台東区は、墨田区、江東区と同様、東京大空襲でほぼ壊滅的被害を受けました。
そのため、多くの復興小学校、また公園も外形を残して焼失しました。戦後、再建されて位置の変わらない学校も多くありますが、校舎や公園も、かつての痕跡をとどめていません。そういう中で、現在も、建設当初の「学校+公園」という考え方は残っているのでしょうか。
ご多分にもれず、この地域も児童数の減少により、学校の統廃合がかなり進んでいます。統合、廃校、・・・、
学校名も変わっています。そういう状況の中で、果たして「復興小公園」は、どうなっているか?
①東盛公園
明治通りと日光街道の交叉する手前を斜め左に入ったところ。
西に接する小学校の校名は、「東泉」となりましたが、公園名は「東盛公園」。きちんとよく整備された広い公園。
樹木は周囲にあるだけ。かなり大きい広場。学校に接する一角が「球技スペース」。
この小学校、かなり歴史の古い学校です。(以下、学校のHPより。)
創立は、明治 21(1888). 5.10。(ということは、今年で、創立125周年)
東京府北豊島群竜泉寺村112番地に公立東盛小学校として開校。当時、この地域は北豊島郡といい学区域は、竜泉寺村、坂本村、日暮里村、金杉村、千束村の一部の五か村であった。
「東端の隆盛ト云フ意味ヨリ東盛ト命名ス」と記録にのこっているとおり、将来ますます盛んに発展するようにとの願いから名付けられた。
昭和21年竜泉国民学校と合併し、東盛の「東」と竜泉の「泉」の一字ずつをとり「東泉」とし、東の方の、ますますの隆盛を願った学校が、竜泉を得てとうとうと人材をわき出す学校になることを願って名付けられた。
この小学校には、なんとオーケストラがあります。(以下HPより。)
東泉オーケストラは昭和44年に創設されました。今年で44年目を迎える歴史あるオーケストラです。情操豊かな児童の育成を願って、その当時のPTA役員と東泉小学校の教師が力を合わせて、この音楽クラブを誕生させたと言われます。音楽に夢中になっている子ども達を見守る地域の温かい眼差しと、健やかな成長を願う家庭の保護者の熱い思いは今も変わりありません。
創設当初は鼓笛隊に金管楽器が加わった形でスタートし、「ブラスバンド」と呼ばれていましたが、楽器の編成も充実していき、10年後に弦楽器も加わって「オーケストラ」となりました。入団する子どもの人数も増えてきて活動も盛んになり、毎年行う校内の演奏発表は定期演奏会として位置づけられ、また、TBSコンクールに出場したりした時期もありました。学校創立110周年の節目の年、平成10年は東泉オーケストラ創立30周年にもあたり、第30回定期演奏会を浅草公会堂で盛大に行うまでになりました。
東泉オーケストラは東泉小学校の特色ある教育活動として位置づけられ、校内組織の中のオーケストラ推進委員会が企画、運営し、音楽専科が実際の音楽指導にあたっています。また団員児童の保護者は父母会を組織し、予算的な支援と演奏会の手伝いを行っています。
平成20年度には、学校創立120周年、「東泉オーケストラ」創立40周年にあたり、第40回定期演奏会を浅草公会堂で行いました。
平成21年度末には、東京ドームのプロ野球セ・リーグ開幕戦の開幕セレモニーに出演して演奏をしました。
「吹奏楽」はあちこちにありますが、小学生のオーケストラとは、びっくり。
校庭との境は、開閉が出来るフェンス。学校+公園という初期の目的は残されているようです。
ちょっと寄り道。
「一葉記念館」。
「樋口一葉旧居」碑。
この一帯、3月10日の東京大空襲によって壊滅し、菊池寛が文を寄せた記念碑も溶解。そこで、昭和34年3月、小島政二郎の文によって再建された。その碑。
佐佐木信綱揮毫の「一葉女史たけくらべ記念碑」。
一葉記念館そばの「一葉泉」が取り壊し作業中。
より。
昭和30年代の創業。入り口正面に向かって左側に陸中海岸を描いたペンキ画が目印。脱衣所と浴室内は昔ながらの造作と高い天井と、浴槽の上に描かれた富士山のペンキ画がより一層癒し感を増幅させてくれます。湯上りはロビーでくつろいでみませんか?
