「小見川大橋」。
河口方向。
12/18(土)。夕方から来客があるため、佐原駅まで。約13㎞。
快晴、しかし、北西の風すこぶる強し。
利根川の土手(サイクリングロード)に上がったとたん、強風に煽られて、歩くのも厳しい。吹き飛ばされて土手下にでも転落したらオオゴト! 川面も波立って、対岸の工場、煙突の煙は、上に上がること無く、まったくの水平に。
晴れても北風が強い、この季節、すこぶる無謀な歩きです。
以前、真冬の「水戸街道」歩きで、吹きさらしの田んぼの中を歩いたことがあります。その時は、「筑波山」が北の方、遠くに見えて、これが天下の筑波颪(おろし)か、と。
今回も「筑波山」を遠くに見ながらの歩き。途中、土手歩きをやめ、土手下に下りてみても強風は防ぎようがない!
銚子に向かう(河口に向かう)サイクリングを数人見かけたくらい。風を背にしての快調な走り? でも、寒さは防ぎようも無いようす。
ジョギングは青年が1名、歩きは、すれ違った3名のみ。それぞれ当方を見て、・・・。
犬を連れての散歩は、0。
ということで。
「海から27.0㎞」ポスト。
「小見川大橋」。
1973年(昭和48年)8月1日に開通。工期は5年8ヶ月間、総工費は21億円。6連のランガー橋である。橋長822.2 m。管理は千葉県知事が行う。
昭和40年代の鹿島臨海工業地帯の開発に伴い、小見川には住金団地が造成された。しかし小見川と神栖の間には渡船しかなかったため、工場への通勤に渡船を使っていくという状態であった。また、小見川市街地の振興のためにも大橋建設をという機運が高まり、小見川大橋が千葉県により建設された。
現在では千葉県と茨城県鹿島地域を結ぶ幹線道路となっているが、片側1車線であるため朝夕を中心に混雑が激しい。近年、利根川北岸の交差点寄りが拡幅され右折車線が設置された。
※神栖渡船
明治13年(1880)の記録によると、人・牛馬・車ともに5銭の渡し賃で、息栖、小見川両岸でそれぞれ渡船を経営したと言われている。昭和7年(1932)には両岸有志の共同出資による「水郷息栖小見川渡船株式会社」が設立され渡船業務を行っている。
昭和28年(1953)には同者の営業権の譲渡を受けて、小見川町町営渡船となり、1日8回の運行を行った。この年度の乗客延人数は19万6千人と記録されている。昭和30年代は、第一小見川丸から第六小見川丸まで六隻を保有し、経済交流だけではなく、千葉県側の高校への登校の交通手段としても大きな役割を果たしていた。
昭和48年(1973)小見川大橋の完成により、幾世紀にわたる水上交通の拠点としての津・渡船場の役割を終えた。
平成22年 神栖市教育委員会
(この項、「イバラキノート」HPより)
なお、「広報かみす」2021年12月1日号で「渡船物語」として、取り上げられています。
遠くに筑波山がくっきりと(↓)。
60年以上、昔に通っていた小学校の校歌でも「東に筑波、西に富士」という歌詞がありました。筑波山は関東地方に住む人間にはなじみの大変深い山です。
今回は、強風に煽られつつ、秀峰・筑波山を遠くに見ながらの歩きでした。
土手下を歩くも、稲刈りを終え、すっかり何も無くなった田んぼを渡る風がすこぶる冷たい。
強風にそよぐ葦の原。
鹿島臨海工業地帯に立ち並ぶ煙突の煙は雲と一体化。
「海から30.0㎞」ポスト。3キロを40分。
土手下の砂利道に下りたり、土手に上がったり、・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます