「167.0㎞」ポスト。中央に「浅間山」。
利根川河畔に沿った一直線の道。サイクリングも軽快に行き来しています。
中央遠くには「浅間山」、北側に少し雪が。
右手が榛名山。
その左手が「妙義山」、独特の山容です。表・裏と登山道があり、けっこうスリリングな登山でした。
また左手にはテーブルマウンテンとして有名な「荒船山」が見えます。
さらに左手には奥秩父の山々。
奥秩父の山々、中央遠く「両神山」の向こうに見えるのは、「甲武信岳」付近?
「赤城山」と「榛名山」の間、中央遠くには上越国境の山々。もうすでに真っ白です。
立ち止まっては、眺め眺めなので、なかなか進みません。山の地図を持参すればよかった!
利根川の流れもますます青く澄んでいます。
サイクリング。すれ違う顔を見ると、若者に混じって、小生と同世代の人が目につきます。
お元気ですね! お互いに目配せ。
左手に街並みが開けてきます。深谷市に入ったか?
遠くに橋が見えてきます。
「新上武大橋」(「国道17号線(中山道)」)。
「利根川」から離れ、「小山川」沿いの道を進みます。
2010年代のようす。左が「新上武大橋」。「利根川」と「小山川」の間には集落があります。利根川の氾濫によって生じた微高地。「前小屋」地区。対岸の太田市には「前小屋町」がある。
1880年代のようす。利根川の氾濫原が中央に。
上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の国境にあたる。
「深谷市」。
さっそく「深谷ねぎ」の畑。
深谷市はネギの生産量日本一の市であり、深谷ねぎは全国的なネギのブランドとして定着している。
深谷ねぎは品種名ではなく、深谷地方で栽培されたネギの総称である。根深ネギ・千住群に属する。品種は多数存在する。深谷市外で栽培されたネギも「深谷ねぎ」の名称で販売されている。そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字の商標登録し、深谷ねぎのブランド力向上の取り組みを行っている。
深谷ねぎの特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと、などが挙げられる。特に、糖度は10〜15度前後の糖度があるといわれており、その糖度はミカンなどの果物に匹敵する。冬の深谷ねぎは特に甘いため、すき焼きに砂糖は入れないという人もいる。
深谷ねぎの歴史は明治時代に始まる。深谷市周辺は幕末から明治初期にかけて藍栽培が盛んであり、また蚕種の一大産地であった。特に養蚕は盛んで、昭和初期には耕地の64%が桑畑であった。深谷ねぎは、明治初期に藍の値が暴落したことをきっかけにして、明治30年頃から新しい作物として本格的栽培が始まった。しかし、深谷ねぎは成長に応じて土を盛り上げる必要があるが、利根川流域の沃土は粘度が高く耕作に体力が必要で、深谷市南部に移り住んだ家もあった。
大正初期、今度はネギ相場が暴落した。その際、八基村(現在の深谷市八基)の農業指導者渋沢治太郎は、深谷町の乾物問屋・永徳屋商店に依頼して、北海道・東北地方へ深谷ねぎの商標を付けて出荷した。これが、深谷ねぎの名称の始まりであると言われている。その後、1929年(昭和4年)の世界恐慌による繭価暴落を受け、耕地の大規模な作物転換を図り、深谷ねぎが大規模に生産されるようになった。
埼玉県北部では、かつて利根川の氾濫が度々起こった。深谷市内にある「西島」「内ヶ島」「血洗島」などの「島」がつく地名は、かつて利根川の氾濫によって生じた微高地であるといわれる。しかし、幾度の氾濫によりこの地域には肥沃な土壌が形成された。この沃土は粘質が高く硬いのが特徴である。また、水はけが良くネギを育てるためには最適な土壌である。古代から、この地域では肥沃な土壌を用いて瓦造りが行われていた。
深谷市における深谷ねぎの中心的生産地は北部(利根川・小山川流域)と中南部(櫛挽台地)の二つに分かれている。深谷市北部の深谷ねぎは特に美味とされる。深谷市中南部もネギの産地であり、北部に匹敵する量のネギが栽培されている。
(この項、「Wikipedia」参照)
深谷ねぎは一年中収穫されますが、収穫期によって「春ねぎ」「夏ねぎ」「秋冬ねぎ」に分かれます。薬味やなべ物、お味噌汁などに欠かせないねぎですが、深谷ねぎの旬はなんといっても12月頃から出荷が始まる「秋冬ねぎ」。寒さで甘みが増す冬の時期、深谷の大地が育んだ、甘くてやわらかい深谷ねぎのおいしさをぜひ堪能してください。
(「」より)
深谷駅・駅舎。
この駅舎。東京駅丸の内駅舎の煉瓦が「日本煉瓦製造深谷工場」でつくられたものであることから、1996(平成8)年の改修に当たって東京駅の半分の大きさに模した煉瓦張りになっています。この煉瓦工場を設立したのは、渋沢栄一さん。
紙幣の肖像が変更に。その一万円札には福沢諭吉から渋沢栄一へ。
郷里の深谷市はもちろん、江東区にも縁が深いようです。かつてブログに投稿したものを再掲。
「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)の説明板があった。
説明板。
江東区登録史跡
渋沢栄一宅跡
渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
平成21年(2009)3月 江東区教育委員会
・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)
北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。
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深谷市といえば、今や、なんといっても「渋沢栄一」さんですが、「深谷ねぎ」も頑張っています。
濃い緑、まだ薄緑、整地したばかりの畑、と植えた時期によってさまざまなネギが。