おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

山伏公園。金竜公園。千束公園。(震災復興52小公園。その9。)

2013-10-23 19:45:44 | 震災復興小公園

⑤山伏公園


公園脇にある町会事務所「山伏会館」。

山伏町
 享保九年、牛込山伏町(現新宿区)から出火し付近一帯が焼失し、本多邸が公収された。その代地として町屋が造られた。幕末には黒鍬組屋敷、燈明寺門前、その他武家屋敷が建ちかなり開けていた。明治2年下谷山伏町、同44年山伏町となった。昭和40年の改正で大部分が北上野2丁目となり、一部東南隅の地が同1丁目になった。

1880年(明治中期)代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)武家屋敷の雰囲気が残っている。

 現在、北側の区立駒形中学校の敷地と隣接し、公園の一部は、駒形中のグランドになり、当初の時よりも小さくなってしまいました。

 学校と公園とは数奇な歴史があるようです。(「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/komagatajr.html」より引用。)‎

【万年小学校と駒形中学】
 駒形中学校の用地と歴史は、明治33年大正天皇(当時皇太子)のご成婚記念として下賜された教育賜金により、時の東京市長、松田秀雄の計画で市内の細民教育機関として同35年12月、当時の万年町2丁目に万年尋常小学校として設立されたことに始まる。
 当時の小学校は区立だったが、万年尋常小学校のみは東京市直轄であった。皇室より慰問、お手許金の下賜などを受けて恵まれない境遇にある子弟の教育に貢献してきた学校である。
 校長は創立の為、寝食を忘れて尽力し開校にまでこぎつけ、21年間校長として心血を注いで教育に当たり、町の信頼は勿論、教師の鑑とされた坂本竜之輔である。
 万年町2丁目(現北上野1丁目)にあった万年小学校は関東大震災で焼失し、旧校舎跡地にバラック校舎を建て授業を再開したが、、大正15年東京都から下谷区に移管され、上野尋常小学校と改称し、特殊教育学校としての存在に終止符がうたれた。校名改称に際して、上申書にはつぎのように書かれている
大正十五年五月五日    東京市長 中村是公 印
東京府知事 平塚 廣義殿
校名変更ノ件申請
本年四月一日区に移管セシ本市万年尋常小学校々名を左記の通変更致度候條御認可相成度及申請候也

一、東京市上野尋常小学校
変更理由
本市万年小学校は細民学校トシテ一般社会ヨリ擯斥セラルル傾向アリ為ニ教育上支障不尠モノアルヲ以テ移管ト共ニ普通小学校タルノ実を示スベキ名称ヲ附スル必要アルヲ以テナリ
 昭和3年に、震災前まであった山伏小学校跡地に上野尋常小学校として移転、鉄筋コンクリートの新校舎が落成したが、昭和20年3月の東京大空襲で廃墟と化し、上野尋常小学校も消滅した。

・・・山伏公園脇に、特殊教育の先駆者で、万年小学校校長坂本竜之輔像がある。

 駒形中学校のHPには次のような沿革が載せられています。

昭和 22. 4. 1 台東区立駒形中学校、松葉小学校内に開校
   31. 4. 1 台東区立金竜小学校内に第2分校設置
31. 9. 1 台東区山伏町46番地(現在地)に校舎移転
32.11. 6 校歌制定(独立校舎完成記念)

公園から望む駒形中学校。公園と校庭とはしっかりと仕切られています。この中学校は運動系が盛んのようで、大きなグランドを所有しています。
1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)まだ、校舎が北に移転する前。「山伏公園」もかつてのように広い。
ボールが飛び出さないように高くて厳重なネット。
手狭な公園内。
公衆トイレ。
そして、しっかり藤棚が。

⑥金竜公園


 1986(昭和61)年、100mほど北の現在地に移転。その跡地には、 2001(平成13)年、「台東区生涯学習センター(「区立中央図書館」)」が建設されました。

1970年代のようす。(「同」より)
 金竜小学校が北に移り、跡地に「台東区生涯学習センター」が建設される以前のようす。
「図書館」の南側に公園が広がる。運動広場がメインのため、遊具類も少ない。「図書館」との有機的なつながり、たとえば、テラスを設けるとか、緑を増やし、視界を豊かにするとかの工夫があってもよかったのではないか。
遊具類。
この円形の藤棚はヒット作。

