しばらく進むと、「会津見送り地蔵」「焙烙地蔵」の道標があります。
右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。
久喜市指定文化財 会津見送り稲荷
昭和53年3月29日指定
江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困りはてたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
久喜市教育委員会
旧道はそのまま、国道4号線に合流して北上し、「栗橋宿」へ向かったようですが、案内用の道標に導かれ、そのまま農道のような道を進みます。
振り返って望む。但し、旧道ではありません。
会津見送り稲荷と炮烙地蔵の道標。
右手を進む。
住宅地を抜けると、栗橋宿に入ります。旧道は宿場入口で枡形になって右から進んできます。右手には「炮烙地蔵」があります。
久喜市指定文化財 炮烙地蔵
昭和53年3月29日指定
むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。
また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
久喜市教育委員会
焙烙(ほうろく)は、素焼きの土鍋の一種。形は平たく、低温で焼かれる。
(写真はHPより)
栗橋宿に入ると、約1㎞の直線道路になります。
栗橋宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。
房川渡と栗橋関所
江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。
栗橋宿と中田宿
利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。
「栗橋宿」という幟が街道筋に掲げられています。
古い家々の軒先には屋号や建物の概要が掲示されています。
「丸島」 創業 江戸末期 質屋 明治期より米販売製粉業を営む 店舗 江戸末期築 住居 明治初期築
宿内にはこれまでもあった「カスリーン台風」の爪痕を示す赤テープが巻かれてあります。この辺りは、2㍍40㌢の高さになっています。
黒塗りは、選挙ポスターのため。
古いおうちもちらほら。
「2.4m」との表示。背丈を遙かに越えた高さ。
江戸時代の「利根川」東遷以前も以後も、日光街道周辺はひとたび水害に襲われれば、濁流が遠く江戸の地まで飲み込んでいった、ということになります。戦後のカスリーン台風でもこのような大被害に遭うのですから、この地域では「治水」が今も昔も重要だったことが分かります。
注:利根川の東遷
古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。
東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。
工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。
「栗橋宿」の中心街を歩きますが、宿場に必置の「本陣」「脇本陣」「問屋場」などといった案内板などは目に付きませんでした。その代わり、こうした古いおうちが目立ちます。
下野屋 創業 文化年間 薬舗 店舗 明治40年代築 住居 昭和8年築
そうこうしているうちに、宿場の北はずれに。
振り返って望む。
道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。
左手の発掘現場。
土手の上から。右手に「八坂神社」。
「栗橋関所」跡碑が土手下にあるはずですが、その付近は工事中で入れないかと思ってしまい、行かずじまい。
↓のところに。
そこで、拝借。
「栗橋関所跡」碑。
江戸時代に整備された五街道の一つ日光道中は交通量が多く、本市には栗橋宿が設けられました。また、栗橋宿には利根川を渡る房川渡(ぼうせんわたし)が設けられると共に、日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかた)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。
栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。
江戸時代の関所は、「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」と呼ばれるように、武器の通行の監視や、江戸に人質として差し出された諸大名の妻子の国元への逃亡の取り締まりが主な役割でした。栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。
栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。
久喜市栗橋北付近にあった関所跡地は利根川の改修工事により、現在は河川敷内となり、遺構等は残されていません。しかし、前述の足立家や他の関所番士の家に伝わった古文書や絵図等から、関所の構造をある程度知ることができます。現在、郷土資料館にこれらの資料を基にした関所の復元模型が展示されていますので、ぜひご覧ください。
(以上、HPより)
この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。
(昭和23年)
↓
(平成10年)
↓
?(スーパー堤防)
(jcpkuki.blog.shinobi.jp/Entry/629/より)
右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。
久喜市指定文化財 会津見送り稲荷
昭和53年3月29日指定
