日光道中 野木宿周辺の松並木
日光道中今市宿を合流点に、日光道中、例幣使道、会津南山通り(西街道)の両側には杉並木が植えられている。この杉並木は、武蔵国川越城主の松平正綱が、寛永2~3年(1625~6)から約20年の歳月をかけて植えつけ、杉並木を寄進したものである。
日光道中野木宿周辺では、杉並木ではなく、松並木が続いていた(「増補行程記」盛岡市中央公民館蔵)。この松並木は、元和8年(1622)古河藩主永井右近大夫直勝が、中田より小山までの街道に、松を植えたといわれている(「下総国古河城主代々記」田沼忠昭家文書)。またその子尚政が寛永期に植えたともいわれる(「小山市立博物館紀要3号」)。元和河寛永期(1615~43)までには松並木ができていたということになる。
弘化2年(1845)、山形藩主秋元志朗は上野国館林へ国替えとなり、家臣山田喜太夫は妻音(とわ50歳)とともに移動することになった。音羽は、間々田より友沼に向かう付近で、松並木をとおる一校の絵と歌を残している(「道中記」)
「暑さがしのぎにくいほどで、松並に風音涼しく吹いて聞こえてくる。『松風を琴のしらべに聞きなして 心なぐさむ旅の道野邊』。進んで野木では、「此辺は皆松並木で、景色がない、…それに松なみの間 皆小石を敷いてあるので、足が痛んだが、…歩を進め、八ッ半頃であろうか 古河の宿へ着いた」とあり、ずっと松並木が続いていたことがわかる。
野木町教育委員会
ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。
来た道を振り返って望む。
大きな建物もなく、周囲は明るく開けていきます。
(9:37)「東京から64㎞」ポスト。
(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。
向かいには「馬頭観音」石碑。
その先を望む。
沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
野木町教育委員会
(9:46)交差点には、「←のぎ水辺の楽校 入口」の表示が。
左に曲がって行った先は緑豊かなようす。
その交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。
沿道には廃屋。
「浄明寺」入口付近に設置された「水準点」。
水準点
水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。
日本水準原点の次に重要な水準点を「基準水準点」といい、全国に88ヶ所設置されたがそのうちの2箇所は樺太に設置されたものであり現在は樺太の領有権を放棄しているため2007年3月現在の日本の基準水準点の数は86ヶ所である。一等水準点網から少し離れた地盤が強固な山や丘陵地に設置されることが多く設置場所も道路から少し離れた林や公園の中などに設置され、道路の拡張工事などで移転が必要になる事態を防いでいる。柱石だけでなくすぐ横の地中にも石とクロム金属製の標識があり、3つの標識を設置することにより万一の破損に備えている。さらに柱石と地中標の蓋は柵によって囲まれている。基準水準点は水準点網の再測量の基準点となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)
ここの水準点の標高は「24.2m」。ということは、国会議事堂付近の標高とほぼ同じということになります。日本橋から70㎞過ぎても、まだこの標高。関東平野の平坦さがうかがわれます。
(9:54)「東京から65㎞」ポスト。
その先左手に、「野木宿道標」があります。
町指定文化財 野木宿道標
本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、栃木へ向かう日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思われる。
なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村への侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より太平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内としての性格が強く、江戸時代の人々の太平山神社に対する信仰の厚さを知ることができる。
野木町教育委員会
古地図ではこの道は栃木に通じている。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←が道標のあるところ。○が栃木に向かう道。
日光道中今市宿を合流点に、日光道中、例幣使道、会津南山通り(西街道)の両側には杉並木が植えられている。この杉並木は、武蔵国川越城主の松平正綱が、寛永2~3年(1625~6)から約20年の歳月をかけて植えつけ、杉並木を寄進したものである。
日光道中野木宿周辺では、杉並木ではなく、松並木が続いていた(「増補行程記」盛岡市中央公民館蔵)。この松並木は、元和8年(1622)古河藩主永井右近大夫直勝が、中田より小山までの街道に、松を植えたといわれている(「下総国古河城主代々記」田沼忠昭家文書)。またその子尚政が寛永期に植えたともいわれる(「小山市立博物館紀要3号」)。元和河寛永期(1615~43)までには松並木ができていたということになる。
弘化2年(1845)、山形藩主秋元志朗は上野国館林へ国替えとなり、家臣山田喜太夫は妻音(とわ50歳)とともに移動することになった。音羽は、間々田より友沼に向かう付近で、松並木をとおる一校の絵と歌を残している(「道中記」)
「暑さがしのぎにくいほどで、松並に風音涼しく吹いて聞こえてくる。『松風を琴のしらべに聞きなして 心なぐさむ旅の道野邊』。進んで野木では、「此辺は皆松並木で、景色がない、…それに松なみの間 皆小石を敷いてあるので、足が痛んだが、…歩を進め、八ッ半頃であろうか 古河の宿へ着いた」とあり、ずっと松並木が続いていたことがわかる。
野木町教育委員会
ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。
来た道を振り返って望む。
大きな建物もなく、周囲は明るく開けていきます。
(9:37)「東京から64㎞」ポスト。
(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。
向かいには「馬頭観音」石碑。
その先を望む。
沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
日光道中野木宿
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
野木町教育委員会
(9:46)交差点には、「←のぎ水辺の楽校 入口」の表示が。
左に曲がって行った先は緑豊かなようす。
その交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。
沿道には廃屋。
「浄明寺」入口付近に設置された「水準点」。
水準点
水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。
日本水準原点の次に重要な水準点を「基準水準点」といい、全国に88ヶ所設置されたがそのうちの2箇所は樺太に設置されたものであり現在は樺太の領有権を放棄しているため2007年3月現在の日本の基準水準点の数は86ヶ所である。一等水準点網から少し離れた地盤が強固な山や丘陵地に設置されることが多く設置場所も道路から少し離れた林や公園の中などに設置され、道路の拡張工事などで移転が必要になる事態を防いでいる。柱石だけでなくすぐ横の地中にも石とクロム金属製の標識があり、3つの標識を設置することにより万一の破損に備えている。さらに柱石と地中標の蓋は柵によって囲まれている。基準水準点は水準点網の再測量の基準点となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)
ここの水準点の標高は「24.2m」。ということは、国会議事堂付近の標高とほぼ同じということになります。日本橋から70㎞過ぎても、まだこの標高。関東平野の平坦さがうかがわれます。
(9:54)「東京から65㎞」ポスト。
その先左手に、「野木宿道標」があります。
町指定文化財 野木宿道標
本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、栃木へ向かう日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思われる。
なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村への侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より太平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内としての性格が強く、江戸時代の人々の太平山神社に対する信仰の厚さを知ることができる。
野木町教育委員会
古地図ではこの道は栃木に通じている。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←が道標のあるところ。○が栃木に向かう道。