おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

江東区立八名川公園(八名川小)。新大橋。六間堀。(震災復興52小公園。その13。)

2013-12-02 19:33:36 | 震災復興小公園
 久々に自転車で遠出。震災復興小公園シリーズの江東区編。29日の東京地方は、晩秋の冷え込み。しかし、空はどこまでも青く、澄み切って気持ちがいい。「清澄通り」から「永代通り」、「四つ目通り」から「三つ目通り」・・・。下町の通りを西に東に南に北に。「小名木川」、「大横川」、「竪川」と運河・川の多い街並みでもありました。

①八名川公園(八名川小)

都営新宿線森下駅の南西に位置する。こぢんまりとした広場が中心。
ラジオ体操会場にもなっている。年中無休・江東区では初の会場だったらしい。
藤棚をあしらったテラスはなかなか立派。
藤の古木。
公園側の通用門。公園とは、他の場所ではフェンスで仕切られている。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫が。
震災復興校舎(「八名川小」HPより)
 「1929年(昭和4年)3月 現在の場所に鉄筋コンクリート3階建の校舎が完成、落成式挙行。」と沿革史にはあります。

校内にある旧「新大橋」の橋名板。


 志ん於ほはし
 この橋名板は、明治45年に架けられた新大橋の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年完成)に架け替えられるまで、江東区側の正面上部のアーチを飾っていたものです。新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として、元禄六年(1693)に架けられました。明治時代になり、橋の交通量が増加したため、それまでの木製の橋から鉄橋に替わり、同時に約200m上流の現在地に架けられました。周囲の飾りは大半がはがれ落ちてしまい、中央の「志ん於ほはし」(しんおおはし)の文字も跡が残るのみとなっています。写真は昭和30年ごろの新大橋ですが、文字は「志んおおはし」となっています。おそらく戦後、橋の改修をした時に文字の部分も修復したのでしょう。
 昭和48年に新大橋の架け替えが決定し、それまでの橋が取り外されることになりました。八名川小学校PTAを中心とした地域の人びとは、町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として、この橋名板を保存することを希望し、ここに残されました。
 なお、中央区側の橋の一部は、明治の面影をとどめる橋として明治村(愛知県犬山市)に移され保存されています。
   平成18年11月                        江東区教育委員会

「新大橋」橋桁。現在の「新大橋」は中央区日本橋浜町 と 江東区新大橋の間にあり、「新大橋通り」 が渡る橋。

 最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)。隅田川3番目の橋で、1番目の「(千住)大橋」に対して、「新大橋」と名づけられました(2番目に架けられた橋は「両国橋」)。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を綱吉に勧めたと伝えられています。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としました。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
架設中の橋を見て
「 初雪や かけかかりたる 橋の上 」
完成した 『新大橋』 を渡って
「 ありがたや いただいて踏む はしの霜 」
 明治になってからもこの橋はずっと 木橋 でしたが、明治45年(1912) になって、道路橋としては日本初の鋼製トラス橋が架けられました。上にもあるように、その一部は愛知県犬山市の 「明治村」 に保存されている、とのこと。

 この橋は、大正12年(1923) の関東大震災にも崩れませんでした。関東大震災では、「隅田川」 に架かる橋は、火災を逃れてきた人々で溢れていました。ところが、ほとんどの橋は鉄橋であっても床材が木製であったため、市街地の火災が橋にも引火して、多くの犠牲者を出しました。そんな中で、全ての構造が不燃材で出来ていた 『新大橋』 は炎上を免れ、結果的にたくさんの避難住民の命を救うことになりました。これ以来 『新大橋』 は 『ひとたすけ橋』 と呼ばれるようになりました。
新大橋西詰めにある大正12年に起こった関東大震災「避難記念碑」。碑文によれば、神の助けと人智により、隅田川に架かっていた橋の中で焼け落ちなかった「新大橋」上で九死に一生得たことを記念したもの、と。
見上げるほど大きな碑。

「旧新大橋」(明治時代)。この図柄に見える「親柱」が東詰に残されています。
絵の右側に描かれているもの。
装飾的にも趣のある柱です。
「大はしあたけの夕立」(安藤広重作)のモニュメント。

