少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。
裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
日光街道と奥州街道の追分
江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。
「バス停・伝馬町」。
この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。
高札場跡
ここには、江戸時代に高札場がありました。高札場には人々が従わなくてはならないお触れやきまりごとなどを書いた木の札(高札)が立てられていました。宇都宮宿内の所々にも同様な高札場がありました。
江戸時代の宇都宮城下図があります。南から進んできた道(日光街道・奥州街道)が右折し、すぐに北へ向かう「日光街道」と東に向かう「奥州街道」が分岐します。「奥州街道」は宇都宮城(現在の東武宇都宮駅の南東側)の北側を屈折しながら通過し、北へ向かいます。
「日光街道」を歩き終えたら、次回は「奥州街道」を白河まで歩くつもりです。
右手奥の方に「宇都宮城」がありました。現在は公園になっています。
これから歩む「日光街道」を望む。
「本郷町」解説板。
宇都宮城の北を流れる釜川の西側一帯は、古くは西原と呼ばれていました。この付近はその本村であったことから本郷町と呼ばれるようになりました。
江戸時代は日光街道沿いに多くの商家が軒を並べにぎわいました。また町内には本郷山妙覚院という寺院がありましたが、この境内にあった二十三夜尊が、今でも大切に祀られています。
古い商家風のおうちがちらほらあります。
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」
元和5年(1619)宇都宮城第28代城主・本多正純公は、城下の町割りを行うとともに、五街道の奥州道中と日光道中を伝馬町で分岐(追分)させ、街道を整備しました。当地は日本橋から17番目の宿場「宇都宮宿」として栄えました。
徳川家康が祀られている日光東照宮は、基点の日本橋より36里。一里塚は、国の史跡である22里(小金井)をはじめ、上戸祭の28里など一部が整備されていますが、この27里は昨年に当委員会が、江戸期の絵図からその存在を明らかにしました。
この度、当委員会が小幡清住地区まちづくりの一環として、日光道中追分一里塚「二十七里」の標識を設置いたしました。
平成26年11月吉日 日光街道 小幡清住まちづくり委員会
(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。
旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
星が丘付近。
(12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。
この付近の地名は「松原」。旧道には松並木があったのか?
しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
ここからは、日光までこの国道を進むことになります。杉並木が楽しめそうです。今の時期は花粉症の方でも大丈夫でしょう。
(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。
「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。
こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。
(13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。
大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。
(13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。それでも期待感が増します。