのチームワークに感動しています。

ある学生ボランティアグループは被災地で家族のアルバムや故人の遺影を探し、持ち主へ手渡す作業だけをしています。あるいは行方不明になったペットだけを専門に探すグループもいます。

石原軍団が大掛かりな炊き出しをしました。東京のラーメン屋さん達が結集して温かいラーメンを現地で作り、何千食も提供しました。

このような感動的な支援の話を書いて居たら何枚もの原稿用紙が必要になります。しかしもっと感動した事はボランティアへ行った若者が言っていたことです。「助けに行った我々がいつの間にか逆に励まされていた」という言葉です。苦しい重労働に負けて暗い顔をしていたら、被災者に温かい飲みものを貰って涙が流れたという体験を語っていました。家族を失った被災者でも他人を思いやる優しさを持っているのです。底知れぬ勇気を持っているのです。人間の凄さ、良い意味での凄さに感動します。

そして世界中の人々からの支援で私の心を熱くなります。一つだけ書いて終わりにします。宮城県の女川町のある工場で働いていた20名の中国人をその会社の常務だった佐藤 充さんが高台へ誘導して助けたのです。そしてもっと多くの人々を助けようとして低い町へ降りていって津波に流され死んでしまったのです。女川町では合計9つの会社で54名の中国人が働いていました。しかし全員が無事に、帰国したのです。

佐藤 充さんは中国の新聞に大きく「英雄」として報道されたそうです。

そして54人の中国人を派遣した大連の中国の会社の代表者、王 軍さんら5人が昨日女川町を訪問したのです。感謝の言葉を話し、54名の中国人の働いていた9つの会社全てに義捐金を渡したのです。

それはそれとして、

今日は東日本の被災地で多彩なボランティア活動をした全ての人々へ深い感謝の意を表したいと思います。

そして皆様のご健康をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


まもなく新鮮な春の食材が出回ります・・・とりあえず写真でお楽しみ下さい

2012年03月21日 | 写真

日一日と太陽の光が輝きを増してきました。しかし風は冷たくて寒い日々が続いています。

こういう季節を光の春と言うそうです。光だけは春という意味です。

今日、大きなスーパーに行きましたところ、フキノトウや春ウドやタケノコなどが並んでいました。魚売り場には大きなタイやサワラ、メバルなどがありましたます。入学や卒業のお祝いに大きなタイが売れる季節です。

ああ、店先には春が早くやって来たのかと感心しました。

それで思い出しました。

何年か前に、5月の北海道をドライブしていました。網走に近い道端に広大な湿地帯が広がり、一面に白い水芭蕉の花が咲いていました。そして、その近辺の道路わきには大きなフキノトウが出ています。車を停め、フキノトウを沢山採り、東京に帰って天麩羅にして食べたことを思い出しました。見事な春の味でした。

さらに北海道の南の方には巨大なラワンブキが葉を広げています。それを採って帰り、水あげして、大きな葉を広げさせました。孫達がその下に入って遊んでいました。何年も前のことです。孫は大きくなって、もうラワンブキでは遊ばなくなりました。

そのようなことなどを思い出しながら、春の食材の写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。 写真の出典は、「春の食材画像検索」です。

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客船の小さな旅の風景(4)横浜から岩国へ悲しい巡航、祈りながらの巡航

2012年03月21日 | 旅行記

2011年3月26日から28日に行った客船の旅は、東日本大震災のすぐ後だったので悲しい旅になってしまいました。東日本の復興を祈る旅になってしまいました。

人生にはそんな悲しい旅もあるものです。

戦前生まれ、戦後育ちの私は飢餓時代を経験しました。

貧困にあえぐ時代を経験しました。日本全国がそうでしたから恨みには思っていません。

しかしこいう体験は私の人生に深く暗い影を落としています。

どんなに楽しいことがあっても反射的に悲しいことを思い出します。

ですから100%楽しむことが出来ません。完全に享楽的な生活が出来ないのです。

以下にその記録をお送り致します。

そうして今日もこれを書きながら東日本の復興を強くお祈りいたします。

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客船の旅は横濱大桟橋から始まりました。総トン数25000トンのにっぽん丸で太平洋を西へ、岩国まで巡航する旅です。

