今朝、五島列島の野首教会のある野崎島が10年ほど前に過疎化の末に無人島になってしまったことをご紹介しました。
それでは全国に過疎化の故に無人島になった島々は幾つほどあるのでしょうか?
いろいろな角度から検索して調べてみました。
そうしたら、HEYANEKO(浅原 昭生;Asahara Akio) さんのHPを発見しました。、(http://www.din.or.jp/~heyaneko/index.html)。左は浅原昭生さんの写真です。
それは驚くべきHPです。日本全国に過疎のために消えてしまった廃村の完璧な調査が体系的に報告してあるのです。
そしてこのHPの最初のページの検索欄に「無人島化した離島一覧」という言葉を入れて検索するとその一覧表が出てきます。URLは、http://heyaneko.web.fc2.com/0mujintou.htmlです。
この浅原さんは全国の廃村を訪ね歩いて本も出版しています。
廃村になった村に生まれ育った人々の故郷が消えて無くなってしまったのです。無人島になった島に生まれて育った人々の故郷も消えてしまったのです。
暑い夏の日や厳寒の日に通った小学校も中学校も消えて無くなってしまったのです。
何故、このような悲しいことが沢山起きるのでしょうか?
お釈迦様の教えた、「色即是空」という言葉を思い出します。それにしても人の世の儚さに胸がいたみます。
下に浅原さんの作った、「無人島化した離島一覧表」を転載させて頂きました。
この表には昭和時代になってから無人島になった78の島々の詳細な情報が示されているのです。
何故かしみじみと、いろいろな事を考えさせる一覧表です。
=====「無人島化した離島一覧表」==============
離島の廃村のうち,無人島化した離島については,「SHIMADAS」(日本離島センター刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)を丹念に見ていくと発見できることに気が付き,まとめることになりました。
表を見直すと,「無人島が呼んでいる」は,一種の全国規模で廃村をまとめた本ということがわかりました。改めて「無人島が呼んでいる」を見ると,多くの新たな発見ができそうです。
機会があったら,日本離島センターや全国過疎地域活性化連盟に足を運んで,関連の資料を紹介していただきたいものだと思います。
島名 | 無人化時期 | 面積 | 最大人口 | 特記 | |
1 | 北海道厚岸町小島(Kojima) | 1994年(平成6年) | 0.05k㎡ | 10世帯 | (学)(本)春~秋は有人となる(9世帯)。コンブ漁 |
2 | 東京都八丈町八丈小島(Hachijou-kojima) | 1969年(昭和44年) | 3.08k㎡ | 513人 | (学)(本)室町期からの歴史があった。集落名は宇津木,鳥打 |
3 | 東京都八丈支庁鳥島(Torishima) | 1939年 | 4.79k㎡ | 125人 | (本)火山活動さかん。気象庁の施設があった |
4 | 東京都小笠原村聟島(Mukojima) | 1944年 | 2.57k㎡ | 25人 | |
5 | 東京都小笠原村媒島(Nakoudojima) | 1944年 | 1.37k㎡ | 27人 | |
6 | 東京都小笠原村嫁島(Yomejima) | 1944年頃 | 0.81k㎡ | 20人 | |
7 | 東京都小笠原村弟島(Otoutojima) | 大正末期? | 5.20k㎡ | 50~100人 | |
8 | 東京都小笠原村兄島(Anijima) | 大正末期? | 7.87k㎡ | 2人 | |
9 | 東京都小笠原村姉島(Anejima) | 大正末期? | 1.43k㎡ | 14人 | |
10 | 東京都小笠原村妹島(Imoutojima) | 大正末期? | 1.22k㎡ | 33人 | |
11 | 東京都小笠原村姪島(Meijima) | 大正末期? | 1.11k㎡ | 25人 | |
12 | 東京都小笠原村北硫黄島(Kita-ioujima) | 1944年 | 5.57k㎡ | 220人 | 集落名は石野村,西村 |
13 | 東京都小笠原村硫黄島(Iou-tou) | 1945年 | 22.36k㎡ | 1100人 | (学)(本)旧硫黄島村。自衛隊の基地がある |
14 | 東京都小笠原村南鳥島(Minami-torishima) | 1933年 | 1.10k㎡ | 70人 | (本)集落名は水谷村。気象庁・自衛隊関係者がいる |
15 | 島根県益田市高島(Takashima) | 1975年(昭和50年) | 0.39k㎡ | 125人 | (学)(本)室町期からの歴史があった |
16 | 岡山県日生町鶴島(Tsurujima) | 1990年(平成2年) | 0.10k㎡ | 9人 | (本)キリシタンの遺跡あり |