 現在の 『新大橋』 は、昭和51(1976)年 に架け替えられたもの。橋の中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で、名橋といわれた旧トラス橋の名声や、歴史のある 『新大橋』 の名を汚さないようにと、そのデザインには特に力を入れたようです。
 (「東京探訪」HP参照)
「新大橋」の全景。
下流の対岸。
テラスにある案内板。「新大橋」の木橋時代の絵が掲示されています。また、そこには「隅田川は最上流の北区・岩淵水門から中央区・浜離宮庭園まで延長23.5㎞」とも記されていました。

 「八名川公園」は、旧「六間堀」に沿ったところ。公園に絵図が掲示されています。
「本所深川繪図」。赤丸が公園の位置。右(北)が「竪川」、左(南)が「小名木川」。二つの運河を結んでいたのが「六間堀」。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八名川」という地名と「六間堀」が描かれています。
その上流付近(「同」)。右からの流れが「五間堀」。カギ型の一部が現在も墨田区と江東区の区界として残っている。

1970年代のようす(「同」)六間堀は埋め立てられましたが、八名川小学校・公園脇の道路がその跡になっています。

 この付近は、池波正太郎「鬼平犯科帳」の世界でもあります。以下、以前のブログを再掲(2009/5/25)。

 両国駅を出て清澄通りを南に下って行くと、江東区森下町界隈。地図で確認すると、三角形に区切られて区界がある。道路も清澄通りを横切っている。顕著な道筋ということが分かる。区界が新大橋通りと清澄通りという二本の大きな通りで区切られているのではないことに気づく。ここに、五間堀と六間堀があった。もともとは、本所の竪川と深川の小名木川をつなぐ(小名木川まで開通するのは後代)の堀割。
 写真は、五間堀公園、五間堀の跡。都営地下鉄「森下町」駅の地上入口付近。清澄通りを渡ったところには、「弥勒寺橋」跡の標識があり、六間堀のいわれも記されている。この辺りは、東京大空襲で瓦礫が川筋に埋まってしまった。そのためか、戦後すぐに埋め立てられ、今は跡形もない。区界なのがその唯一の「痕跡」。
 この辺りは、「鬼平犯科帳」の世界だ。
 
 六間掘川南端にかかる猿子橋の西たもとは、右が幕府の御籾蔵、左が深川元町の町家であった。その御籾蔵の角地へうずくまっている市口瀬兵衛の前に、現れる長谷川平蔵。「市口さん。いよいよですよ」「天下泰平の世にお笑いくださるな」「何をもって」「かほどのわが子は可愛いものでござる。そのわが子を討った仇が、なんの罰も受けず、ぬくぬくと暮らしておること、許せませぬ」「私も三人の子持ちでござる。よろしいか。私が先に出て行って、浪人どもを駕籠から追い払う。そのとき名乗りをあげて、突きかかるがよろしい」「はい」
 平蔵は瀬兵衛老人のやせこけた両肩を優しく何度もさすってやる。「ご老体。死ぬるということは、思いのほか簡単なものらしい。いざとなれば、少しも恐ろしくないそうな」そして駕籠がやってくる。平蔵は峰うちにして浪人や駕籠かきどもを追い払う。駕籠の中から海坊主のような大男が出てくる。「山下藤四郎。市口伊織が父、瀬兵衛清定ぞ」かすれ声を振り絞って名乗る瀬兵衛。山下藤四郎は信じられぬ顔つきになる。そんな山下に瀬兵衛は腹へ刀を突き込む。
 翌朝になって、平蔵は役宅に戻る。与力や同心たちが緊張の面持ちで平蔵のそばに駆け寄る。長官が二夜も役宅を留守にしたのだから、何か異変があったと思うのが当然であった。「なんでもない。ちょいと遠出をしたのだ。たまにはよかろう」長谷川平蔵は寝間の床にもぐりこむ。目を閉じると、今朝暗いうちにお熊の茶店から去った市口瀬兵衛の小さな後姿が浮かんできた。瀬兵衛は妻と二年も会っていなかった。(ふふ。猿子橋界隈は、昨夜の事件で大変なことだろう。それにしても、あの老人、どこの家中だったのか)もう考えをめぐらすのも面倒になり、平蔵はここちよい眠りの底へ落ちていった。(池波正太郎『寒月六間堀』より)

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