江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるため この街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困りはてたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
久喜市教育委員会
旧道はそのまま、国道4号線に合流して北上し、「栗橋宿」へ向かったようですが、案内用の道標に導かれ、そのまま農道のような道を進みます。
振り返って望む。但し、旧道ではありません。
会津見送り稲荷と炮烙地蔵の道標。
右手を進む。
住宅地を抜けると、栗橋宿に入ります。旧道は宿場入口で枡形になって右から進んできます。右手には「炮烙地蔵」があります。
久喜市指定文化財 炮烙地蔵
昭和53年3月29日指定
むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。
また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
久喜市教育委員会
焙烙(ほうろく)は、素焼きの土鍋の一種。形は平たく、低温で焼かれる。
(写真はHPより)
栗橋宿に入ると、約1㎞の直線道路になります。
栗橋宿
日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。
房川渡と栗橋関所
江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。
栗橋宿と中田宿
利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。
「栗橋宿」という幟が街道筋に掲げられています。
古い家々の軒先には屋号や建物の概要が掲示されています。
「丸島」 創業 江戸末期 質屋 明治期より米販売製粉業を営む 店舗 江戸末期築 住居 明治初期築
宿内にはこれまでもあった「カスリーン台風」の爪痕を示す赤テープが巻かれてあります。この辺りは、2㍍40㌢の高さになっています。
黒塗りは、選挙ポスターのため。
古いおうちもちらほら。
「2.4m」との表示。背丈を遙かに越えた高さ。
江戸時代の「利根川」東遷以前も以後も、日光街道周辺はひとたび水害に襲われれば、濁流が遠く江戸の地まで飲み込んでいった、ということになります。戦後のカスリーン台風でもこのような大被害に遭うのですから、この地域では「治水」が今も昔も重要だったことが分かります。
注:利根川の東遷
古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。
東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。
工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。
「栗橋宿」の中心街を歩きますが、宿場に必置の「本陣」「脇本陣」「問屋場」などといった案内板などは目に付きませんでした。その代わり、こうした古いおうちが目立ちます。
下野屋 創業 文化年間 薬舗 店舗 明治40年代築 住居 昭和8年築
そうこうしているうちに、宿場の北はずれに。
振り返って望む。
道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。
左手の発掘現場。
土手の上から。右手に「八坂神社」。
「栗橋関所」跡碑が土手下にあるはずですが、その付近は工事中で入れないかと思ってしまい、行かずじまい。
↓のところに。
そこで、拝借。
「栗橋関所跡」碑。
江戸時代に整備された五街道の一つ日光道中は交通量が多く、本市には栗橋宿が設けられました。また、栗橋宿には利根川を渡る房川渡(ぼうせんわたし)が設けられると共に、日光道中唯一の関所が設置されました。今日この関所は、一般的に「栗橋関所」と呼ばれていますが、江戸時代は栗橋と対岸中田(なかた)(茨城県古河市)とを結ぶ渡船場の名称をとり、「房川渡中田御関所」と呼ばれていました。
栗橋関所が設置されたのは、江戸時代初頭で、寛永元年(1624)には、関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。この番士の屋敷跡は、昨年発掘調査が行われ、江戸時代末期から明治時代にかけての屋敷の礎石や茶碗等が出土しています。
江戸時代の関所は、「入鉄砲(いりでっぽう)に出女(でおんな)」と呼ばれるように、武器の通行の監視や、江戸に人質として差し出された諸大名の妻子の国元への逃亡の取り締まりが主な役割でした。栗橋関所では、常時4家の番士が交代で関所に勤務し、これらの任務にあたりました。この当時の業務や日々の出来事は、関所番士の一家である足立家に伝わった日記に詳細に記録されており、これらは現在「栗橋関所日記及び関係資料」として県の有形文化財に指定されています。
栗橋関所は、明治2年(1869)に廃止されましたが、大正13年(1924)に利根川橋の開通を記念して、近隣の人々によって、「栗橋関所址」碑が建てられ、現在は「栗橋関跡」として県の旧跡に指定されています。
久喜市栗橋北付近にあった関所跡地は利根川の改修工事により、現在は河川敷内となり、遺構等は残されていません。しかし、前述の足立家や他の関所番士の家に伝わった古文書や絵図等から、関所の構造をある程度知ることができます。現在、郷土資料館にこれらの資料を基にした関所の復元模型が展示されていますので、ぜひご覧ください。
(以上、HPより)
この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。
(昭和23年)
↓
(平成10年)
↓
?(スーパー堤防)
(jcpkuki.blog.shinobi.jp/Entry/629/より)