17 | 岡山県倉敷市釜島(Kamashima) | 1990年頃 | 0.40k㎡ | 76人 | (学)(本) |
18 | 岡山県倉敷市上水島(Kami-mizushima) | 終戦頃? | 0.46k㎡ | 268人 | (学)(本)精錬所があった |
19 | 広島県福山市宇治島(Uji-shima) | 1963年(昭和38年) | 0.52k㎡ | 41人 | (学)(本)戦後の開拓集落。クジャクが居る |
20 | 広島県竹原市大久野島(Ookuno-jima) | 1945年 | 0.70k㎡ | 不明 | (本)戦時中,毒ガス製造施設があった |
21 | 広島県東野町臼島(Usujima) | 1969年(昭和44年) | 0.46k㎡ | 46人 | (本)瓦の名産地だった |
22 | 広島県東野町佐組島(Sakumijima) | 1971年(昭和46年) | 0.31k㎡ | 25人 | ミカン畑 |
23 | 広島県東野町船島(Funashima) | 1971年(昭和46年) | 0.30k㎡ | 50人 | 戦後の開拓集落 |
24 | 広島県下蒲刈町上黒島(Kamigurojima) | 1976年(昭和51年) | 0.30k㎡ | 43人 | (本)廃棄物問題 |
25 | 広島県音戸町三子島(Mitsugo-jima) | 1956年(昭和31年) | 不明 | 65世帯 | 戦後の開拓集落 |
26 | 広島県倉橋町横島(Yokoshima) | 1970年(昭和45年) | 0.59k㎡ | 130人 | (学)(本)戦後の開拓集落。ミカン畑 |
小生の山林の中の小屋から北西に20Kmくらいの所に江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。 特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。 それらの考古学的資料は江戸尻考古館(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から代表的な縄文土器の写真を下に示します。 上は江戸尻史跡公園にある縄文時代の住居を復元した家です。 縄文時代の家なの中での炊事風景は次回にご紹介しますが、上に示した派手な飾りのついた土器は祭器として作られたと想像されます。 毎日、煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。 底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。 食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。 その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。 江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して下のように展示しています。 耕起具(左:石鍬)や除草具(右:除草用小型鍬)と考えられる。縄文中期の石器群。 江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。 ================================= 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。 ================================= 私も縄文人の全部ではないが一部、農業の好きな人だけが自分の家の周囲に小さな畑を作り、野生の稗や粟を、あるいはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えるのが自然だと思います。 しかし当時はイノシシや鹿や猿が現在よりも非常に多数棲んでいたので家から遠い畑は全て彼らに食べつくされ役に立たなかったと信じています。 その様子は自分の山林の中の小屋では野獣に食べつくされ、とても農耕など不可能なことから明白です。 農業は山地でなく野獣の来ない広い平野に水田を作るようになった弥生時代から本格的に発達したという理解が正しい理解と思います。 しかし小規模ながら縄文時代にも農耕が行われていたという理解も正しいと思います。その違いは規模の大小と水田の有無である思います。 文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。 (続く) (写真の出典は、http://www1.odn.ne.jp/tomas/nokubi.htm です。) 隠れキリシタンの住んでいたこの離島の信者達が明治6年の禁教令廃止後の明治41年に貧しい生活の中で建てた天主堂です。 (写真の出典は、http://yuru-chara.jp/prof-t53.html です。) (写真の出典は、http://chabashira.sowzow.com/juumin/19usagi/usagi_041.html です。) (写真の出典は、http://yumiusa217.blog133.fc2.com/blog-entry-1134.html です。) (写真の出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html です。) 五島列島だけでなく長崎県全域にはこのように隠れキリシタンが禁教令の廃止後に建てた美しい天主堂(カトリック教会)が300もあると言います。 そこで長崎県はそれらの古い教会や修道院をまとめて「世界文化遺産」として認定してもらう準備を丁寧に進めています。 古い荘厳な教会堂はヨーロッパに幾らでもあります。それらに比べると長崎県の教会は質素すぎます。建築芸術としてもあまり優れていません。 しかし何故、それらが「世界文化遺産」になるのでしょうか? 理由はたった一つです。江戸幕府による250年間の過酷な禁教政策と処刑にもかかわらず日本人がキリスト教を信仰したからです。ザビエルたちの宣教師を裏切らなかったからです。古い天主堂や修道院こそが日本民族の誠実さと勇気を示しているからです。 権力者の禁教と弾圧にも耐え忍ぶという事は人間として誇るべき文化なのです。それは外国にはあまり例の無い長崎県の歴史です。 だからこそ「世界文化遺産」なのです。 考えて見ると世界に誇れる日本特有の文化は地方にまだまだ沢山あります。例えば青森県の「ねぶた」祭りなども考えられます。 日本の地方、地方には世界に誇れる文化遺産が沢山あります。そんな事実を考え、私は日本民族を非常に誇りに思っています。 それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) ====参考資料==================== 1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。 一方、高山右近という大名はキリスト教を捨てる代わりにフィリッピンへ逃げて行ったのです。 幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。明治維新後もキリシタン禁教は厳しく守られていたのです。 しかし、この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。 この歴史ほど日本人の勇気と誠実さを証明するものはありません。日本人として世界に自慢したい歴史的事実です。 1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。 しかしそれは早過ぎました。信者たちは多数捕縛され各地の藩へ預けられたのです。それは「浦上番崩れ」ともよばれています。このような刑罰は明治政府にそのまま継承され。完全に禁教令が廃止されたのは明治6年になってからでした。 詳細は以下の記事にあります。 私は東京都の多摩地方の小金井市に50年住んでいます。この小金井の2万年前の石器時代から江戸時代までの歴史はかなり調べ上げ、このブログで数多くの記事を掲載してきました。(例えば自宅から北へ2km位の所にある小平市鈴木町の歴史は、私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷 に詳しく書いてあります) ところが40年前から通っている山梨、北杜市の山林の中の小屋の周辺の考古学的な歴史については記事を書いていません。 そこで今回から数回にわたって山梨、北杜市の考古学的歴史についてその概略を調べ、記事を掲載したいと思います。まず小屋の前を流れている小川の写真を示します。 この小屋に泊まるたびに、この場所には石器時代から人間が住んでいたに違いないと想像しています。 食料にする木の実や、鹿や猪のような野生動物の豊富な土地です。 事実、上の写真の小川の300mほど下流の木内正夫さんの山荘の敷地から縄文土器らしい器の破片が出ているのです。 日本の石器時代は4万年前に始まり、12000年前からは縄文土器時代になります。しかし縄文時代も石器は非常に重要な生活用具だったのです。 特に獲った獣の皮を剥いだり、肉を切るためには鋭利な黒曜石の刃物が必要だったのです。 その黒曜石の一大産地が私の小屋から40kmと近い八ヶ岳の西にある和田峠、星が塔、麦草峠にあり、八ヶ岳近辺は黒曜石製の刃物の生産地として大いに栄えていたのです。 したがって八ヶ岳の麓の現在の山梨県の北杜市や長野県側の富士見町には石器時代や縄文時代に多くの人が住んでいたのです。その証拠は江戸尻考古館に展示してある多数の見事な縄文土器であります。 この場所で出来る黒曜石製の刃物は石器時代から関東一円をはじめ全国に流通し、一部は海外のシベリア沿海州まで運ばれていたのです。 もっとも黒曜石の産地は伊豆七島の神津島からも多量に産出し、それも日本全国や沿海州まで運ばれていたのです。 