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夕方、出港したので横濱の街がシルエットにように美しく見えます。

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横濱港のベイブリッジをくぐり、港外へ出ます。

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船の最上階の丸窓の向こうにう夕日が見えます。

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海上からは、いつまでも紅の富士山が見えていました。東日本大震災で亡くなった2万人の方々のご冥福を祈りました。東日本の1日も早い復興を祈りました。

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横濱出港後約40時間、2日目の朝、神戸沖を通過し、明石大橋をくぐりました。そこからは一路風光明媚は瀬戸内海を航海し、昼前に岩国港に上陸しました。

上陸後はバスで錦帯橋と宮島を観光し、広島空港から羽田に帰る旅でした・

======悲しい旅、祈る旅==============

大地震・大津波のすぐ後なので太平洋上から見える富士山や緑の本州を眺め、「大和民族よ強くあれ」と心の中で祈っていました。

海上から富士山へ亡くなった方々のご冥福をお祈り致しました。東日本の一日も早い復興を祈りました。

厳島神社や錦帯橋では東日本大震災への義捐金の箱へ人々がお金を入れていました。ひっきり無しに入れていました。義捐金を入れる人々がみな悲しそうにしています。胸の熱くなる光景でした。どこに行っても義捐金を入れている人々がいるのです。それは悲しい光景でした。

今回の大災害を考える時、私は少年の頃経験した終戦前後のことを思い出しています。そして、それと比較して考えています。

当時は全国の都市がB29の編隊爆撃で一面、焼け野原になったのです。焼け残った白壁の土蔵以外は一面瓦礫が広がっていたのです。今回大津波に襲われた後の町の風景に似ていました。

当時住んでいた仙台の焼け野原を歩きまわった記憶を思い出しています。

焼け跡には黒焦げになった遺体があちこちに転がっていました。広瀬川の河原では遺体を焼く大きな焚火の煙が上がっていました。

そして8月15日の終戦です。

日本の船も飛行機もアメリカ軍にやられてしまい、復員船も米軍のLSTという上陸用舟艇を借りていたのです。シベリアからの復員船の興安丸は日本の船でしたが、それは数少ない日本の船の一つでした。帆船日本丸もすべてのセールやマストを取り外して復員船として使われていました。

なにもかも失ったしまった日本でしたが力強く復興したのです。戦前以上に豊かな、そして平和な国になったのです。

東日本大震災の復興は第二次大戦後の日本の復興よりは短い期間で成し遂げられると信じています。

西日本に残った無傷の船や高速道路や新幹線のような大きな財産が、復興の足がかりになります。東北地方の復興の支えになります。

緑豊かな山並みは残ったのです。船の上からその緑豊かな本州の山並みを見ると涙がにじんできます。

漢詩の「国破れて山河あり 城春にして草木深し・・・・」を思い出していました。

無傷で残った西日本の大きな財産を足がかりにして東日本は必ず復興します。そんな確信が沸いてきます。その復興を祈る客船の旅でした。

あれから丁度1年がたちました。

福島の原発も冷温停止状態になりました。大津波で洗い流された東日本の町々には復興のきざしが見えて来ました。ゆっくりではありますが希望の光が見えてきました。日本中が、ほんの少しですが明るくなったようです。

今日は、ここに皆様とご一緒に東日本の一日も早い復興をお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)


世界の2500種の言語が絶滅危惧・・・日本ではアイヌ語、琉球語、八丈語などの8言語

2012年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C)

地球46億年の歴史は弱肉強食の歴史でした。そして弱肉強食は動植物界に限らず、民族間でも同じでした。強い民族が栄え、弱い民族は消滅するのです。

民族の消滅はその民族が使っていた言語の消滅で判断出来ます。例えばアイヌ人の血を受け継ぐ人々が現在日本には23000人余が居ると言いますが、アイヌ語を日常使う人は絶えました。ですからアイヌ語は事実上消滅したと言っても大きな間違いではありません。言葉が無くなったので、アイヌ文化は消滅したと考えても良いわけです。固有の文化が消滅すれば、その民族が消滅したとも考えることが出来ます。

