「暗闇坂」の上で「大黒坂」と「一本松坂」と出会います。左に下りる坂が「大黒坂」。その坂を下りる途中、「七面坂」。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
中央付近の十字路が「暗闇坂」(北から上ってくる坂)、「大黒坂」(東から上ってくる坂)、「一本松坂」(南に上っていく坂)、「狸坂」(西へ下りる坂)とが交わる地点。今もほぼ当時のままの道筋です。
「暗闇坂」から左に折れ、「大黒坂」を下ります。
坂下から上を望む。正面奥が十字路。
大黒坂(だいこくざか)
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。
「大黒坂」を少し下って行くと、左手の下り坂が「七面坂」。
七面坂(しちめんざか)
坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
坂を上って元のところへ。今度は、南に向かいます。角に標識と「一本松」があります。
一本松坂(いっぽんまつざか)
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。
一本松の由来
江戸砂子によれば天慶2年西暦939ごろ六孫源経基 平将門を征伐して皈(「帰」の異体字途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
注 古樹は明治9年辰年焼失に付き植継ぎ 昭和20年4月又焼失に付き植継ぐ。
一本松。
その坂を上ると左手にあるマンション。「元麻布フォレストタワー」。
この付近の案内図。
再び十字路に戻って、今度は西に向かいます。「狸坂」。
狸坂(たぬきざか)
人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。
坂沿いのお屋敷。
坂下から上を望む。
この付近には、「宮村坂」、「狐坂」があるようですが、道に迷ってうろうろしていると、「中国大使館」の警備にあたる機動隊員があちこちに。「麻布高校」と「中国大使館」との路地を行ったり来たりしましたが、・・・。そのまま「狸坂」に戻って坂道を下ってしまいました。その坂が「狐坂」?
そして、右に折れて「北条坂」の方向へ進みました。
「愛育病院前交差点」を右に折れると、「北条坂」。
北条坂(ほうじょうざか)
坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためにこの名がついた。
坂下は「外苑西通り」になります。下の方の坂には「鉄砲坂」という標示がありました。
鉄砲坂(てっぽうざか)
江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた
「中国大使館」前の通りの西側には「中坂」、「芥坂」、また「大横丁坂」とかあるらしいので、再び戻って「中国大使館」前をうろちょろしましたが、機動隊が交通規制を始め、警察車両も出てくるようなものものしさに諦めました。
「麻布税務署」の先の信号を左折、「富士見坂」(「大横丁坂」? )。
「内田坂」から「妙経寺」の脇の階段を下りて「さくら坂」に出ました。
さくら坂(旧玄蹟坂)。
「六本木ヒルズ」建設に伴い新たに作られた道です。もとの玄碩坂です。その名の通り、桜並木の美しい道です。
<番外>
玄碩坂(げんせきざか)
近くに玄碩という僧が住んでいたので、坂名にしたと言い伝えている。藪下という所へおりる坂で藪下坂とも呼んだ。
六本木ヒルズの建設に伴い、この坂道の風景は写真にあるかつてのものから現在大きく様変わりし、現在玄碩坂は「さくら坂」と 呼ばれる坂になっています。写真に見える標識も撤去されています(2003年5月)。
(この項、HPより拝借しました。)
坂の途中の公園。子ども達の元気な声が。
駐車場の案内を兼ねて案内図があちこちに。
ただ、「さくら坂」か「けやき坂」かがはっきりしないような表記になっています。特に左の案内図。
これには「さくら坂」(→)と。
これが「けやき坂」。
「さくら坂」同様に六本木ヒルズ完成に伴いできた坂道です。六本木ヒルズの目抜き通り。
1880年代のようす(「同」より)。
中央付近が現在の「テレビ朝日」、「六本木ヒルズ」などの地域。毛利庭園の池は規模は縮小されていますが、残っています。
「玄碩坂」は、「さくら坂」になりました。現「けやき坂」は新しくつくった坂。
「六本木ヒルズ」の西側の通りは寺町通りだったことが分かります。「妙経寺」、「専称寺」、「長幸寺」などが今も残っています。
結局、駆け足での探訪。どこにも寄らず、暑い日差しの下でした。今度はゆっくりと散策したいものです。
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