城ヶ島大橋。
久々の三崎口駅。そこからバスで、城ヶ島へ。久々。7.8年ぶり?
今日は、一転して雨模様。しかし、昨日、8月27日(土)は、快晴。暑い日差しに参った、参った。
遊覧船が通過。
「城ヶ島大橋」解説板。
三崎港の天然の防波堤城ヶ島は、北原白秋の詩で有名な島です。漁港の整備のために、従来の渡し舟にかわって三崎と島を結ぶ城ヶ島大橋が昭和35年(1960)4月に完成しました。
城ヶ島大橋は、全長375㍍、幅7㍍の車道、その両側に幅2㍍の歩道があります。我が国では最初の本格的なもっとも長い鉄鋼の橋で、はこ形の橋桁を用いて軽量化をはかり、高度の技術を用いて2020トンの重量にも耐えられるようにしてあります。
橋脚の海面からの高さは、最大で23.5㍍、海面下は18㍍で、安定度の高い構造で千トン級の船がこの下を楽に航行できるボックス・ガータ式の橋として当時は東洋一を誇っておりました。・・・
この橋の下に北原白秋の碑があります。
雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる(草書)※白秋の自筆。
全文は、
雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か夜明の霧かそれともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく通り矢のはなを濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる日はうす曇る舟はゆくゆく帆がかすむ
「城ヶ島の雨」は大正二年恰度私が相州三崎の城ヶ島の前に住んでゐた頃、芸術座音楽会のために舟唄として作ったものである。この舟唄は梁田貞氏の作曲で、その会で唄はれた。近頃聞けばかの地では今は船頭たちまで唄ってゐるさうである。さうなってくれるとうれしい。(大正8年白秋小唄集覚え書より)
昭和24年7月10日、建碑が除幕されました。高さ3m余、下太の帆型の根府川石で、城ヶ島の雨の一節の草書は白秋の自筆です。
昭和35年4月17日、城ヶ島大橋架橋により現在地に移転され、梁田貞の譜碑が添えられました。
この詩碑は、白秋謝恩の文学記念碑として本来第1号の碑となるはずでしたが、戦時中、城ヶ島は要塞地帯に指定されたため実現しませんでした。白秋が生前希望した「帆型の石が荒磯に突き差したように」を具現して建てられました。
「城ヶ島の雨」は、大正2年10月27日夜、東京から催促に見桃寺を訪れた岩崎雅道に渡したと言われています。
大正2年10月30日、東京有楽座で作曲者梁田自身の独唱で発表されました。
(この項、「」HPより)
※「利久鼠の雨」とは、暗い緑に灰色をまぶしたような雨のこと。
橋の下の磯で遊ぶ親子。
「城ヶ島公園」に向かいます。
駐車場からの城ヶ島大橋。
「白秋文学コース 遊ヶ崎」。
しんしんと 夕さりくれば 城ヶ島の魚籠押し流し 汐満ちきたる
城ヶ島 さっとひろげし投網のなかに 大日くるめきにけり
遊ヶ﨑は鎌倉時代、源頼朝が遊覧のおり諸将と共に宴席などを催したところからその呼び名が生まれたといわれ、白砂の美しい海岸で埋め立て以前は海水浴場となった時代もあります。
三崎港を隔てた向ヶ崎に住んだ白秋は、朝に夕に、月齢の応じた汐の干満に、詩境を展開していったのでした。
さんさんと 海に抜手を切る男 しまし目に見え昼ふかしも
海峡の自然に誘われ、その魅力に沈潜してゆく姿や遊ヶ崎に遊泳する人々の躍動に、白秋の心の描写がうかがわれます。
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