押上駅の東、北十間川から横十間川が分岐するあたりにあるお寺で、江戸時代から信仰する人が多いお寺です。天正元年(1573)に創建された、日蓮宗真間弘法寺の末寺。
柳島の妙見様(島妙見)と古くから慕われている法性寺は、墨田区内でも、古いお寺です。古くから歌にも歌われ、多くの錦絵にもその偉容が残されています。残念ながら当時の姿では現在は見られません。
業平・押上・文花・立花地域(住宅密集地域の一つ)に、広域避難場所計画の話が出て、住み慣れた地を離れたくないとの地域住民の思いもあって、堅固な建造物建設の必要性から、当時の住職の決断によって、お寺の敷地に大きなマンションが建設されました。
かつての面影は有りませんが、浅草通りを押上から亀戸方向へ向かって、横十間川のすぐ手前の右手、レンガ色のマンションの1・2階部分が柳島妙見山法性寺となっています。
入って右手奥には、地元出身の葛飾北斎の碑や近松門左衛門にまつわる碑、その他にも多くの石碑・歌碑が並んで、古くから「妙見様」と親しまれ、人々の信仰を集めていた事がわかります。
葛飾北斎は、妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しています。また、近松門左衛門は昭和30年代に供養碑の一部が発見され、縁の深かった事が判明、芸術文化の先達の偉業を顕彰するために建立。
1階の右には妙見堂があり、中には妙見菩薩が鎮座しています。1階部分は広くはありませんが、日本庭園となっていて、社務所に入ると坪庭があり、奥には錦絵の名品や貞明皇后の形見として下賜された銅版画など逸品が収蔵されています。
写真は、十間橋の上から横十間川の分岐を望んだもの。右手が柳島橋となります。かつては、この「柳島」地域も商家などもあり、トロリー・バスも通り、ちょっとした賑わいもあったようですが、今は、静かな住宅地になっています。近くの錦糸町や吾妻橋の賑わいに比べれば、隔世の感があります。川の流れだけは、往時と変わらないのでしょうか。
今、ほんの近くに「東京スカイツリー」が建設中です。完成後には、この辺りもどう変化していくのでしょうか。
柳島の妙見様(島妙見)と古くから慕われている法性寺は、墨田区内でも、古いお寺です。古くから歌にも歌われ、多くの錦絵にもその偉容が残されています。残念ながら当時の姿では現在は見られません。
業平・押上・文花・立花地域(住宅密集地域の一つ)に、広域避難場所計画の話が出て、住み慣れた地を離れたくないとの地域住民の思いもあって、堅固な建造物建設の必要性から、当時の住職の決断によって、お寺の敷地に大きなマンションが建設されました。
かつての面影は有りませんが、浅草通りを押上から亀戸方向へ向かって、横十間川のすぐ手前の右手、レンガ色のマンションの1・2階部分が柳島妙見山法性寺となっています。
入って右手奥には、地元出身の葛飾北斎の碑や近松門左衛門にまつわる碑、その他にも多くの石碑・歌碑が並んで、古くから「妙見様」と親しまれ、人々の信仰を集めていた事がわかります。
葛飾北斎は、妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しています。また、近松門左衛門は昭和30年代に供養碑の一部が発見され、縁の深かった事が判明、芸術文化の先達の偉業を顕彰するために建立。
1階の右には妙見堂があり、中には妙見菩薩が鎮座しています。1階部分は広くはありませんが、日本庭園となっていて、社務所に入ると坪庭があり、奥には錦絵の名品や貞明皇后の形見として下賜された銅版画など逸品が収蔵されています。
写真は、十間橋の上から横十間川の分岐を望んだもの。右手が柳島橋となります。かつては、この「柳島」地域も商家などもあり、トロリー・バスも通り、ちょっとした賑わいもあったようですが、今は、静かな住宅地になっています。近くの錦糸町や吾妻橋の賑わいに比べれば、隔世の感があります。川の流れだけは、往時と変わらないのでしょうか。
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