「大日堂」。
「佐川急便」の先を左折し、中学校のグランド脇を進み、広い道を右折すると、「大日堂」の前に出てくる(12:07)。ここから西が「拝島宿」となるようです。
1880年代のようす。上方に東の枡形。
2010年代のようす。
「多摩川」に架かる橋が「拝島橋」。旧道は「佐川急便」の西側を通っていたようです。
今も昔も、「多摩川」は流れ本体よりも河川敷の方が広く、また深くえぐれています。そのため、ひとたび大雨になると、川幅も勢いも増す印象。上流、中流を問わず、洪水被害も大きく、長い間、自然と人間との闘いでもあったようです。
多摩川は古くから暴れ川として知られています。
河川の延長が138kmと短いにも関わらず、水源の標高が1953mと高く、勾配が急であるため、古くから洪水の度に流路は変わり、沿岸にあった村が川により隔てられてしまうことも珍しくありませんでした。
現在に近い流路になったのは1590年の大洪水といわれており、その際に分断された丸子や等々力、野毛、瀬田、宇奈根、布田、押立、石田といった村々は、その後、堤防の整備が行われてそれぞれ別の市町村に取り込まれてしまいます。その名残が現在では川を挟んだ両側に同地名が残されていることで分かります。
東京都大田区の「下丸子」に対して、川崎市中原区の「中丸子」「上丸子」。
「等々力」は大田区と中原区に。
「宇奈根」は、東京都世田谷区と川崎市高津区に。
世田谷区の「野毛」「上野毛」に対して、高津区の「下野毛」。
「瀬田」が世田谷区と高津区に。
「中和泉」「元和泉」「東和泉」は、世田谷区、「和泉」は川崎市多摩区。
「布田」は東京都調布市と川崎市多摩区に。
「押立町」は東京都府中市と稲城市に。
「石田」は国立市と日野市に。
いずれも川を挟んだ同地名で、多摩川の暴れ川時代の名残です。
「拝島宿」は千人同心が日光を往還する街路の宿場として成立しました。宿は東西にわたって、下宿・中宿・上宿と続いています。
弘化3年(1846)には家数159軒。そのうち旅籠が6軒、そのほか居酒屋・質屋・荒物屋・菓子屋・鍛治屋・銭湯などが56軒も建ち並んでいたそうです。
宿場の北側には、「大日堂」、「拝島大師」、「日吉神社」などの寺社が並んでいます。
「拝島」は「昭島市」の一部です。
昭島市は、昭和29年5月1日に昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市としてスタートしました。『昭島』の名前は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」を合わせたものです。
【古代・中世】
952年の洪水により多摩川上流の日原村日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が大神の中州の島に流れ着き、尊像は村人らに拝まれるようになり、お堂を建てて坐像を安置しました。
その後、この地域が「拝島」という地名になり、滝山城築城時に、城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀ました。
【近世】
滝山城(1521年)が多摩川対岸築城され、城下町としての様相を呈してきました。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃しました。
文禄年間に奥多摩街道と千人同心街道が交差するところに「拝島宿」が形成され、1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に「拝島の渡し」を通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきました。1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流出し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着しました。
1866年(慶応2年)6月、武州一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、「築地の渡し」で日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧されました。
江戸時代は、徳川領で「郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島」の9カ村があり、多摩川には「拝島の渡し・築地の渡し・平の渡し」の3つの渡しがありました。
・・・
(以上、「昭島市」公式HPより)
現在の「拝島宿」のようす。
かつて、「拝島分水」という「玉川上水」の分水が拝島宿内の街道の中央を流れ、村民の生活用水や宿場用水として重要な役割を果たしてきましたが、現在は、暗渠になっています。
(12:17)左手に臼井家の建物。拝島宿成立以前からの旧家のようです。
粋な黒塀のおうち。
宿場の面影は感じない、バス通り。
路地の奥には「拝島天神」。
右に曲がる辺りが宿場西の枡形。
(12:27)その曲がり角に地蔵一体と「解説板」。
御地蔵尊由緒
このお地蔵様は、江戸時代初めの慶安年間に八王子千人同心が日光廟勤番に赴くために整備された日光往還道の宿場町として「拝島宿」が成立してまもなくの天和2年(1682)から鎮座していました。
お地蔵様が東を向いているのは、坂下(「旧拝島町1番地」)に鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両側から宿場内を見守るために建立されたと伝えられております。
昭和20年代初め道路整備時に破壊され台座のみが残っていましたが今般地元講中により再建されました。
平成26年(2014)5月 上宿講中
その付近から枡形を振り返って望む。
右に曲がってすぐ左に入る細い道が旧道。
「拝島三叉路」交差点。「奥多摩街道」は左に曲がりますが、「千人同心街道」はまっすぐ進みます。
(12:34)「上宿」バス停。
「小荷田」の交差点からは、3車線と広くなった「国道16号線」を進みます。
1880年代のようす。西の枡形。 2010年代のようす。上方に、広い「国道16号線」。
