「壬生通(小山~楡木)」を歩いたとき、「下野国分寺」跡以外は、通り過ごした「天平の丘公園」に行ってきました。
(9:40)JR宇都宮線「小金井」駅に到着。ここから「天平の丘公園」までは歩くとけっこうありそう。
そこで、駅前にある「下野市観光案内所 オアシスポッポ館」でレンタサイクルをお借りします。(1日300円)
「観光案内図」ももらって、出発です。半袖では少し肌寒い感じ。でも、かえって快適。ほぼ真西に進みます。
「国道4号線(現日光街道)」を越えると、田園が広がります。
(10:06)「姿川」に架かる「紫橋」を越えて行くと、向こうの森が「天平の丘公園」。「伝紫式部の墓」はここの地名「紫」と関連がある、とのこと。
姿川
栃木県の南部を流れる利根川水系思川支流の一級河川である。
栃木県宇都宮市新里町の鞍掛山から流れ出る栗谷沢に源を発する。宇都宮市西部の宝木台地西縁を南に流れ、下都賀郡壬生町・下野市を経て小山市黒本で思川に合流する。宇都宮市新里町の源流部の標高は約200m、思川との合流地点の標高は約40mであり、この標高差約160mを約40kmかけて流れる。
流域には大谷石の採掘で著名な大谷地区がある。
流域に石室を持つ古墳が多く存在していることから、採掘された大谷石の運搬水路として古代より利用していたと想像されている。下流域にあったとされる下野国府の礎石も大谷で切り出されて姿川を経て運ばれたとされる。
江戸時代に江戸の経済圏に組み込まれた北関東は一円の運搬水路が整備され、姿川でも舟運が行われた。(以上、「Wikipedia」参照)
2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」)
→が「壬生通」。○が「下野国分寺跡」、右上に「国分尼寺」跡」。右下の橋が「紫橋」。中央の森一帯が「天平の丘公園」。
駐車場に自転車をとめて園内を散策。「研修・公園管理棟 秋山亭」。
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我れは 額田王
こういうぐあいに、要所、要所、20箇所ほど「万葉集の歌碑」があるようです。それを探しながら歩くのも楽しいものです(実際にはなかなかそうもいかず、そのうちのいくつか)。
「防人街道」をたどり、「伝紫式部の墓」へ。
紫式部の墓
この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約1㎞北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と言われるようになったと思われます。
では、本物の墓はどこにあるのでしょうか?
66 紫式部の墓はどこにあるか (『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫)よりお借ります。(HP)
紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362~68年ごろ初稿本成立)に、
式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802~52)墓との二つが並んでいます。
実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
紫式部は人々をたぶらかす狂言綺 語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。
作成日:2015年2月6日
園内に戻ると、木々に歌が取り付けられてあります。「やまざくら」には「匂宮」という名称、そして万葉集の歌。
去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも 若宮年魚麿(あゆまろ)
公園内に原生していた山桜には近在の愛好家によりニックネームが付けられているようです。
この山桜にも「空蝉」と。そして、歌が。
山峡に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をか思はむ 大伴池主
それぞれ、紫式部の『源氏物語』にあやかって、このほかにも
「光源氏」、「大弐三位」、「夕霧」・・・
それぞれの桜を探しながら、愛でるという趣向。けっこうな古木・山桜が目に付きます。
誘われるように「万葉植物園」へ。
(9:40)JR宇都宮線「小金井」駅に到着。ここから「天平の丘公園」までは歩くとけっこうありそう。
そこで、駅前にある「下野市観光案内所 オアシスポッポ館」でレンタサイクルをお借りします。(1日300円)
「観光案内図」ももらって、出発です。半袖では少し肌寒い感じ。でも、かえって快適。ほぼ真西に進みます。
「国道4号線(現日光街道)」を越えると、田園が広がります。
(10:06)「姿川」に架かる「紫橋」を越えて行くと、向こうの森が「天平の丘公園」。「伝紫式部の墓」はここの地名「紫」と関連がある、とのこと。
姿川
栃木県の南部を流れる利根川水系思川支流の一級河川である。
栃木県宇都宮市新里町の鞍掛山から流れ出る栗谷沢に源を発する。宇都宮市西部の宝木台地西縁を南に流れ、下都賀郡壬生町・下野市を経て小山市黒本で思川に合流する。宇都宮市新里町の源流部の標高は約200m、思川との合流地点の標高は約40mであり、この標高差約160mを約40kmかけて流れる。
流域には大谷石の採掘で著名な大谷地区がある。
流域に石室を持つ古墳が多く存在していることから、採掘された大谷石の運搬水路として古代より利用していたと想像されている。下流域にあったとされる下野国府の礎石も大谷で切り出されて姿川を経て運ばれたとされる。
江戸時代に江戸の経済圏に組み込まれた北関東は一円の運搬水路が整備され、姿川でも舟運が行われた。(以上、「Wikipedia」参照)
2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」)
→が「壬生通」。○が「下野国分寺跡」、右上に「国分尼寺」跡」。右下の橋が「紫橋」。中央の森一帯が「天平の丘公園」。
駐車場に自転車をとめて園内を散策。「研修・公園管理棟 秋山亭」。
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我れは 額田王
こういうぐあいに、要所、要所、20箇所ほど「万葉集の歌碑」があるようです。それを探しながら歩くのも楽しいものです(実際にはなかなかそうもいかず、そのうちのいくつか)。
「防人街道」をたどり、「伝紫式部の墓」へ。
紫式部の墓
この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。同じ様式の塔が数多く建立されたものと思われ、ここより約1㎞北にある国分寺(下野国分寺跡とは別)薬師堂のそばにもあります。はじめ姿川沿いにありましたが、明治初期にここに移されました。この付近は「紫」という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と言われるようになったと思われます。
では、本物の墓はどこにあるのでしょうか?
66 紫式部の墓はどこにあるか (『源氏物語の謎』増淵勝一 著 - 国研ウェブ文庫)よりお借ります。(HP)
紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362~68年ごろ初稿本成立)に、
式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802~52)墓との二つが並んでいます。
実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
紫式部は人々をたぶらかす狂言綺 語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。
作成日:2015年2月6日
園内に戻ると、木々に歌が取り付けられてあります。「やまざくら」には「匂宮」という名称、そして万葉集の歌。
去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも 若宮年魚麿(あゆまろ)
公園内に原生していた山桜には近在の愛好家によりニックネームが付けられているようです。
この山桜にも「空蝉」と。そして、歌が。
山峡に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をか思はむ 大伴池主
それぞれ、紫式部の『源氏物語』にあやかって、このほかにも
「光源氏」、「大弐三位」、「夕霧」・・・
それぞれの桜を探しながら、愛でるという趣向。けっこうな古木・山桜が目に付きます。
誘われるように「万葉植物園」へ。