今回、一番楽しみにしていたところ。
「都立八国山緑地」案内図。
八国山は標高89.4メートルの狭山丘陵の東端にある山です。その頂きから 上野(かみつけ)・ 下野(しもつけ)・ 常陸(ひたち)・ 安房(あわ)・ 相模(さがみ)・ 駿河(するが)・ 信濃(しなの)・ 甲斐(かい) の八国が見渡せることから、その名が付いたとされています。 新田義貞(にったよしさだ) 鎌倉討伐や武蔵野合戦などが行なわれた場所で、山のふもとには久米川古戦場碑があり、山頂には将軍塚が残されています。
(「」HPより)
たどる道が、都県境(緑地の北限)になっています。
「八国山緑地」東側。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「同」西側。
明治以来、都県境に変化はほぼありません。丘陵を南北に通じる道が鎌倉街道。
(「今昔マップ」より)
振り返る。所沢市松が丘1丁目付近。
右手が所沢市。
緩やかな坂道を上がっていきます。
埼玉県側の案内板。
この案内板には、「埼玉県狭山丘陵」とあります。
右が埼玉県、左が東京都。
「元弘青石塔婆所在趾」碑。この左手奥に、
「将軍塚」解説板。
狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代には、この付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。
元弘3年(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府軍と対戦したが苦戦を強いられ、分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書には、この塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。
狭山丘陵の東端に位置し東側には鎌倉街道上道が南北に通っていたことから、八国山周辺は幾度となく戦場となっていました。・・・(「」HPより)
先に進みます。散策を楽しむ人、ジョギングの人・・・、けっこう行き交います。
眼下に広がる所沢市街地。