今回は、「多摩川駅」まで、都営三田線・東急目黒線「海老名」行きの電車で向かいました。
1月18日(土)。晴れ。けっこう風が冷たく寒い一日です。
「桜とあじさいの町 たまがわ」。
「多摩川」土手に出ます。
対岸遠くに真白の富士山が(↓)。
丸子橋。
丸子橋は、丸子の渡しがあった場所からおよそ200メートル上流に中原街道の新橋として、1934年(昭和9年)に完成した。完成当時は片側一車線道路の橋で、その後、老朽化と交通量増大に対応するため、東京都と川崎市が共同で架け替え事業に着手し、2000年(平成12年)5月に片側2車線の新しい橋への架け替えが完成した。これが現在の丸子橋である。
2002年(平成14年)に丸子橋北詰付近にアザラシのタマちゃんが出現し、マスコミで取り上げられ、見物客も訪れ賑わった。
様々なテレビドラマ等のロケ地としてよく使用される。丸子の渡しに通じていた中原街道旧道の坂道部分は桜坂と名付けられ(大田区田園調布本町)、歌謡曲にも取り上げられて桜の名所となっている。
丸子の渡し
古代から多摩川のこの地に丸子の渡しと呼ばれる渡し舟が存在した。武蔵国の荏原郡と橘樹郡との境界を多摩川が流れ、この地点が両郡の交通接点だった。古代の東海道もこの渡しで通過することとなった(771年以降)。府中市史によると承和2年(835年)には既に運航されていたとの記述がある。
東京方面への唯一の交通機関だったが、悪天候の日には運航中止となるため、1884年(明治17年)から橋の建設のための運動が行われた。
その後、架橋により丸子の渡しは1934年(昭和9年)12月に廃止された。2006年に地域住民により「丸子の渡し復活協議会」が結成され、2014年から年に一度「丸子の渡し」を再現するイベントが開催されている。
(この項「Wikipedia」参照)
※今の中原街道は多摩川の堤防で切れているが、大正8(1919)年までの街道は川岸の渡船場、そして対岸の東京と結ばれていた。
丸子の渡しの渡船の権利は、大正15(1926)年に道路法が改正されるまで、対岸の下沼部村と上丸子村、そして大貫重兵衛の3者が持っていた。そして利益を分けあっていた(10日間ずつ管理していた)。
江戸時代には、渡船の権利は東京の下沼部村と上丸子村の3人が持っていた。上丸子村の3人は、二子村の大貫市郎兵衛に渡船の権利を55両で譲渡したので、下沼部村と大貫市郎兵衛の2者が渡船の権利を持つことになった。
宝暦10(1760)年、上丸子村は「市郎兵衛が持っている権利を上丸子村に譲れ」と訴えた。その結果、市郎兵衛の権利の半分を上丸子村に譲ることになった(下沼部村と上丸子村と大貫市郎兵衛の3者となる)。
多摩川の水かさが増すと、渡船の料金が高くなるようになっていた。
普通の深さ(1.5m)より更に1.5m水かさが増すと「渡し止め」になり、船は動かなくなった。
渡船は4月から10月までの時期に行い、水枯れの10月から3月までの間は、仮橋を架けていた。仮橋は長さ70m、幅は1.8mの木橋だった。しかし砂利採集船の往来が激しくなると、橋を架けることができなくなった。
渡船は2隻あり、船頭が1~2人乗船していた。船の上には厚板が敷きつめられ、人が乗るとつかまる所がなかった。
荷車は、船の高さに合わせた船着場から乗せた。馬力(馬車)を乗せる時は、馬が暴れだして危険なことがよくあったという。
「丸子の渡し」は昭和9(1934)年12月に廃止になるまで(丸子橋の開通)、東京-中原(平塚市中原)を結ぶ唯一の交通機関だった。
昭和初期には東京五反田・三軒茶屋方面に、田畑の肥料として人糞を集め運ぶ街道として栄えた。中原街道のことを「こやし街道」と呼んだほど、沢山の肥桶を運ぶ車が通行していた。
夜明け前の早朝から家を出て愛宕下に昼頃着き、帰りは夕方暗くなってからだったという。急坂が多く、帰りは人糞を荷車に積んでいるので、かなり苦労したという。
(この項「」HPより)
旧橋の親柱。
この付近の今昔。
(現在)対岸・左端に少し見えるのが「中原街道」。
河川敷が広く整備されていて、渡し場の痕跡はない。
(1880年代)「旧中原街道」は渡し場をはさみ、直線で西に進む。
さて、「丸子橋」を渡り、対岸へ。
左に見えるタワーマンション群は、武蔵小杉駅付近。新旧の「中原街道」は、橋を渡ったあと、右に曲がっていきます。
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