「追分」を過ぎると、左には青々ととした田圃が広がります。田植えを終えたばかりで、眼にもあざやかな緑が水面に。
(10:30)右手の奥まったところには「吉羽屋酒店」。古風な佇まい。
かつてよく見かけた集落内の万屋さん的雰囲気。
東武線の特急電車。 普通電車。
この先でY字路になります。
この先あたりからは旧道が失われているようで、「国道4号線」につながっていくような雰囲気ですが、ものの本ではここは左に曲がって「雷電社」の裏手を進むようになっているのもあります。
ただ、1880年頃の地図ではすでに「国道4号線」に吸収され、カーブする道の存在はありません。かつての日光街道は消滅し、維新後(明治13年頃まで)に道路の付け替えで、今の国道に変更済みとも考えられます。旧道はもともと堤の上の道だったようで、その後、高く拡幅・整備され、現在の国道になったようです。したがって、このあたりの国道は周囲より一段と高くなって続いています。
左の道を進んだら、ぶつかった十字路で右に折れ、国道脇・下の側道を進むのが適当かな、と。もちろん、その道は旧道ではありませんが。実際に歩いてみてそんなふうに感じました。
そのまま行くと、だんだん田んぼの中の道になってしまい、次の「小右衛門一里塚」の裏手に出てしまう恐れがあります。この先も不明なところが出てきそうです。
振り返って望む。左奥に「雷電社」。
国道下の側道を進むと、「国道4号線」に向かう道路のトンネルが出てきますが、そこを抜けて行きます。
(10:50)しばらくすると、「弁財天堂」が左手に現れます。ここが「小右衛門一里塚」。江戸・日本橋から13里目。
久喜市指定文化財(史跡) 一里塚
慶長9年(1604)江戸幕府は、大久保長安に命じて東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。
江戸の日本橋を基点として、1里(約4キロ)毎に塚(土盛り)を築き、その上に榎などの木を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。 道中奉行所が作成した「五街道分間延絵図」のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」にも、この一里塚が描かれている。
この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
現在、塚の上には昭和初期に付近から移築されたという弁財天堂が建てられている。
塚の高さは西側から約2㍍、東側(進路側)は約0.6㍍で、塚の形体と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。
平成25年3月21日 久喜市教育委員会
向こうに見えるお寺は、「真光寺」。
来た道を振り返って望む。国道は左上に。
その先で、「工業団地入口」交差点の下をくぐるトンネルがあります。本来はそのまま進むのが正しいのでしょうが、「権現堂調整池(行幸湖)」を見ることができないままになってしまうので、右にある国道下のトンネルをくぐり、左の階段を上って交差点を横断します。
来た道を振り返る。右奥の下から来てトンネルをくぐり、正面の横断歩道を渡る。
(10:59)「権現堂調整池」の土手に出ます。
向かい側は「キューピーマヨネーズ五霞工場」。
上流を望む。
ほとんど流れがなく、穏やか。時折、ジョギングの人たちが通り過ぎるのみ。
対岸は工場が立ち並んでいます。しばし休憩。
(11:14)土手を上がって国道に復帰。「東京まで53㎞」ポスト。
「ROUND1STADIUM」の前を通過し、
東北新幹線のガードをくぐります。
その先すぐ左手にある「国道4号線」をくぐるトンネルを抜けると、国道の西側に出ます。旧道(らしき道)に復帰です。立派な冠木門のあるおうちがあります。
側道から国道に合流し、しばらく進むと、左手に「ライブシアター栗橋」が見えてきます。そこを左に折れて行きます。
(11:29)知る人ぞ知るところ。「栗橋大一劇場」と大書されたストリップ劇場。踊り子の写真が掲示されていて、この時間なのに上演中です。カメラマンがしきりに周囲を撮影。って私ではありません、念のため。
国道の向かい側は「ボートピア栗橋」の建物、その向こうは新幹線の高架。「ボートピア」は、言わずと知れた「競艇場外発売所」。
名残惜しそうに振り返って望む。
しばらくは人通りも少ない静かな道を進みます。
1880年代のようす。 現在のようす。
旧道は図のように「権現堂川」沿いの小高い土手道になっています。現在の国道4号線は分岐点からまっすぐ北へ延びています。この付近一帯は、治水工事のため河川や道路は大きく変化しています。左にカーブしている道が旧道。
