刀水橋。左奥は日光連山。
熊谷駅からバスで「妻沼川岸」まで。「刀水橋」のたもとからスタートです。前回、前々回とはうってことなり、快晴。
JR本庄駅までの予定。
刀水橋(とうすいばし)
群馬県太田市古戸町と埼玉県熊谷市妻沼の間の利根川に架かる国道407号の橋。河口 から164.5 Kmの地点。長さ809.6 m、幅員15 m。「刀水」は利根川の異称である(注)。
古戸(ふっと)橋として1886年(明治19年)に開通した。現在の橋は1971年(昭和46年)に完成した4代目。4車線のため、交通量も多く、大型車の通行が頻繁であり、JR熊谷駅と東武伊勢崎線の太田駅や東武小泉線の西小泉駅を結ぶ路線バスも走っている。下流側には1989年(平成元年)完成の側道橋(刀水橋側道橋)があり、歩行者・自転車はここを通行する。なおこの橋の近くに道路橋はなく、左岸の群馬県大泉町や太田市市街地などと右岸の熊谷市の各地域を最短で結ぶにはほぼ必ず本橋を通行するためボトルネック状態となっており、特に平日朝の通勤時間帯には両岸を往来する自動車で本橋周辺で渋滞が発生する。(この項、「Wikipedia」参照)
注:「刀水橋」の由来
①・・・利根川の名称が出てくる最初の文献『万葉集』には、「刀禰(トネ)」と記され、「刀」という漢字が用いられている。そこから利根川の異称として「刀水(とうすい)」があったことから。
②・・・その昔、新田義貞が鎌倉を攻略、凱旋の際にこの利根川で刀を洗ったという伝説にちなんだ。
新田義貞は、現在の群馬県太田市出身といわれ、対岸が太田市であるため、②の説は興味深いが、文献的には伝説に過ぎないようです。
新田義貞
元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。
後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。
東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。(この項、「WIkipedia」参照)
「利根川自転車道」を進みます。「164.5㎞」付近。
「刀水橋」を振り返る。
雄大な赤城山が。
行く手に大きく広がる「赤城山」、「榛名山」、「妙義山」、「浅間山」、「日光連山」、遠く雪をかぶった谷川岳など「上越国境の山々」、そして「奥秩父の山々」を遠くに眺めながらの歩きです。