「佐川急便」の先を左折し、中学校のグランド脇を進み、広い道を右折すると、「大日堂」の前に出てくる(12:07)。ここから西が「拝島宿」となるようです。
1880年代のようす。上方に東の枡形。
2010年代のようす。
「多摩川」に架かる橋が「拝島橋」。旧道は「佐川急便」の西側を通っていたようです。
今も昔も、「多摩川」は流れ本体よりも河川敷の方が広く、また深くえぐれています。そのため、ひとたび大雨になると、川幅も勢いも増す印象。上流、中流を問わず、洪水被害も大きく、長い間、自然と人間との闘いでもあったようです。
多摩川は古くから暴れ川として知られています。
河川の延長が138kmと短いにも関わらず、水源の標高が1953mと高く、勾配が急であるため、古くから洪水の度に流路は変わり、沿岸にあった村が川により隔てられてしまうことも珍しくありませんでした。
現在に近い流路になったのは1590年の大洪水といわれており、その際に分断された丸子や等々力、野毛、瀬田、宇奈根、布田、押立、石田といった村々は、その後、堤防の整備が行われてそれぞれ別の市町村に取り込まれてしまいます。その名残が現在では川を挟んだ両側に同地名が残されていることで分かります。
東京都大田区の「下丸子」に対して、川崎市中原区の「中丸子」「上丸子」。
「等々力」は大田区と中原区に。
「宇奈根」は、東京都世田谷区と川崎市高津区に。
世田谷区の「野毛」「上野毛」に対して、高津区の「下野毛」。
「瀬田」が世田谷区と高津区に。
「中和泉」「元和泉」「東和泉」は、世田谷区、「和泉」は川崎市多摩区。
「布田」は東京都調布市と川崎市多摩区に。
「押立町」は東京都府中市と稲城市に。
「石田」は国立市と日野市に。
いずれも川を挟んだ同地名で、多摩川の暴れ川時代の名残です。
「拝島宿」は千人同心が日光を往還する街路の宿場として成立しました。宿は東西にわたって、下宿・中宿・上宿と続いています。
弘化3年(1846)には家数159軒。そのうち旅籠が6軒、そのほか居酒屋・質屋・荒物屋・菓子屋・鍛治屋・銭湯などが56軒も建ち並んでいたそうです。
宿場の北側には、「大日堂」、「拝島大師」、「日吉神社」などの寺社が並んでいます。
「拝島」は「昭島市」の一部です。
昭島市は、昭和29年5月1日に昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市としてスタートしました。『昭島』の名前は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」を合わせたものです。
【古代・中世】
952年の洪水により多摩川上流の日原村日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が大神の中州の島に流れ着き、尊像は村人らに拝まれるようになり、お堂を建てて坐像を安置しました。
その後、この地域が「拝島」という地名になり、滝山城築城時に、城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀ました。
【近世】
滝山城(1521年)が多摩川対岸築城され、城下町としての様相を呈してきました。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃しました。
文禄年間に奥多摩街道と千人同心街道が交差するところに「拝島宿」が形成され、1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に「拝島の渡し」を通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきました。1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流出し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着しました。
1866年(慶応2年)6月、武州一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、「築地の渡し」で日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧されました。
江戸時代は、徳川領で「郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島」の9カ村があり、多摩川には「拝島の渡し・築地の渡し・平の渡し」の3つの渡しがありました。
・・・
(以上、「昭島市」公式HPより)
現在の「拝島宿」のようす。
かつて、「拝島分水」という「玉川上水」の分水が拝島宿内の街道の中央を流れ、村民の生活用水や宿場用水として重要な役割を果たしてきましたが、現在は、暗渠になっています。
(12:17)左手に臼井家の建物。拝島宿成立以前からの旧家のようです。
粋な黒塀のおうち。
宿場の面影は感じない、バス通り。
路地の奥には「拝島天神」。
右に曲がる辺りが宿場西の枡形。
(12:27)その曲がり角に地蔵一体と「解説板」。
御地蔵尊由緒
このお地蔵様は、江戸時代初めの慶安年間に八王子千人同心が日光廟勤番に赴くために整備された日光往還道の宿場町として「拝島宿」が成立してまもなくの天和2年(1682)から鎮座していました。
お地蔵様が東を向いているのは、坂下(「旧拝島町1番地」)に鎮座するお地蔵様と向き合い一対となって拝島宿の東と西の両側から宿場内を見守るために建立されたと伝えられております。
昭和20年代初め道路整備時に破壊され台座のみが残っていましたが今般地元講中により再建されました。
平成26年(2014)5月 上宿講中
その付近から枡形を振り返って望む。
右に曲がってすぐ左に入る細い道が旧道。
「拝島三叉路」交差点。「奥多摩街道」は左に曲がりますが、「千人同心街道」はまっすぐ進みます。
(12:34)「上宿」バス停。
「小荷田」の交差点からは、3車線と広くなった「国道16号線」を進みます。
1880年代のようす。西の枡形。 2010年代のようす。上方に、広い「国道16号線」。