黒曜石は産地によって成分が少しずつ違うので、蛍光X線分析装置で調べれば正確に原産地が判明するのです。 その研究の結果、日本中の黒曜石の産地が明確に判っています。(詳しくは、日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見に説明してあります。) さてそれでは石器時代や縄文時代に、私の小屋の周辺に人が住んで居たのでしょうか? 私は一年中は定住していなかったと想像しています。 小屋のある場所の冬は、寒すぎるのです。雪は少ないのですが零下20度くらいになります。日本酒が凍るのです。 夏の間だけ小屋掛けして鹿などを獲っていたのだろうと想像しています。秋には木の実を多量に採集していたのでしょう。 縄文土器の破片らしいものは木内さんが発見しましたが住居跡や集落跡が見つかっていません。 木の実採集や、獣の狩のためにこの小川を遡ってきたでしょうが、定住していたという考古学的な証拠がありません。 数名で協力しあって鹿などを近くの石空川(いしうとろかわ)の広い河原に追い出して黒曜石の穂先のついた槍で下の絵のように仕留めていたと想像出来ます。 (この絵は、神奈川県相模原市の田名向原遺跡展示館の展示絵画です。) 当時の日本人の人口は2万人から多くても10万人と推定されています。 気候が温暖化する縄文時代中期には26万人まで増えますが、その後はまた人口が減少します。農耕の始まる弥生時代になって人口が確実に増加しはじめるのです。 石器時代や縄文時代は北海道も含めて日本全国に最大でもたった26万人しか人間がいなかったのです。 それに比較して狩の対象になる獲物が日本中に溢れるように住んでいたのです。 ですから当時の人々の肉食は現在想像するよりも豊かだったに違いありません。 下に当時の人々が狩りの対象としていた動物の一覧図を示します。(続く) それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) (この絵は、神奈川県相模原市の田名向原遺跡展示館の展示絵画です。) 今年の8月は夫婦で旅行をしなかったので、今朝は山中湖への小さな旅に出ました。 中央高速道路で大月まで行って、あとは富士吉田までの昔の国道を上がって行きました。西桂町まで行ったとき急に雲が流れ、富士山の頂上が見えました。直ぐに国道を離れ、田舎道に車を止めて富士山の写真を撮りました。一番上の写真がそれです。その後、頂上はすぐに雲に覆われ、二度と現れませんでした。 富士吉田の手前の明見という所から忍野村へ出る道を通って、忍野の向うの「花の都」という花園に車を止めて写真を撮りました。2番目と3番目の写真がそれです。 そして山中湖の湖畔に出て4番目と5番目の写真を撮りました。 その後「パルコ デル チェロ」という瀟洒なレストランで一休みして、道志川沿いの道を青根まで下り、そこから藤野に出る道をとりました。6番目と7番目の写真がそのレストランです。 相模湖ICから中央高速道路に乗り、激しい驟雨に遭いながら帰宅しました。 明見から忍野村にいたる道は緑豊かや森の中を通ります。そして道志川沿いの道と、青根から藤野に出る道も雑木林に覆われた山道です。 それは森林浴をしているような気分になります。 今朝、掲載した、樹木はあなたに平和を感じさせ、心が豊かになる・・・幸せを与える という記事の内容の続きのような気分で一日を過ごしました。 同乗した家内と、家族連れで何度も行った山中湖への旅の思い出を話しました。 ありふれた風景写真ですが下にお送り申し上げます。
樹木のたたずまいが平和を感じさせます。 心が豊かになり、敵対する全ての国々の人を許せるようになります。 何故か、樹木はそういう心を人間へ送ってくれるのです。 上の写真は山梨、北杜市の森の中の小屋へ続く道です。1974年に建てた小屋は深い森の中にあります。鹿や猿や猪が沢山棲んでいる森です。 中央高速道路を緊張しながら走って来て、この樹林に囲まれた道に来たときの平和な感じは言葉では表せません。深い、深い幸福感で胸が熱くなります。それは何度来ても同じです。不思議です。 上の写真の道だけでなく、私はいろいろな場所の樹木を眺めているのが好きです。趣味です。意味もなく長い時間眺めています。 自宅の近辺の美しい雑木林のある場所は全て知っています。四季折々、それを眺めるために車で行きます。 そんな私の樹木好きを知っていたのか、沖縄に行った小学6年の男の孫が私の為にマングローブの写真を撮って来ました。本州には珍しい木だからブログの記事にしたらと言うのです。 下に2枚の写真を示します。 ところでマングローブにはとてもいろいろな種類があるのです。その説明板を下に示します。
このようなマングローブは鹿児島県の南方の島々が北限で、本土では見ることの出来ない珍しい木です。 珍しいと言えば沖縄にはガジュマルの木もあります。 下に2007年12月に名護市で撮った樹齢250年のヒンブンガジュマルの写真を示します。 車が頻繁に行き交う広い舗装道路の真中に立っていました。物見高い家内が車の間を走って行って撮りました。 名護市の中央にあり市民の守り神のような存在の巨樹です。
樹木を見ると人々が幸せになるのはそのようなためです。 それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 水木りょうさんは「趣味人倶楽部」というSNSでお付き合いしている方です。青森に住んでいて書家、間山陵行として活躍しています。お弟子さんも多数います。 その人間性に魅かれて、以前もお願いして、このブログに高橋竹山さんとの交流の連載記事を書いて頂いたこともあります。 このブログでは7月に御父上の書家、間山陵風師の生涯について8回の連載記事をお願いして執筆して頂きました。以下の通りです。 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第二章、屈辱の日々そして恩師との出逢い 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第三章、兄の出征といろいろな出逢い 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第四章、政治運動と書の勉強と恋 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第五章、終戦 兄たちシベリアから生還 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第六章、結婚そして独立 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第七章、家庭の苦難と書塾の発展 水木りょう著、「書家、間山陵風の生涯」、第八章(最終章)、『陵風』書と民謡の関わり この8回の連載記事はそれぞれ感銘深いものでした。 書家、間山陵風の生涯が見事に描き出してありました。 連載後、いろいろ考えていましたが、やはり間山陵風さんの息子さんの間山陵行さんの作品もご紹介したいと考えました。 そこで作品5点の写真をお借したいとお願い致しました。 さっそくご自分でお選びになった作品が送られて来ましたので下にご紹介いたします。それぞれ、味わいの違う力作です。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。 なお間山陵行さんのことは2012年5月12日掲載の、たかがブログ、しかし内容の深い話し合いも出来るのです という記事の中でご紹介してあります。ご参照頂ければ幸いです。
その嘘が信じられるようになった原因は日本がポツダム宣言によって中華民国、アメリカ、イギリス、そして後にソ連に対して敗北を認めたからです。 戦勝国が敗戦国の悪口を言うのは古今東西、普通のことで、日本が非難されるのは自然ななりゆきです。 戦勝国が戦場で日本軍から受けた屈辱を晴らすために、日本軍が残虐行為を繰り返したと主張するのです。 南京虐殺とか三光作戦による村落の完全消滅などという誇張された嘘があたかも真実のように定着してしまったのです。 日本が朝鮮を合併し、朝鮮語の使用を禁止し、姓名まで日本風に変えさせたのです。その屈辱は忘れられません。ですから従軍慰安婦を日本軍が強制的に狩り出したと主張するのです。 その上、アメリカ占領軍がその嘘を黙認する傾向があったのです。 アメリカ占領軍は手段を選ばず、日本の軍国主義を早急に根絶する政策を進めていたのです。日本の民主化の為には帝国軍隊の悪口を誇大に言いふらすのが有効だったのです。 民族の受けた屈辱や恨みを晴らすために、誇張された嘘を主張するのは悪いことです。しかし所詮、人間とはその程度のものではないでしょうか? しかし公平に考えれば、「残虐行為」を行ったのは日本の軍隊だけである筈がありません。 蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産党軍(当時は八路軍と言いましたが)も捕虜にした日本兵を拷問にかけ残虐に殺してしまったのです。それが戦争と言うものです。 しかも悪いことには日本側は日本兵が捕虜になったことを秘密にしたのです。 皇軍の兵隊は玉砕はしますが、絶対に捕虜にはなりませんと宣伝していたのです。 その結果、中華民国軍と八路軍は残虐行為をしなかったことになったのです。 アメリカ軍もサイパンや硫黄島、沖縄で火炎放射器で日本人を焼き殺したのです。とどめは広島や長崎への残酷きわまりない原爆投下までしました。 戦勝国のアメリカは戦争を早く終わらせるために原爆は必要だったと主張します。 沖縄に上陸しないで、いきなり東京湾から東京を占領し、皇居を占領すればもっと早く戦争を終わらせたかも知れません。勝てば官軍で、何とでも言えるものです。 そして「バターン死の行軍」でアメリカ側兵士が2万人死んだと主張するのです。私は長い間、アメリカの白人兵士が2万人死んだと思っていましたが、その大部分はアメリカ側に立ったフィリピンの兵士だったのです。 戦後の日本人は戦勝国の主張する誇張された日本兵の残虐行為を耳にタコが出来るほど聞かされたのです。日本共産党の影響下にあった日教組の先生は教室で日本兵の残虐性を生徒たちへ教え込んだのです。 その結果、戦争を知らない世代の若い日本人も「日本軍だけが残虐行為をした」と信じているのです。それは大きな間違いです。 公平に考えれば日本民族だけ特に残虐な筈がありません。どんな民族も残虐な性質を同じ位持っているものなのです。どんな民族の文化にも優劣が絶対に無いように、「残虐性の強弱」に差がないのです。 そのように考えると第二次世界大戦中の日本軍の残虐行為と同じくらいのことは敵方の中国人もアメリカ人もソ連人もイギリス人も行っていたに相違ありません。 それは、ドイツとソ連がお互いに凄まじい数の虐殺をした事実を見れば明白です。 ドイツは占領したソ連で1000万人を殺戮し、その後、反撃に転じたソ連軍はドイツ人の村落を皆殺しにしながらベルリンを制圧したのです。 このような客観的な立場で考えると将来、日本は中国や韓国とどのように付き合って行くのが賢明なのかが見えてきます。 賢明な方法は中国や韓国を感情的に刺激するようなことはしないことです。靖国神社のこれ見よがしな参拝は止めるのです。 しかし、中国人や韓国人が何を言っても無視することです。反論もいけません。静かに悲しそうに聞いてあげるだけです。人間の限界を見るのが悲しいという意味で悲しそうにするのです。賛成してはいけません。反論もいけません。 自分たちが日支事変をおこし、敗けることを知りながら真珠湾攻撃をしたのも原因なのです。 中国と韓国とは距離を置いて冷やかに付き合うのが賢明です。尊敬はするが信頼はしないという国際儀礼を守りながら付き合うのです。 そんな日本の外交姿勢を他の国々が見ています。今後の外交においては国際世論が大きな役割をするようになると私は信じています。 (すこし雄大な気分になるために「中国、黒龍省の画像」を検索して上と下にその悠々たる風景写真をお送りします。) それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 中国の艦船が尖閣諸島領海を悠々と巡航します。竹島へは韓国の政治家がこれ見よがしに上陸して見せます。北方四島も強欲なロシアが一向に返そうとしません。 日本の新聞は貴方をイライラするようにワザと扇動的に書きたてます。その度に日本人の心に不満がつのります。貴方は幸せではありません。 このように書くのは領土問題の記事に対する私の家にいる一人の日本人の反応を長らく観察した結果です。領土問題の記事が出ると、それを見た家内が必ず独り言を言うのです。「中国はなんていやらしいのでしょう」とか「竹島で、韓国人が品の悪いことを又していますよ」とか「北方四島はもともと日本のものだったのですね」とか小さな声で独り言を言います。 家内の心に波風が立っているのです。その様子を見るたびに「なるほど。こうして日本人は中国や韓国やロシアを憎むようになるのだ」と納得します。 それは昔、自分が科学者だったころの自然現象の観察方法とまったく同じです。少数のサンプルを客観的に注意深く観察し、それを多数の同じようなサンプルに起きている現象へ拡大適用するのです。そうしてその現象の因果関係を提案するのです。 こうして私は「領土問題は貴方を不幸にする」という一般的原理を提案します。原理ですから必ず例外があります。 しかし人の幸不幸は自分の心の持ち方です。心の持ち方で尖閣諸島や竹島で、中国人や韓国人がガタガタ言っても貴方の心は幸せな状態を保持出来るものです。 それには「相手にも言い分がある」と想像するのです。その言い分の間違いを考えないのです。考えたって300年間たっても解決しないのです。もっと雄大な気持ちで居ることが幸せになるために一番重要なのです。 ここで300年と書いたのは理由があるのです。 それは大西洋から地中海への入る口に英領のジブラルタルが存在していて、その領有権をめぐってスペインと英国が300年間争っているのです。 最近もイギリスがその沿岸に漁礁のブロックを多数沈めて、スペインの漁船を締め出したのです。それに対抗して。スペインはジブラルタルからスペインへ出入りする検問所の書類審査を遅らせ、6時間もかかるように措置したのです。 その上、ジブラルタル空港に離着陸する全ての飛行機がスペイン上空に侵入することを禁じたのです。 こういうのを泥試合と言います。あんなに賢明なイギリス人と芸術的に優れたスペイン人がまったく低次元の闘争を繰り広げているのです。 それに対抗して英国のキャメロン首相がEU代表に直接電話をして、EU加盟国同士の自由な通行の協定の実施を迫ったのです。EU代表は一応努力しますと答えました。しかし心の中ではあまりにもバカバカしいので失笑していたと私は想像しています。 領土問題に関心のある方々の為に下に関連の写真と資料を添付してあります。 それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====英領ジブラルタルの参考資料========= 1713年に英国領になった経緯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB 1713年にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結するものの、その条約でジブラルタルはイギリス領として認められ、スペインは奪回の機を失った。 アメリカ独立戦争中はスペインが独立軍の支援にまわり、1779年からジブラルタルへの厳重な封鎖を行った(ジブラルタル包囲戦)。イギリス軍は1782年に浮き砲台と包囲兵を撃破し、包囲網を破ることに成功した。翌年にはパリ条約に先立ち、講和が行われ、ジブラルタルは解放された。 1805年、トラファルガーの海戦ではイギリス海軍の拠点となった。その後、インドへのルートにスエズ運河の開通で地中海が加わり、蒸気機関を動力とする装甲巡洋艦などが海軍で普及すると給炭基地の役割も求められ、ジブラルタルが重要視されるようになった。第二次世界大戦中もジブラルタル海峡の封鎖を行っていたフランスがドイツに敗北し、親独政権であるヴィシー政権が設立されフランス海軍がその指揮下に入ると、イギリス海軍H部隊がジブラルタルに配備された。トーチ作戦ではアメリカ軍もジブラルタルを拠点にした。 第二次世界大戦後は、東西冷戦がはじまるもイギリス海軍が役割を縮小すると同時にジブラルタルの軍事的役割も低下している。1967年にイギリス地中海艦隊が解体され、これに代わるアメリカ海軍第6艦隊はイタリアのガエータを拠点にしている。しかし、1982年のフォークランド戦争で再び基地の重要性が確認され、現在もイギリス海軍のジブラルタル戦隊(Gibraltar Squadron)が駐留している。 ====ジブラルタルを巡る最近の英国とスペインの泥仕合の様子======= (ロンドン=上杉素直)8月15日発。 http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1304F_V10C13A8FF2000/ イベリア半島の南東端にある英領ジブラルタルの領有を巡り、英国とスペインの対立が深まっている。漁業問題への不満からスペインが国境検問を強化。これに抗議する英国がスペインに法的措置をとる構えを示した。欧州連合(EU)の主要国がEU司法裁判所で争う異例の事態に発展する可能性が出てきた。 「どのような法律的な選択肢があるか検討している」。英キャメロン首相の報道官は12日、スペインへの法的措置も辞さないと表明。スペインの国境検問強化は「政治的な動機に基づくものだ」と批判した。 英国が検討している法的措置の詳細は明らかにされていない。過度な検問の中止を求めてEU司法裁判所に提訴する可能性がある、と英メディアは報じている。 国境の検問を強化 いざこざが始まったきっかけは7月、ジブラルタルが海にコンクリートブロックを沈めて魚礁を造り始めたこと。スペインは自国の漁船への妨害だと反発し、国境検問を厳しくした。 スペインのガルシアマルガリョ外相は8月初め、スペインとジブラルタルの国境を通過するのに50ユーロ(約6500円)の通行料を徴収する対抗措置を検討中だと地元紙に明かした。ジブラルタルへ向かう航空機にはスペイン領空の利用を禁止する案も伝わる。英国側は12日、ジブラルタルに空母を出航して威嚇した。 以下は、http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1304F_V10C13A8FF2000/にあります。 その他の最近のイザコザの様子は、http://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=870b36e6959224e1&q=%E8%8B%B1%E9%A0%98%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%ABにあります。 ==================================== イスラム組織が支持する前の大統領だったモルシ氏の復権を要求するデモがエジプト全土に広がっています。 それに対して事実上のクーデターを起こし、モルシ大統領を解任した暫定政府は軍隊を使って、デモ隊の武力制圧を実施しています。 NHKニュースのネット版によるとイスラム組織のデモ隊の側に800人以上の死者が出たと報道しています。 デモ隊の死者800人以上というNHKネット・ニュースを以下に転載します。 =====エジプトでの死者は800人以上か===========
エジプトでは、事実上のクーデターで大統領職を解任されたモルシ氏の支持母体、ムスリム同胞団を中心とするデモ隊が治安部隊に強制的に排除されたあと、双方の衝突が全土に拡大し、16日には首都カイロ中心部のラムセス広場で、武装したデモの参加者の一部と治安部隊の間で激しい銃撃戦になりました。