 自然環境は、「言問通り」をはさんで北側、大きな敷地をもつ「金竜小学校」の方が充実しているようです。

(「金竜小」HPより)
 豊かな自然環境の中で学んできた金竜小学校に、地域の人たちが子どもたちの教育環境をさらによりよくしたいという願いから、平成14年11月にビオトープ『金竜の里』ができあがりました。これは、ビオトープができたことで自然とふれあう環境は充実させることができました。 ビオトープの開園式で児童会で私たちは自然を保護できる人になります。私たちは自然を復元できる人になります。私たちは自然と共生できる人になります。表しました。私たちは、この恵まれた環境を生かして自然・環境についてさらに学習していきます。


 また、「金竜小学校」の長い歴史の中で、「関東大震災」と「東京大空襲」は特記すべき事項でした。

(「金竜小」HPより)
 大正12年9月1日午前11時58分、関東地方は大地震に襲われました。地震の大きさは震度六というはげしいもので、人々は立っていられないほどのゆれを感じたのです。ちょうど昼ご飯の支度で、火を使う時刻でした。家が傾いたり、こわれたりすると同時に、あちらこちらで火事が発生し、みるみるうちに火は広がりました。関東大震災で起きた火事は、3日間も燃え続けました。
 そのために、たくさんの家が焼け、多くの人が焼け死んだ のです。ひ害は大きく、当時の浅草の町は、96パーセントが焼け野原になりました。そして、3千人近い人々が命を落とし、たくさんの人々が、ゆくえ知れずになったりしてしまいました。 金竜小学校は悲しいことに、木造校舎の西側から火がついて焼け落ちてしまいました。
このような猛火の中において、浅草寺と伝法院は、奇跡的に焼けおちずに助かったのだそうです。
 昭和3年鉄筋コンクリート造り、3階建ての校舎が完成しました。バラック校舎や仮校舎での不自由な勉強が、約6年間続いていたのですから、この校舎の完成を、子どもたちはどんなに待ち望んでいたことでしょう。 当時としては台東区で一番の、東京でもめずらしい立派な校舎でした。その校舎で学べることを、子どもたちはほこりをもって通学したそうです。教室は明るく、冬はスチーム暖房の設備も整っていました。子どもたちはお弁当を乗せて、暖めて食べるのを楽しみにしていたそうです。
 そのころ、子どもによい童話を聞かせたいという先生方の願いから、『金龍童話会』が誕生しました。この童話会は昭和18年には130回ほどにもなっていました。先生方の努力で学童疎開の前ぐらいまで続けられました。 また、同じころ、子どもたちの剣道部がつくられ、猛練習を重ねた結果、昭和の初めから、戦争が激しくなる昭和17年ころまで全国に『金龍剣道部』の名声をとどろかせることができました。 このころの金竜小学校は、一つの組には5、60人くらいの子どもがいました。中には70人近くいた組もありました。また、給食はなく、お弁当を学校に持ってきていました。世界恐慌のまっただ中で、そのお弁当のおかずは粗末なものでした。
 太平洋戦争は終わりましたが、浅草地区は焼け野原となり、9343名もの尊い命が失われ、家を失い、家族と死に別れた人もたくさんいました。金龍国民学校は、多くの人たちの必死の消火活動により、焼失をまぬがれ、11月12日には53名の児童が集まり、学校が再開されました。22年3月14日、宮城県に集団疎開していた児童も全員無事に帰ってきました。21年4月123名、10月には242名と増え続け、教室、机、椅子が足りなくなり、二部式授業になりました。
 21年11月、日本国憲法が公布されました。戦後の教育は憲法の民主主義の精神を取り入れ、戦前の神話や伝説による国の成り立ちや戦争に関わる文章がなくなり、考古学や庶民の歴史なども多く取り入れた教科書になりました。学校も金龍国民学校から金竜小学校と改められました。
・・・

⑦千束公園


千束小学校との境はあるが、開放的な印象。
我が子の姿を見ているのだろうか、親たちがフェンス越しに校庭を眺めていた。

 千束小学校の児童数は、現在、200名ほど。1学年1学級ということになる? 小規模校故の良さも悩みもありそう。
 台東区(のみならず)、都内(一部の地域を除き)では、児童数の減少により公立小学校・中学校の統廃合がどんどん進められている。浅草の繁華街にほど近いこの小学校。今後はどうなるのか? 気になるところです。
広い運動広場。放課後や休日は大勢の子ども達で賑やかに(なってほしい)。今は、鳩たちが。
コメント
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