(10:30)右手の奥まったところには「吉羽屋酒店」。古風な佇まい。
かつてよく見かけた集落内の万屋さん的雰囲気。
東武線の特急電車。 普通電車。
この先でY字路になります。
この先あたりからは旧道が失われているようで、「国道4号線」につながっていくような雰囲気ですが、ものの本ではここは左に曲がって「雷電社」の裏手を進むようになっているのもあります。
ただ、1880年頃の地図ではすでに「国道4号線」に吸収され、カーブする道の存在はありません。かつての日光街道は消滅し、維新後(明治13年頃まで)に道路の付け替えで、今の国道に変更済みとも考えられます。旧道はもともと堤の上の道だったようで、その後、高く拡幅・整備され、現在の国道になったようです。したがって、このあたりの国道は周囲より一段と高くなって続いています。
左の道を進んだら、ぶつかった十字路で右に折れ、国道脇・下の側道を進むのが適当かな、と。もちろん、その道は旧道ではありませんが。実際に歩いてみてそんなふうに感じました。
そのまま行くと、だんだん田んぼの中の道になってしまい、次の「小右衛門一里塚」の裏手に出てしまう恐れがあります。この先も不明なところが出てきそうです。
振り返って望む。左奥に「雷電社」。
国道下の側道を進むと、「国道4号線」に向かう道路のトンネルが出てきますが、そこを抜けて行きます。
(10:50)しばらくすると、「弁財天堂」が左手に現れます。ここが「小右衛門一里塚」。江戸・日本橋から13里目。
久喜市指定文化財(史跡) 一里塚
慶長9年(1604)江戸幕府は、大久保長安に命じて東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。
江戸の日本橋を基点として、1里(約4キロ)毎に塚(土盛り)を築き、その上に榎などの木を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。 道中奉行所が作成した「五街道分間延絵図」のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」にも、この一里塚が描かれている。
この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
現在、塚の上には昭和初期に付近から移築されたという弁財天堂が建てられている。
塚の高さは西側から約2㍍、東側(進路側)は約0.6㍍で、塚の形体と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。
平成25年3月21日 久喜市教育委員会
向こうに見えるお寺は、「真光寺」。
来た道を振り返って望む。国道は左上に。
その先で、「工業団地入口」交差点の下をくぐるトンネルがあります。本来はそのまま進むのが正しいのでしょうが、「権現堂調整池(行幸湖)」を見ることができないままになってしまうので、右にある国道下のトンネルをくぐり、左の階段を上って交差点を横断します。
来た道を振り返る。右奥の下から来てトンネルをくぐり、正面の横断歩道を渡る。
(10:59)「権現堂調整池」の土手に出ます。
向かい側は「キューピーマヨネーズ五霞工場」。
上流を望む。
ほとんど流れがなく、穏やか。時折、ジョギングの人たちが通り過ぎるのみ。
対岸は工場が立ち並んでいます。しばし休憩。
(11:14)土手を上がって国道に復帰。「東京まで53㎞」ポスト。
「ROUND1STADIUM」の前を通過し、
東北新幹線のガードをくぐります。
その先すぐ左手にある「国道4号線」をくぐるトンネルを抜けると、国道の西側に出ます。旧道(らしき道)に復帰です。立派な冠木門のあるおうちがあります。
側道から国道に合流し、しばらく進むと、左手に「ライブシアター栗橋」が見えてきます。そこを左に折れて行きます。
(11:29)知る人ぞ知るところ。「栗橋大一劇場」と大書されたストリップ劇場。踊り子の写真が掲示されていて、この時間なのに上演中です。カメラマンがしきりに周囲を撮影。って私ではありません、念のため。
国道の向かい側は「ボートピア栗橋」の建物、その向こうは新幹線の高架。「ボートピア」は、言わずと知れた「競艇場外発売所」。
名残惜しそうに振り返って望む。
しばらくは人通りも少ない静かな道を進みます。
1880年代のようす。 現在のようす。
旧道は図のように「権現堂川」沿いの小高い土手道になっています。現在の国道4号線は分岐点からまっすぐ北へ延びています。この付近一帯は、治水工事のため河川や道路は大きく変化しています。左にカーブしている道が旧道。