いよいよ「利根川橋」を渡ります。大きな川は「利根川」と「荒川(明治から大正にかけて開削された人工河川)」、「隅田川」くらい。「東海道」のように、「大井川」「天竜川」「安倍川」「富士川」などのような大河はありません。それでも、さすが「利根川」=「坂東太郎」です。延々と東に向かい、銚子で太平洋に注ぎます。
「東海道」でもそうでしたが、旧街道で大河に架けられた「橋」の名は、その川の名を付けたものが多いようです。旧道としての歴史的重さを大事にしたものでしょうか。
利根川橋
埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)
橋の真ん中付近で「茨城県古河市」に入ります。橋の長さは670㍍ほど、渡り終えるのに10分近くかかります。
上流にはJR線の鉄橋。
対岸にあった「中田宿」は「利根川橋」の両側、現在は河川敷に広がっていました。
利根川橋を渡ったら、すぐ左に折れて土手を下っていきます。道が右にカーブするところに「房川(ぼうせん)渡と中田関所」跡の解説版があります。薄れていて判読不能の所も。先達の記録をお借りしました。
房川(ぼうせん)渡と中田関所跡
江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。
平成元年3月 古河市教育委員会
(12:33)その先を進むと左手の火の見櫓の下に解説版。下には郵便受けのようなものが。
中田宿
江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。
平成19年1月 古河市教育委員会
1880年代のようす。
現在のようす。「中田宿」は「利根川橋」付近の河川敷になっています。
現在の街並みは一直線の道路に沿って続いています。
(12:39)しばらく進むと、左側には寺社が並んでいます。
鶴峯八幡神社。
1880年代の地図で、「八幡祠」と記された神社。中田の守護神であった。大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって現在地に移された。
小学校では運動会。都内の学校に比べて児童も多いようです。観客も大勢。屋台まで出ています。
(12:55)JR線の踏切を越えて行きます。
幅広い直線道路の両側には、まだまだ若い松並木が続きます。この付近は「茶屋新田」。50年後、100年後には立派な松並木に。
近所の方が出てきたので話を聞くと、市長が先頭になってこの付近にJRの駅を誘致する運動があった、そのためにこの通りを4車線の広い道にすると計画になった、だが、採算が合わなくて駅の話がつぶれたので、両側に松を植えたのだとか。結局、これが松並木の復活になった、と。たしかにゆとりのある歩道になっています。
右手に例の郵便受けと解説板が。
中田の松原
いま中田町となっている通りは、江戸時代は、「中田の松原」と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの約1里(約4キロ)余の呼び名であった。
この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越て、藤井松平氏が建てた板間の碑、鴻巣の桃そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
幅5間(約9㍍)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(16303)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、「左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平で、きれいなところはない」と、ある記録に残されているおもかげは、かつての茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。
平成元年3月 古河市教育委員会
先ほどの住民の方の話通りかどうか定かではありませんが、結果的には松並木の復活はすばらしい計画になった、と思います。
(13:06)神社の社務所前の立て札。
「日光道中茶屋新田 日本橋17里→ ←日光20里 茶屋松原」
ということは、もうじき(ここからあと1時間半くらい歩けば)、ちょうど半分の行程になるわけです。何だか勇気づけられました。(注:現実はそう甘くはありません。実際の17里目の一里塚はまだまだ先になり、「古河宿」を越え、その次の「野木宿」に入った辺りです。「日光道中」の真ん中はもっともっと先のところ。)
「東海道」でもそうでしたが、旧街道で大河に架けられた「橋」の名は、その川の名を付けたものが多いようです。旧道としての歴史的重さを大事にしたものでしょうか。
利根川橋
埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)
橋の真ん中付近で「茨城県古河市」に入ります。橋の長さは670㍍ほど、渡り終えるのに10分近くかかります。
上流にはJR線の鉄橋。
対岸にあった「中田宿」は「利根川橋」の両側、現在は河川敷に広がっていました。
利根川橋を渡ったら、すぐ左に折れて土手を下っていきます。道が右にカーブするところに「房川(ぼうせん)渡と中田関所」跡の解説版があります。薄れていて判読不能の所も。先達の記録をお借りしました。
房川(ぼうせん)渡と中田関所跡
江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(理由は諸説あって不明)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には、『栗橋の関所』の名で知られていた。
四人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止令でなくされたが、二艘の渡し船と五艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。
平成元年3月 古河市教育委員会
(12:33)その先を進むと左手の火の見櫓の下に解説版。下には郵便受けのようなものが。
中田宿
江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。
平成19年1月 古河市教育委員会
1880年代のようす。
現在のようす。「中田宿」は「利根川橋」付近の河川敷になっています。
現在の街並みは一直線の道路に沿って続いています。
(12:39)しばらく進むと、左側には寺社が並んでいます。
鶴峯八幡神社。
1880年代の地図で、「八幡祠」と記された神社。中田の守護神であった。大正元年(1912)利根川の改修工事による中田の町並みの移転にともなって現在地に移された。
小学校では運動会。都内の学校に比べて児童も多いようです。観客も大勢。屋台まで出ています。
(12:55)JR線の踏切を越えて行きます。
幅広い直線道路の両側には、まだまだ若い松並木が続きます。この付近は「茶屋新田」。50年後、100年後には立派な松並木に。
近所の方が出てきたので話を聞くと、市長が先頭になってこの付近にJRの駅を誘致する運動があった、そのためにこの通りを4車線の広い道にすると計画になった、だが、採算が合わなくて駅の話がつぶれたので、両側に松を植えたのだとか。結局、これが松並木の復活になった、と。たしかにゆとりのある歩道になっています。
右手に例の郵便受けと解説板が。
中田の松原
いま中田町となっている通りは、江戸時代は、「中田の松原」と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの約1里(約4キロ)余の呼び名であった。
この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越て、藤井松平氏が建てた板間の碑、鴻巣の桃そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
幅5間(約9㍍)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(16303)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、「左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平で、きれいなところはない」と、ある記録に残されているおもかげは、かつての茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。
平成元年3月 古河市教育委員会
先ほどの住民の方の話通りかどうか定かではありませんが、結果的には松並木の復活はすばらしい計画になった、と思います。
(13:06)神社の社務所前の立て札。
「日光道中茶屋新田 日本橋17里→ ←日光20里 茶屋松原」
ということは、もうじき(ここからあと1時間半くらい歩けば)、ちょうど半分の行程になるわけです。何だか勇気づけられました。(注:現実はそう甘くはありません。実際の17里目の一里塚はまだまだ先になり、「古河宿」を越え、その次の「野木宿」に入った辺りです。「日光道中」の真ん中はもっともっと先のところ。)