おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

街を歩いていると

2007-12-14 14:24:29 | つぶやき
 先日、何をするでもなく、街を散歩していると、立ち並んだ家並みの一角が、空き地になっていました。賑やかな通りの片隅。新築の家やこぎれいなマンションの中に、ぽつんとささやかな空間が、取り残されています。
 ここ何年も、毎日のように、それも朝な夕なに歩きなれた道筋。でも、はて?この空き地の前には、何が建っていたっけ?家人に聞いてもはっきりとは思い出せないことも・・・。

 たしか○○さんの家じゃなかったかしら。
 その人はもう引っ越してその跡に、お店屋さんがあったはずだよ
 たしか八百屋さん、果物屋さん?
 そうそう、八百屋さんだったかもしれない。
 今度は何が建つのかな?
 そういえば、あの人も引っ越してどうしているかしら?
 辺りの変化は急です。昨日の友が今日は赤の他人。
 不思議と通りは変わらない。

 でも、町並みは大きく変わっていきます。
 職場の近くでも、周囲の通りを何本も巻き込んで、大規模なマンション建設が始まっています。道路も、街の姿も、大きく変わろうとしています。なにしろ、100㍍近くの高層マンションが建つのですから。
 そうなると、ここには、以前誰が住んでいたとか、こういう会社があったとか、駐車場があったとかは、遠い昔話になってしまうでしょう。写真やビデオにでも残されていない限り、人の記憶の中では、いつしか誰からにも思い出されず、語り継がれることもなく、まさに「歴史」すらにもならずに・・・。
 大規模な開発なら、そうした記録もあるでしょうが、この町の、ささやかな土地の、建物の、住民の変化は、いつしか忘れ去られていくのでしょう。
 もしかしたら、人間の生死もそんなものかもしれません。あそこのおばあさん、あっちのおじいさんも、いつしか忘却の彼方へ。親族といえども、100年も過ぎれば、まったく顧みられることもなくなるでしょう。いや、50回忌が行われればまあ、いいくらいなものか!
 このところ、周りの人間で、自分の一代記を書いて、自費出版する人がいます。それをいただくこともあります。縁故でもあれば、そうしてしばらくは残されていくでしょう、その人の生き様が。そうでもしなければ、いたたまれない気持ちが、「死」を恐れる心と裏腹に、起こってくるのでしょうか。
 吉本隆明が「死んだら、死にっきり」というようなことを言っていますが、それでも、生に、むしろ死後にまでも執着するのが、人間の本性なのでしょうか?
 空き地には、プレハブの建物があっという間に建って、どこかの中華そばのチェーン店が、近日オープン!スタッフ募集のビラが、店先に貼ってありました。

コメント
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