駆け足でさらっと。月島駅から相生橋、中の島公園(江東区内)、石川島公園、佃公園、もんじゃ、佃煮、佃島渡船、そして佃大橋を渡って湊へ・・・。今回はその1。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
「旧佃島」「新佃島(の一部)」「石川島」のみ。下方の「月島」は土地の形をなしていなかった。「石川島」には、「石川嶋造船所」(1853《嘉永6》年創設。 「石川島播磨重工業」の前身)。島の中央部分には、「石川嶋監獄署」(江戸時代後期の、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設「人足寄場」がその前身)。赤い線の部分が現在残っている入江・堀割(「佃公園」の一部をなす)。
ほぼ同じ場所の1980年代の頃のようす(「同」より)。石川島播磨重工業が中央に(船舶製造部門の工場は豊洲へ移転している)。
相生橋。江東区越中島と中央区佃島(月島)を結ぶ。
石川島・佃島の南側に位置する月島は、1892年(明治25年)ころから隅田川の浚渫によって築造され、次第に工業地区として発展しました。しかし、行き来は、西側の築地方面からの橋がなく、佃島の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しのみでした。
そこで、北東に位置する深川側と結ぶことに。川の中にあった中之島を挟んで、「相生大橋」、「相生小橋」が1903年(明治36)年に完成。
1909(明治42)年ころのようす(「今昔マップ」より)。
1923年(大正12)年には橋幅を広げ、月島まで市電が開通することとなりました。
しかし、まもなく、関東大震災によって焼失してしまい、1926年(大正15)年、震災復興事業の最初の橋として再び架橋されました。
1939(昭和14)年ころのようす(「同」より)。赤い線が市電(後の都電)。
1980年(昭和55年)には、小橋下が埋め立てられて、中之島が地続きとなり、さらに交通量の増大に伴って、1998年(平成10年)に現在の橋に架け替えられました。
橋のたもとにある解説プレート。
江東区「中の島公園」。これまでのいきさつが記されている。
感潮池の説明板。潮の満ち干によって水位が上がるようすが実感できる仕組み。
中央奥は、晴海地区。
公園の先端。右に見えるのが相生橋。
石川島公園から南東・豊洲地区を望む。
現在、ショッピングセンター・アーバンドックららぽーと豊洲(2006年10月5日に開業)として賑わう地域もかつては、旧石川島播磨重工業(現・IHI)東京第一工場があって、盛んに造船で賑わっていた。
1980年代の頃のようす(「同」より)。まさに隔世の感がある。
護岸堤防。
海水館の碑。
海水館の碑
所在地 中央区佃三一丁目一一番一九号先
ここは明治二十九年(一八九六)に完成した新佃島埋立地の一部で、房総の山々を望むことのできた閑静な景勝地でした。
ここに明治末から大正年間にかけて多くの文化人が集った海水館がありました。
海水館は坪井半蔵(つぼいはんぞう)によって明治三八年に開業した割烹旅館兼下宿で、当時の京橋区新佃東町一丁目二六、二七番に建築されました。
島崎藤村(しまざきとうそん)は明治四十年から四十一年にかけて海水館に止宿して自伝小説「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫(おさない かおる)は明治四十二年から四十四年にかけて止宿して「大川端」を読売新聞に連載しました。
他にも荒畑寒村(あらはた かんそん)・木下杢太朗(きのしたもくたろう)・佐藤惣之助(さとう そうのすけ)・竹久夢路(たけひさ ゆめじ)・日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ)・三木露風(みき ろふう)・横山健堂(よこやまけんどう)・吉井勇(よしい いさむ)ら多くの作家・芸術家が利用し創作活動を行いました。
この碑は昭和四十三年(一九六八)、藤村の母校である明治学院大学藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」に執筆由来の記が記されています。
平成二十一年三月 中央区教育委員会
碑の裏面。
児童公園にあったモニュメント。「月島」に因んだ絵柄。
埋立当時の月島は、富国強兵の国策に沿った重工業地帯とされ、鉄工所が多く造られた。工場、商店が多かった。
1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、隅田川、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられ、月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成した。
地名の由来は、東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたという。もともとは「築」島から来ていると思うが。
東京湾の最奥部にあたる。右手に「佃島水門」。
未だに残る昔ながらの木造家屋。