陸中海岸のペンキ絵も壊される寸前。(写真は、「HP」より。)
「一葉泉」と描かれた煙突。
跡地はマンションになるとか。
②玉姫公園
道路を挟んで西側に隣接していた学校が「蓬莱中学校」。
「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/houraijr.html」より。
江戸三名園のひとつ蓬莱園に生まれ、忍岡高校に同居、台東商業高校を経て歴史を刻んできた蓬莱中学校は、平成14年4月に、今戸中学と統合して桜橋中学になった。
☆明治38年4月 前身の正徳小学校が玉姫町に、東京市直営の特殊学校「玉姫」として開校
☆大正15年 玉姫が東京市から浅草区へ移管され、同時に普通学級となり、正徳小学校と改称する
☆昭和16年 国民学校制とともに正徳国民学校と改称
☆昭和20年3月 東京大空襲で全焼する。戦後は廃校となり、校舎には被災者が住むようになる
☆昭和22年4月 都立忍岡高校内で新制蓬莱中学校が開校する。忍岡高校敷地が江戸三名園(後楽園、六義園、蓬莱園)のひとつである旧蓬莱園の跡地であることから、蓬莱中学校と名付けられた。校章の銀杏は、蓬莱園にあった公孫樹(大銀杏)に由来する。開校当時の生徒数は、男女合わせて87名。
☆昭和23年4月 新1年生108名が入学し、1年生は分校の柳北小学校に、2年生は忍岡高校に分かれて授業をした。
☆昭和25年4月 本校を山谷堀校舎(現在の都立台東商業高校)に移し、分校を都立忍岡高校内に置く。
☆昭和27年4月 本校を旧正徳小学校跡に移転、分校を台東商業高校内に置く。9月には全校生徒が1つの校舎(現校舎)で授業を受けるようになった。11月、創立5周年記念式典が挙行され、この時校歌制定が発表される。
・・・
「正徳小学校」跡地→「蓬莱中学校」→「桜橋中学校」。
ここも東京大空襲で壊滅した地域。戦後、小学校は、廃校になってしまった。「玉姫」のいわれは、公園の南に「玉姫神社」があることによる。
大きな運動場があるが、厳重な囲い。北側の公園の一角では、将棋などを楽しんでいる人たち。
「蓬莱中」跡地には、「老人ホーム 浅草ほうらい」。
ここは、かつての「山谷」地区。「清川」となって「山谷」という地名・名称はなくなった。
山谷(さんや)は東京都台東区・荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街)の通称(旧地名)。
元々は日光街道の江戸方面の最初の宿場で、明治初期から政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され、吉原遊郭の客を送迎する車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していた。
戦後、東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築の簡易宿泊施設へと変わっていった。まもなく高度経済成長期が到来すると労働需要の高まりに対応し、日本有数の寄せ場として発展した。1961年には簡易旅館約300軒が建ち並び、労働者約2万人が集まる居住地となった。
1960年代以降、この地域に新設された山谷地区交番(通称「マンモス交番」、移転した後現在は「日本堤交番」に改名)の警察官との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が複数回発生した。
1969年、フォーク歌手・岡林信康が日雇労働者の悲哀を歌った『山谷ブルース』を発表した。
1984年と1986年には、この地区で暗躍する暴力団(金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま) - やられたらやりかえせ』を製作した監督2名が暴力団(日本国粋会)の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。
2002年のFIFAワールドカップ日韓大会の頃から、外国人旅行者が山谷地区の宿泊施設を利用するケースが見られるようになった。その後も料金が安いことや(諸外国の安宿街に比べて)治安が良いこと、最寄り駅である地下鉄南千住駅からは日比谷線一本で「上野」「秋葉原」「銀座」「六本木」などの観光スポットに行けることから更に外国人利用者が増加し、それに伴い施設側の外国人への対応も進んだことから、「外国人向けの安宿のある町」として定着し、往年のイメージから変貌している。
英語表記の案内を施設内に充実させるなど簡易宿泊施設のオーナーらには外国人利用者の利用を促進したいという動きがみられる他、真新しい新築の簡易宿泊施設も次々と登場している。さらに近年では休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも見られるようになっている。
(以上、「Wikipedia」参照。)
TV番組の「出没!アド街ック天国」でも、2011年に取り上げられた。