エジプトで、軍による事実上のクーデターに抗議するデモ隊と治安部隊との衝突が各地で続き、これまでに800人以上が死亡するなか、国連は事態の鎮静化を呼びかけましたが、デモ隊側は18日も抗議行動を呼びかけており、治安部隊とのさらなる衝突も懸念されます。 ====以上のニュースの出典:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130818/k10013849321000.html==== エジプトは長い間イギリスの保護国のような国家で、見方によっては、イギリスの植民地的な国でした。イギリスから完全に独立したのは第二次世界大戦後です。 その外交政策は親米を基本にしてきましたが、日本に対しては日露戦争の時代から非常に好意的な親日国家なのです。 大東亜戦争で欧米の植民地を解放し、インドの独立をたすけたということからも日本を尊敬している国なのです。 私の友人で、もと日本鋼管の製鋼技師だったT君がエジプトに行って製鋼技術の指導をしていました。その彼から聞くとエジプト人には親日家が多くて、日本を尊敬している人が多いそうです。 そのような親日国で今回のような大規模な暴力事件が起きて、多くの日本人が心を痛めていると思います。 この暴動が速やかに収束することを祈りながら、エジプトの騒乱のニュースを注意深く見守りたいと思います。(続く) 一昨日、山の小屋に泊まりました。そこは本当に深い森の中にある一画で、15軒ほどの質素な別荘がかたまっている所です。 自分たちで清流園という管理組合を作って40年ほどになります。昨日その組合の恒例の総会と懇親会がありました。 一昨日の夕方に、急に涼しい風が吹き、散歩を誘っているようです。日暮蝉も鳴いています。小屋を出て、下のような淋しい道を歩いて行きました。
この道の右側に、午後にお邪魔した木内山荘があります。仙人のような独り暮らしの木内正夫さんが住んでいる大きな家です。 伐採で広くなった場所に出ると下の写真のように暮れゆく山並みが見えます。
山で一緒に酒を酌み交わしたりした人々を思い出しました。 この40年の間に亡くなったり、消えてしまった人々を懐かしく思い出します。 代々木の共産党本部で徳田球一さん、野坂参三さんなどの下で働いていたO平さん。一人で山荘に住んでいて、犬を連れて散歩していていました。よく私の小屋の庭に座って話し込んでいたものです。あの温顔が忘れられません。 勝沼のブドウ栽培農家のN村さん。バケツ一杯のブドウを持って来て、ブドウ酒の造り方を親切に教えてくれました。ブドウの皮に自然と発酵酵母菌がついていることには驚きました。銃での猟が趣味で深い、深い山に入ると不思議な世界があると怖そうに話していました。人柄の良い方でした。 私の小屋の隣にある別荘の主のN倉さん。気の良い社交家だったので何度も招待してくれました。ビールを飲み、他愛もない話を楽しんだものです。私より若いのにアットいう間に亡くなってしまいました。有能なサラリーマンでした。会社でも皆に愛されたに違いありません。 清流園管理組合の組合長を長くしてくれたKNさん。経理士事務所の社長だったので組合の経理を丁寧につけてくれました。名組合長でしたが数年前に亡くなってしまいました。 別荘地に独り住みついていた大工のN川さんは傑物でした。数軒の別荘を建て、井戸を掘り、何でもしてくれました。私の小屋の天井や床板を張りなおしてくれました。何度も彼の家に行って話を聞いたものです。今年の3月に急逝しました。亡くなる一週間前に私は話をしました。まだ亡くなった実感がしません。 別荘を作る前に去って行った人々も懐かしいものです。 煙の出るところを作らないで囲炉裏小屋を作ったS飽さんは面白い人でした。 囲炉裏小屋を作ったから遊びに来てくださいと招待されました。一緒にカンビールを飲んだのですが煙が小屋に充満していて煙いのです。二人で涙を流しながらビールを飲みました。 あまりにも煙かったのか、S飽さんは二度と山には現れませんでした。煙い囲炉裏小屋はすぐに朽ち果てました。現在は雑木が生い茂っています。 N出さん夫婦も実に面白い人でした。N出さんは若い建築家です。奥さんは油絵を描いていました。その奥さんが夜に犬を連れて雑木林の中を散歩しています。偶然出会った私が犬の護衛つきで安心ですねと言いました。いささか男っぽい奥さんが間髪を入れずに、「いえ、私が犬の護衛なのです」と言うので大笑いになったものです。この奥さんの絵画展に家内と一緒に行ったこともあります。N出さんは結局、別荘地を伊豆半島にしたといってその後会っていません。 それにしても、みんな、皆なが消えてしまったのです。こんなことを考えていたら日が暮れて、真っ暗になってしまいました。夜風が肌に寒く吹いています。 それはそれとして、 今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) |