③石浜公園
墨田区でも台東区でも、公園の広場が、朝のラジオ体操の場所になっているところがほとんど。
さらに、台東区内では地元の方の長寿を寿ぐ記念樹が必ずあること。とてもいいことですね。
隣接する「石浜小学校」とは植え込みがあって、ほぼ独立した公園となっています。
ここに校庭との出入口がありました。公園を利用することもあるようです。
「石浜小学校」
明治40年創立。校舎は長らく震災復興校舎(昭和2年竣工)を使用していたが、昭和50年に新校舎に建て直され、現在に至る(平成元年~3年にかけて改修あり)。当時大理石を多用した造りは極めて珍しく、入り口のロビーや階段はまるで銀座のデパートのようであった。・・・
明治40年6月15日 - 創立(浅草・富士・千束・待乳山の各小より4学年男女で492名)
大正12年 - 関東大震災により、校舎全焼。犠牲者教師2名、児童28名。
昭和2年 - 鉄筋校舎が完成する。
昭和16年 - 東京市石浜国民学校と改称する。
昭和18年 - 東京都石浜国民学校と改称する。石浜少年団を結成する。
昭和19年 - 宮城県に学童疎開する。
昭和20年3月9〜10日 - 空襲により校舎全焼する。・・・
(以上、「Wikipedia」より。)
ここにある「昭和2年鉄筋校舎」が「復興小学校」としての校舎でした。戦災後も使用していたが、その後取り壊され、新校舎になっています。
当時の校舎。(「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/isihamael.html」より引用。)生徒数も大勢いたことが分かります。その後、戦争の激化とともに学童疎開、さらには東京大空襲で全焼と辛酸をなめてきました。
中央に運動広場。東側に遊具施設。
藤棚。
スカイツリーを望む。
この公園だけでなく、「復興公園」には、きれいな公衆トイレが必ず設けられている。「藤棚」とともに建設当時のコンセプトは継承されているようです。
④富士公園
1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)中央が「富士小学校」と西側にある「富士公園」。
公園の北側に浅草警察署の大きな建物があって、公園が手狭な印象。
東側に「富士小学校」。公園の一角には民家もあって、ますます狭くなっています。
道路を挟んだ東に「富士小学校」。正面が道路側にあり、公園とは独立した存在となっています。
「Wikipedia」によると、
1923年、新校舎を9月1日に落成する。東洋一の校舎と評される素晴らしい校舎だった。しかし始業式を午前中行ったのちに大地震(関東大震災)が発生。半日通っただけで灰と化してしまう。
とあります。
その時の校舎?(「富士小」HPより。)
砂場を覆うように「藤棚」。
富士山を模した公衆トイレに入ってきました。
ついでに、「猿若町」。
「江戸猿若町市村座跡」。
「猿若座由来記」。
天保期、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原座(のち守田座となる)があって、わが國始めての芝居町を形成していた。これがいわゆる猿若三座である。猿若は江戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ町名で・・・
明治中期の猿若町。(「今昔マップ」より。)
現在は、「浅草六丁目」の一角。(「同」より。)