おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「西八王子」駅~「箱根ヶ崎」駅まで。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第1日目。)

2018-10-24 21:43:19 | 日光千人同心街道
                                  「谷地川」。
 「左入橋」交差点をまっすぐ進む。途中、左手、道路の正面遠くに「大岳山」の特徴的な山容が。
(↓)

                 
 奥多摩の山の東端にあたる、この山。秋、冬の澄んだ空の季節には、東京都内から(我が家の近くの土手からも)よく見える山。初心者の頃、登ったこともあります。

 片肩上がりの山体はどこからでも識別できる。『武蔵通志(山岳篇)』は「両総地方にて武蔵の鍋冠(なべかぶり)山と称し海路の標となす」と記され、江戸期には江戸湾に出入する船の目標でもあったようだ。いわゆる天文山の1つである。山名も古い文献を見ると大岳となっている。
 大岳山へは御岳(みたけ)から登山道をたどるのが一番楽だ。山頂の下に大岳神社と大岳山荘がある。この山小屋は獅子口小屋、日ノ出山東雲山荘と同時期に建てられたしゃれた建物で、今でも登山者に人気がある。山荘の横手の広場からは馬頭刈(まずかり)尾根や浅間尾根のかなたに富士山も見える。
より)

 この先も振り返ると、よく見えていました。 

切り通しの国道を進みます。かつてはけっこうな坂道だったようです。

        
                            
1880年代のようす。曲がりくねった旧道。         2010年代のようす。拡幅整備された国道16号線。     

「滝山城跡入口」の看板。

滝山城
 東京都八王子市丹木町にあった戦国時代の城。国の史跡。「続日本100名城」(123番)に選定された。
 1521年(永正18年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、高月城から移ったという。1546年(天文15年)、北条氏康が河越の夜戦(河越城の戦い)で扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。1558年(永禄元年)頃、北条氏照は城の大改修を実施した。
 1569年(永禄12年)、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。(異説あり) 
 多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったという。
 現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っている。大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となり桜の名所である。
                                                 (以上、「Wikipedia」参照)

 HPより)


ゆるやかな下り坂になり、「拝島橋」を渡ります。その手前に。
(11:34)「横浜から45㎞」ポスト。

「国道16号線」。八王子~横浜間は「シルクロード」、 横浜~横須賀間は「軍事輸送ルート」だった?!

 国道16号の八王子~横浜間は、「日本のシルクロード」と呼ばれる八王子街道が前身となっています。生糸貿易が盛んに行なわれた、幕末から明治にかけて、八王子は桑都と呼ばれ、信州、上州、秩父、甲斐などから生糸が集まる場所として栄えていました。この生糸を横浜港に運ぶ要路として利用されていたのが八王子街道です。
 一方、横浜~横須賀間は、横須賀港が、1877年に海軍港に指定されたために増加した、鎮守府などの海軍施設へつながる道路が前身となっています。横須賀港は、その後1948年に貿易港に指定され、自動車の輸出などに利用されています。

■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。

 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。

 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。  

「多摩川」を「拝島橋」で渡ります。舟のモニュメント。


青空の下、上空を白い鳥が群れをなして下流へ。

          (↓)

「多摩川」の流れ。樹木もたくさん繁っています。

            ↓が「大岳山」。

                    

 (11:49)橋を渡った先にある児童公園内に「拝島の渡し」解説板。舟と帆柱のモニュメント。
 
拝島の渡し
 拝島橋の上流100㍍ほどのところに、その昔、「拝島の渡し」と呼ばれる日光街道の渡し場がありました。日光街道は、江戸時代初期の慶安年間(1648~52)に、八王子千人同心が日光勤番に赴く際の往還路として開かれた公道で、江戸時代を通じて上州(群馬県)方面と八王子を結ぶ重要な街道として機能していました。
 この渡しの管理は拝島村によって行われ、数人の船頭さんが常駐して随時船を往復させていました。
 もっとも、船を運航したのは春から秋にかけてで、冬の渇水期には数艘の船を浮かべ、その上に板を渡した浮き橋に仕立てることもありました。文久元年(1861)の記録によると、渡し賃は一人24文、大水の時は割り増し料金を徴収する、といった定めがありました。
 明治時代に入っても、なおさかんに利用され、昭和10年代には八王子―川越(埼玉県)間を走る定期バスが、この渡し船を利用して多摩川を渡ったこともありました。しかし、明治後期から昭和初期にかけ、鉄道網・道路網の整備が進み、拝島の渡しは次第にすたれ、昭和20年ごろにはほとんど利用されなくなり、仮設の木橋が架けられて、細々と機能しておりました。
 その後、昭和30年、拝島橋が開通し、この地は再び重要な渡河地点となって今日に至っています。

注:明治後期から大正にかけて「渡し場」は「拝島橋」の下流に移動しているようです。 

いよいよ街道1番目の「拝島宿」へ。
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