おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「西寒川支線」跡。相模線「寒川」駅から分かれて進む路線。ゲート広場。一之宮公園。(「中原街道」を歩く。番外編。その1。)

2025-03-08 13:54:54 | 鉄道遺跡

相模線に沿ってしばらく進むと、かつての線路跡らしい空地。

相模線は、1921(大正10)年9月に民営鉄道の「相模鉄道」として茅ケ崎-寒川間が開通したのが始まりで、2021(令和3)年9月に開業100周年を迎えた。設立趣意書には、当時、年間で「四十七万余人」が訪れた大山阿夫利(あふり)神社の参詣客や、沿線一帯の穀類、繭糸(けんし)、木材などの輸送に加え、相模川で採取される「砂利」の輸送をうたっている。
 
明治末から大正の初めにかけては、鉄道や道路の整備、鉄筋コンクリート建築の登場による用材としての利用、さらに「浅野セメント」の浅野総一郎が主導し、鶴見・川崎地域の臨海部を埋め立て、大規模な工業地帯を造成する動き(浅野埋立)などもあり、大量の砂利が使われた。
 
相模鉄道は、こうした背景から茅ケ崎-寒川間の本線開通と同時に川寒川支線(寒川-川寒川間1.4km)、翌1922 (大正11)年5月には、後に西寒川支線となる四之宮支線(寒川-四之宮間、本稿では西寒川支線で統一する)という2本の砂利採取専用線を敷設し、川砂利の輸送を開始した。こうして、「砂利鉄」とも呼ばれる相模線の歴史が始まった。川寒川支線は1931(昭和6)年11月に廃止になったが、「西寒川支線」は、寒川と四之宮の間にあった貨物駅「東河原駅」(後の西寒川駅)付近に昭和産業の一之宮工場が招致されると、1939(昭和14)年10月に東河原駅を昭和産業駅と改称し、1940(昭和15)年4月以降、通勤客を運ぶために旅客営業を開始した。

        (「ありの木」HPより)               

※旧西寒川支線の「四之宮貨物駅」は目久尻川と相模川の合流点の南方にあり、相模川から採取した砂利を直接積み込めるよう、四之宮駅は川岸に設けられていた。また、相模海軍工場構内線は、西寒川駅の駅南端から分岐し工廠内の中央に向けて敷設されていた。

※緑道があるのは、「西寒川駅」跡・「三角の広場」まで。四之宮駅までの路線跡は、失われている。

寒川駅方向を望む。分岐点付近。

この先で、「西寒川支線」は左に曲がっていく。

本線脇の広い空間。 

通りを超えた向こうに廃線跡の緑道が続く。左側は「ゲート広場」。

「大門前踏切」。

                 「寒川神社」参道。

廃線跡の緑道。

住宅地の中を通っていました。

かつての様子。

                       (「」HPより)

当時の線路がモニュメントとして。

さらに車輪が。

緑道に沿って当時の線路が敷設されています。

                       

左手に大きな公園。

          「いちのみやこうえん(一之宮公園)。 げーとひろば | はっかくひろば 」。

もちろん、当時にこういう駅があったわけではありません。


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