栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。
(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。
「佐野ラーメン 中村屋」。辺りが開けてきます。
「(東京から)65.8㎞」ポストも歩道のところに立っています。
(10:08)それでもれっきとした「国道4号線」です。
かつてはこの付近も松並木が続いていました。
1880年代のようす。「松原」という地名は現在も残っています。
現在のようす。国道4号線は旧道をほぼなぞらえているようです。
立派な門構えのおうち。
別のおうちの奥には石造りの建物。
「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。
(10:28)「松原大橋」から。
下流方向。右手奥に「渡良瀬遊水池」があります。
上流方向。ここで小休止。
再開してしばらく進むと、右手に白く細長い花が一面に垂れている木々。
その木の下で農作業をしている方に聞くと、「栗の花だよ」と。
クリ(栗)
ブナ科クリ属の木の一種。クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる、栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリもごく一部では栽培される。
落葉性高木で、高さ17m、幹の直径は80cm、あるいはそれ以上になる。樹皮は灰色で厚く、縦に深い裂け目を生じる。
葉は長楕円形か長楕円状披針形、やや薄くてぱりぱりしている。表はつやがあり、裏はやや色が薄い。周囲には鋭く突き出した小さな鋸歯が並ぶ。
雌雄異花で、いずれも5月から6月に開花する。雄花は穂状で斜めに立ち上がり、全体にクリーム色を帯びた白で、個々の花は小さいものの目を引く。また、香りが強い。非常によく昆虫が集まる。なお、この花の香りは芳香成分としてスペルミンを含むため、ヒトの精液の臭いに似た独特の香りを放つ。
一般に雌花は3個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、不受精のものはしいなとなる。
9月から10月頃に実が成熟すると自然にいがのある殻斗が裂開して中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1 - 3個ずつ現れる。果実は単に「クリ(栗)」、または「クリノミ(栗の実)」と呼ばれ、普通は他のブナ科植物の果実であるドングリとは区別される(但し、ブナ科植物の果実の総称はドングリであり、広義にはドングリに含まれるとも言える)。
(以上、「Wikipedia」参照)
整然と植えられた栗林の下に行き、雄花に顔を近づけてもあまり臭い(香り)を感じませんでした。鼻が鈍感になっているのかな、それとも・・・。 なお、雌花は確認できず。
歩いていると、沿道には他にも「ウメ」「ナシ」「ブドウ」などの樹木が植えられています。庭先であったり、果樹園のようだったり。
「馬頭観音」石碑。
立派な長屋門を持つおうち。
「東京から68㎞」ポスト。
「馬頭観音」石碑。
(10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
法音寺の芭蕉句碑
芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり
法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
松尾芭蕉(1644~94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野の生まれである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」「漂泊の詩人」といわれる。
「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月芭蕉庵を人に譲り、河合曾良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。「曾良旅日記」によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
間々田出立後、室の八島(現栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白川の関を越え、松島に向かった。
ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向かった際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
野木町教育委員会
「奥の細道」の旅程図。
(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。
「佐野ラーメン 中村屋」。辺りが開けてきます。
「(東京から)65.8㎞」ポストも歩道のところに立っています。
(10:08)それでもれっきとした「国道4号線」です。
かつてはこの付近も松並木が続いていました。
1880年代のようす。「松原」という地名は現在も残っています。
現在のようす。国道4号線は旧道をほぼなぞらえているようです。
立派な門構えのおうち。
別のおうちの奥には石造りの建物。
「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。
(10:28)「松原大橋」から。
下流方向。右手奥に「渡良瀬遊水池」があります。
上流方向。ここで小休止。
再開してしばらく進むと、右手に白く細長い花が一面に垂れている木々。
その木の下で農作業をしている方に聞くと、「栗の花だよ」と。
クリ(栗)
ブナ科クリ属の木の一種。クリのうち、各栽培品種の原種で山野に自生するものは、シバグリ(柴栗)またはヤマグリ(山栗)と呼ばれる、栽培品種はシバグリに比べて果実が大粒である。また、シバグリもごく一部では栽培される。
落葉性高木で、高さ17m、幹の直径は80cm、あるいはそれ以上になる。樹皮は灰色で厚く、縦に深い裂け目を生じる。
葉は長楕円形か長楕円状披針形、やや薄くてぱりぱりしている。表はつやがあり、裏はやや色が薄い。周囲には鋭く突き出した小さな鋸歯が並ぶ。
雌雄異花で、いずれも5月から6月に開花する。雄花は穂状で斜めに立ち上がり、全体にクリーム色を帯びた白で、個々の花は小さいものの目を引く。また、香りが強い。非常によく昆虫が集まる。なお、この花の香りは芳香成分としてスペルミンを含むため、ヒトの精液の臭いに似た独特の香りを放つ。
一般に雌花は3個の子房を含み、受精した子房のみが肥大して果実となり、不受精のものはしいなとなる。
9月から10月頃に実が成熟すると自然にいがのある殻斗が裂開して中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1 - 3個ずつ現れる。果実は単に「クリ(栗)」、または「クリノミ(栗の実)」と呼ばれ、普通は他のブナ科植物の果実であるドングリとは区別される(但し、ブナ科植物の果実の総称はドングリであり、広義にはドングリに含まれるとも言える)。
(以上、「Wikipedia」参照)
整然と植えられた栗林の下に行き、雄花に顔を近づけてもあまり臭い(香り)を感じませんでした。鼻が鈍感になっているのかな、それとも・・・。 なお、雌花は確認できず。
歩いていると、沿道には他にも「ウメ」「ナシ」「ブドウ」などの樹木が植えられています。庭先であったり、果樹園のようだったり。
「馬頭観音」石碑。
立派な長屋門を持つおうち。
「東京から68㎞」ポスト。
「馬頭観音」石碑。
(10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
法音寺の芭蕉句碑
芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり
法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
松尾芭蕉(1644~94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野の生まれである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」「漂泊の詩人」といわれる。
「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月芭蕉庵を人に譲り、河合曾良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。「曾良旅日記」によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
間々田出立後、室の八島(現栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白川の関を越え、松島に向かった。
ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向かった際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
野木町教育委員会
「奥の細道」の旅程図。