2009年に本部がパリにある国連教育科学文化機関(ユネスコ)が世界にある6000前後の言語のうち2500言語が消滅の危機にあると発表したのです。

日本ではアイヌ語、八丈語、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の8言語が消滅危機言語に指定されたのです。

このユネスコの調査、研究では、全世界にある6000程の言語を対象にして、538語をきわめて消滅の危機にある言語、502言語を重大な危機にある言語、などなどと分類し、合計2500言語が消滅の危険にあると結論しています。

また、1950年以降に消滅した言語が219語あることも判明したのです。

最近では2008年にアラスカ州のイヤック語が、最後の話者の死亡で途絶えたのです。

アイヌ語については話し手が15人いるとも言いますが、日常使っている人は殆ど居ないのが実態です。これは財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)もこの実態を認めています。

さて、八丈語と琉球語の奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語などを、日本人は日本語の方言と考えています。

しかし国連教育科学文化機関(ユネスコ)は国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当だと主張しているのです。沖縄の人と日本人は話し合っても通じ合わないのですからやっぱり独立の別な言語と考えたほうが自然なのかも知れません。

それはそれとして、現在世界にある6000前後の言語はそのうち2500程が消滅して3500前後の言語になるようです。多様な民族文化が消えてしまうのです。

この現象は生物界の絶滅危惧種と似ているようです。良いことか悪いことか考え込んでしまいます。

人間界の文化も弱肉強食と考えると淋しい限りです。

皆様はどのようにお考えでしょうか?(終り)


麗しき日本へ送る賛歌(4)人々の憧れの上高地

2012年03月20日 | インポート

松本市から長野電鉄で梓川沿いに島々まで行き、更にバスで急峻な山道を行くと、神秘的な大正池が眼前に広がります。

大正池から河童橋まで上高地特有の樹林の中に散策路が続いています。

歩いていると何故か神々しい空気が流れ、夢幻的な境地になります。

上高地を私がはじめて訪れたのは1959年、23歳の時でした。有明温泉から燕岳、大天井、槍、南岳、大キレット、北穂、と縦走し、徳沢へ降り、梓川を下って来て、はじめて上高地へ入りました。

その時の驚愕的な感動は生涯忘れられません。

その後仕事と生活に追われ上高地を再び訪れることが出来ませんでした。上高地は心の中の憧れの地として、遠い、遠い夢の土地になってしまったのです。

老年になってようやく物心に余裕がでました。それ以来何度も上高地を訪れるようになったのです。毎年行っても何時も最初に行ったときの感動がよみがえって来るのです。帝国ホテルに泊まり、河童橋から上流に遡り徳沢の途中まで歩いたこともあります。

昨年も、7月1日、梅雨空の下で、上高地を散策して来ました。曇天の平日のせいか河童橋には人影がまばらでした。ゆっくり大正池や田代池の景観を楽しみました。

曇りだったので写真は鮮明でありませんが下にその折の写真をお送りします。

ホトトギスやウグイスの声が林間に木霊しています。ハルゼミのこの世の声とは思えない鳴き声が夢幻の世界へ誘ってくれます。

そんな梅雨時の上高地をご想像しながら写真を楽しんで頂ければ嬉しくおもいます。今年も是非、訪れたいと思います。

そして更にその下には2010年7月5日に訪れた時の写真も掲載いたしました。晴天ですとこんなにも印象が変わります。

合わせてお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

麗しき日本を讃えるためには上高地を抜きにすることは出来ません。

皆様にとって上高地とはどのような場所でしょうか?

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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・上は前穂高岳の雪渓です。

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・上は河童橋を下流から見た風景です。

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・河童橋の上流にある明神岳です。ある年の晴天の日にこの河原で家内と持参の弁当を楽しんだことを思い出します。

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