通りの沿った棟割長屋風の一角。途中新築の家を挟んで何軒か続いている。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
「旧佃島」「新佃島(の一部)」「石川島」のみ。下方の「月島」は土地の形をなしていなかった。「石川島」には、「石川嶋造船所」(1853《嘉永6》年創設。 「石川島播磨重工業」の前身)。島の中央部分には、「石川嶋監獄署」(江戸時代後期の、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設「人足寄場」がその前身)。赤い線の部分が現在残っている入江・堀割(「佃公園」の一部をなす)。
ほぼ同じ場所の1980年代の頃のようす(「同」より)。石川島播磨重工業が中央に(船舶製造部門の工場は豊洲へ移転している)。
相生橋。江東区越中島と中央区佃島(月島)を結ぶ。
石川島・佃島の南側に位置する月島は、1892年(明治25年)ころから隅田川の浚渫によって築造され、次第に工業地区として発展しました。しかし、行き来は、西側の築地方面からの橋がなく、佃島の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しのみでした。
そこで、北東に位置する深川側と結ぶことに。川の中にあった中之島を挟んで、「相生大橋」、「相生小橋」が1903年(明治36)年に完成。
1909(明治42)年ころのようす(「今昔マップ」より)。
1923年(大正12)年には橋幅を広げ、月島まで市電が開通することとなりました。
しかし、まもなく、関東大震災によって焼失してしまい、1926年(大正15)年、震災復興事業の最初の橋として再び架橋されました。
1939(昭和14)年ころのようす(「同」より)。赤い線が市電(後の都電)。
1980年(昭和55年)には、小橋下が埋め立てられて、中之島が地続きとなり、さらに交通量の増大に伴って、1998年(平成10年)に現在の橋に架け替えられました。
橋のたもとにある解説プレート。
江東区「中の島公園」。これまでのいきさつが記されている。
感潮池の説明板。潮の満ち干によって水位が上がるようすが実感できる仕組み。
中央奥は、晴海地区。
公園の先端。右に見えるのが相生橋。
石川島公園から南東・豊洲地区を望む。
現在、ショッピングセンター・アーバンドックららぽーと豊洲(2006年10月5日に開業)として賑わう地域もかつては、旧石川島播磨重工業(現・IHI)東京第一工場があって、盛んに造船で賑わっていた。
1980年代の頃のようす(「同」より)。まさに隔世の感がある。
護岸堤防。
海水館の碑。
海水館の碑
所在地 中央区佃三一丁目一一番一九号先
ここは明治二十九年(一八九六)に完成した新佃島埋立地の一部で、房総の山々を望むことのできた閑静な景勝地でした。
ここに明治末から大正年間にかけて多くの文化人が集った海水館がありました。
海水館は坪井半蔵(つぼいはんぞう)によって明治三八年に開業した割烹旅館兼下宿で、当時の京橋区新佃東町一丁目二六、二七番に建築されました。
島崎藤村(しまざきとうそん)は明治四十年から四十一年にかけて海水館に止宿して自伝小説「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫(おさない かおる)は明治四十二年から四十四年にかけて止宿して「大川端」を読売新聞に連載しました。
他にも荒畑寒村(あらはた かんそん)・木下杢太朗(きのしたもくたろう)・佐藤惣之助(さとう そうのすけ)・竹久夢路(たけひさ ゆめじ)・日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ)・三木露風(みき ろふう)・横山健堂(よこやまけんどう)・吉井勇(よしい いさむ)ら多くの作家・芸術家が利用し創作活動を行いました。
この碑は昭和四十三年(一九六八)、藤村の母校である明治学院大学藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」に執筆由来の記が記されています。
平成二十一年三月 中央区教育委員会
碑の裏面。
児童公園にあったモニュメント。「月島」に因んだ絵柄。
埋立当時の月島は、富国強兵の国策に沿った重工業地帯とされ、鉄工所が多く造られた。工場、商店が多かった。
1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、隅田川、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられ、月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成した。
地名の由来は、東京湾内にあった月の岬という月見の名所から名付けられたという。もともとは「築」島から来ていると思うが。
東京湾の最奥部にあたる。右手に「佃島水門」。
未だに残る昔ながらの木造家屋。
通りの沿った棟割長屋風の一角。途中新築の家を挟んで何軒か続いている。
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